第三話 わすれもの
セムリナ公国の冬は、中央大陸で最も過ごしやすい。
首都セムリナパレスには南国特有の花々が咲き誇り、白一色に閉ざされるガズリストグラードなどとは天と地ほども違う。
その色とりどりの花が目を楽しませる庭園。
「‥‥‥‥」
テオドール・オルローは大きく息を吐いた。
楽園のような景色も、たいして心を慰めなかった。
緑の瞳には憂色が濃い。
「むくつけき男が花の中で溜息を吐く図か。
絵にならないな」
不意に背後から声がかかる。
振り向かなくともわかる。
軍学校以来の親友だ。
「‥‥ひどい言われよう。
自分、なにかリアンの恨みを買ってたっけ?」
無理におどけた表情を作るテオドール。
リアンと呼ばれた女性がごくわずかに眉を動かしたが、
「一山いくらで売れるほど」
冗談で切り返す。
「ぐっは‥‥」
「ふふふ」
彼女の名はリアノーン・セレンフィア。
テオドールとはもう七年ほどの付き合いになる。
「ところで、何を悩んでいたんだ?」
「なんでもないよ」
「セラフィン殿のことだろう」
「‥‥‥‥」
「顔に書いてあるぞ」
「‥‥自分は、引き金を引いてしまった」
呟く。
ティターニアに乗ってアイリーンを脱出したとき、追撃してきたレッドスピネルに逆撃を加えたのはテオドールである。
もちろん指示したのはサミュエル・スミスであるが、それに応じて魚雷の発射スイッチを押したのは彼だ。
あの船には、セラフィン・アルマリックが乗っていたのに。
あの娘は一発も撃たなかったのに。
「自分は‥‥取り返しのつかないことをしてしまった‥‥」
「まあ、セラフィン殿が亡くなっていれば、その通りかもしれないな」
「リアン?」
「つい先ほど入った最新情報だ。
レッドスピネルの乗員は、艦長を含め全員無傷だそうだ」
「そう‥か‥‥」
安堵の息を吐きかけ、首を振る。
たとえ無事だったからといって、自分が恋人を撃ったのだという事実は変わらない。
「でも‥‥無事で良かった‥‥」
「そうだな。
今のところは」
「いまのところ?」
「セラフィン殿はレッドスピネルを失って謹慎している。
だが、このまま隠者として終わるはずがない」
「‥‥‥‥」
含みのあるリアノーンの言葉が、テオドールの心をえぐる。
セラフィンほどの乗り手を、軍が使わないわけがない。
今は謹慎させていたとしても、いずれ海に、すなわち戦場に出てくることは必然のようなものだ。
そのとき、
「自分はもう一度セラフィンと戦わなくてはならない‥‥」
「次は負けてやろうなどと考えているのではあるまいな?」
「そんなことは‥‥」
「大ありだろ。
困った奴だ」
「‥‥‥‥」
「閣下から、これを預かってきた」
唐突に、リアノーンが紙を取り出す。
「転移魔法陣‥‥」
「行ってこい。
SSSの侍従武官としてではなく一人の男として、と、閣下がおっしゃっていた。
私も同意見だ」
「‥‥‥‥」
無言のまま、紙を受け取るテオドール。
決意の色を瞳に宿して。
銃声が轟く。
カウンターの内側に設置された魔導通信機が、煙をあげていた。
飛び散る青いスパーク。
信じられないものを見るように、客たちがセラフィンを見つめる。
テオドールの、突然の来訪。
捕縛しようと動くイブレット・シャーロンやアロス・ティ・フォルフィード。
魔銃に手をかけたジョナサン・ファウザー。
だが、ガンマンよりも速く抜いたセラフィンが発砲した。
誇りあるアイリン軍人としてなら、その銃口はテオドールに向けられるべきだっただろう。
「みんな‥‥ごめん」
言葉とともに走り出すセラフィン。
テオドールとともに。
それは、二度と戻れぬ道。
裏切り者の汚名を背負う、茨の道。
それでも、
「この手は、もう二度と放さないっ!」
「嫌だといっても、俺が放さないさっ!!」
夜明け前の街路を男女が駆ける。
大陸暦二〇〇五年一月二五日。
海軍中佐セラフィン・アルマリックとその友人がアイリンから消えた。
「そなたを海軍中佐に任じ、来週竣工予定の新造巡洋艦の艦長に任じる」
「小官が‥‥ですか?」
アイリン軍の中枢、大本営。
さらにその心臓部ともいうべき、王国軍最高司令長官室。
黒髪の女将軍からの辞令は、突然であり意外もあった。
ブリジット・ナイツ元中尉の蒼眸に不審の色が浮かぶ。
大尉と少佐を飛ばしての三階級特進である。
戦死者だってこんな待遇はない。
それとも特進の前渡しで、戦死してこいという意味だろうか。
「セラが、セムリナによって誘拐された」
さりげなく爆弾が投下される。
「なっ!?」
「と、公式記録には書かれるが、実際はあやつ自身の意思によってセムリナ‥‥というよりテオドールの元に走ったと言うところだろう。
強制されて行動するような娘ではないからな」
「‥‥‥‥」
奥歯をかみしめるブリジット。
自分の上司はわがままな人間だ。
だが、少なくとも責任感は人一倍強いと思ってきた。
だからこそ、これまで尽くしてきたのだ。
なのに‥‥。
「祖国を捨て‥‥情人に走ったというのですか?」
押し殺すような声。
苦い怒り。
あるいは、それは嫉妬だったのかもしれない。
彼女のように奔放には生きられない自分自身。
愛のために、恋人のために、友人のために、すべてを簡単に捨ててしまえるセラフィン。
あのように生きられたら、世界はどれほど広がるだろう。
しかし、それは不可能だ。
士官の服を着た以上、兵士たちの命に対して責任があるのだ。
それを簡単に捨てるなど‥‥。
「セラは強い。
あれほど軍艦を自分の手足のように使うものを、わたしは他に一人しか知らない」
不意に話題を変える司令長官。
「‥‥その一人とは?」
胸郭の激情を抑えながら、ブリジットが問う。
ごくわずかに女将軍が苦笑した。
「そなたは時々鈍感になるな。
セラに勝ち得る可能性のある者とは、他でもない、そなたのことだ。
ブリジット中佐」
「‥‥‥‥」
「SSSに度量があれば、おそらくセラはあの船を任されるだろう」
「‥‥‥‥」
「レッドスピネルが敗れた、あの船だ」
「‥‥ティターニア‥‥」
「どうだ?
勝てるか?」
「‥‥手加減をして勝てる相手ではありません」
「新造艦はレッドスピネルの二番艦だ。
すべての能力を挙げてセラを討て」
冷酷に響く言葉。
「微力を‥‥尽くします‥‥」
絞り出すように応えたブリジット。
制帽の鍔を下げ、表情を隠す。
どうして、誰も彼も自分の手の届かないところへいってしまうのだろう。
あの人が人生という舞台から退場し、今度はセラフィンまでも。
運命という名の神がいるなら、そいつはどこまでも悪意に満ちた存在らしい。
強くつよく握りしめた拳。
爪が皮膚を突き破り、血が滲む。
これから流れるであろう血に比較すれば、ごくごくささやかな量だった。
新たなる戦いの幕が、あがってゆく。