第一話 燃え上がる野心
ルアフィル・デ・アイリン王国の南部、セムリナ公国とをつなぐ主幹街道沿いにアザリア要塞はある。
現在建設中のアスカ要塞、バール国境を扼するデスバレー要塞に次いで、国内三番目の規模を誇る軍事拠点だ。
赤い砂岩作りの外壁の高さは地上一八メートルに達し、要塞主砲は数百の敵兵を一瞬で焼き尽くす。
そのアザリア要塞が攻撃を受けたのは、大陸暦二〇〇五年一月下旬のことである。
タティアナ・カイトスが描いた壮大な交響曲。
第一楽章のはじまりであった。
セムリナ公国のアイリン駐在大使、サミュエル・スミスは、ここ数日不機嫌の極みにあった。
もっとも、不機嫌でもそうは見えないのがサミュエルのサミュエルたる所以である。
相も変わらず、あくびを噛み殺しながら書類を決裁する彼の姿から、活発に活動を続ける脳細胞の動きを読むことは難しい。
不機嫌の原因、本国からの連絡が滞っていることだ。
過剰な干渉を嫌うサミュエルの性格から考えれば、むしろ喜ばしいことではあるのだが、必要な連絡すらないというのは困るし、情報が不足するというのも大いに困る。
大使館というのは、この時代、親善使節のたまり場ではない。
諜報活動の拠点であり、外交の最前線であり、権謀術数の発信源であるのだ。
むろんそれは単独でおこなわれるものではなく、本国との連携があってはじめて成立する。
にもかかわらず、
「とどいたのは、これ一つか」
苦虫をかみつぶす青年騎士。
執務机に放り出された密書を取り上げる。
提兵百万西湖畔 立馬覇山第一峰
ごく短い詩が紙面に踊っていた。
彼自身が放った密偵が持ち帰ったものである。
生まれ故郷であるセムリナに潜り込ませるというもの奇妙な話ではあるが、そうしなければ情報が入ってこないのだから仕方がない。
「これを陛下がな‥‥」
呟く。
密偵がもたらしたものは、公王リストグラが詠んだという詩だった。
西湖とは、アイリンの王都の西にある、あの西湖のことである。
一〇〇万の兵を率いて西湖の湖畔に立ってやろう。
そしてそれをもって覇権の第一歩としよう。
というほどの意味になろうか。
「にわかには信じがたいが‥‥」
公王リストグラという人は、とりたてて名君というわけではない。
才幹の面ではアイリン王マーツやルーン女王エカチェリーナに遠く及ばないだろう。
しかし、人格面での安定は列国の王に勝る。
領土的な野心もないし、戦争や流血を嫌う。
バール皇帝ミシエル・ガズリストなどとは比較にならぬほど穏和で、それだけに国民の信頼も厚い。
少なくともサミュエルはそう思ってきた。
そう思ったからこそ仕えてきた。
そのリストグラが、これほどまでに強烈な覇気を表明するとは。
「なにかが動き始めているのか‥‥?」
SSS。
サミュエル・スミス・オブ・セムリナの異名を持つ彼でも、この時点で全てを見通すことなど、できるはずもなかった。
目を開けていられないほどの閃光がホールを満たす。
「逃げるぞ! テオ!」
敬愛する上司の言葉を受け、テオドール・オルローが扉を蹴破る。
行きがけの駄賃で、そばにいたジョナサンとティアロットを弾き飛ばしてしまうが、いまさら謝罪のしようもない。
後戻りのできない道を、上司とふたり走り始めてしまったのだから。
暁の女神亭で、彼と上司が接した報は、セムリナ軍がアザリア要塞を攻撃している、というものだった。
それをもたらしたガドミール・カイトスがサミュエルに同行を求め、受諾するかに見えた上司が剣を抜き、一触即発の空気が流れた。
場面ごとの印象は強烈にあるのだが、順序立てた記憶にはなっていない。
気が付いたとき、彼は上司と肩を並べて夜の街を駆けていた。
「テオは残っても良かったんだぞっ」
「なにをいまさらっ!
こうなったら一蓮托生ですよっ!」
追跡してくる足音はない。
つまり、
「大使館に先に手を回しているということだな」
「あっちにはリアンが?」
「たぶん上手くやってくれているだろう」
にやりと笑うサミュエル。
悪戯小僧のようだ、と、テオドールは思った。
夜目にも、上司の瞳が爛々と輝いているのがわかる。
たとえ戻れぬ道と知りつつも、あるいはそれが滅びの道だとしても、この人と一緒なら笑いながら進める。
かつて、少年だったあの日、誓ったのだ。
ともに歩こうと。
そして、よろこんでこの人の盾になろうと。
「閣下っ!
テオっ!」
前方に、手を振っている人影が見える。
リアノーン・セレンフィアだ。
サミュエルの副官にして婚約者。
テオドールにとっては軍学校時代からの同期で親友である。
「すでにティターニアの出航準備ができております!
おはやくっ!」
「それは重畳。
大使館員に犠牲は出たか?」
「六名が軽傷を負っただけです」
「最初から手加減なしでやったな」
「相手は手加減してきましたから、それに乗じない手はありません」
「困った奴だ」
くすくすとサミュエルが笑い、リアノーンが婉然たる微笑で応えた。
サミュエルを捕縛するためにセムリナ大使館に赴いた赤の軍はあえなく敗退した。
相手が仮にも一国の大使であり粗略には扱えないということ。
戦闘ではなく交渉が目的だったということ。
そして、リアノーンをはじめとする大使館員たちが先制攻撃を躊躇わなかったことなどが理由として挙げられる。
「本国に戻って軍主力と合流する。
すべてはそれからだ」
「はっ!」
「了解しましたっ!」
頼もしげに上司を見つめるテオドールとリアノーン。
セムリナ軍旗を誇らしく掲げ、高速戦艦ティターニアが港を離れる。
一月二二日未明。
セムリナ軍艦が、我が軍の警戒網の強行突破をはかる。
我が艦が追撃するも、魔導吸着式魚雷によって逆撃を受ける。
一二本中二本の直撃を受け、我が艦は撃沈。
なお、人的損害はなし。
敵艦の勇戦と熟練に戦慄を禁じ得ない。
~撃沈された巡洋艦レッドスピネル艦長の報告書~