4-2 皇帝の仕事
月英達が去れば、部屋にはまるで嵐が去った後のような、得も言われぬ安堵感があった。
燕明は藩季がついだ茶に口を付け、ほうと息をつく。
「何か知らんが、我々もどっと疲れたな」
「月英殿のあの元気は、一体どこから来るのでしょうね」
「春兄弟の姿に心が痛んだよ……」
春廷と万里からの報告を総合すると、どうやら当初は狄の部族に捕まり、密偵疑惑をかけられて大変だったようだ。
しかし、その部族で病人が出て、それを春廷が治療するとなってからは、一転して信用を勝ち取り良くしてもらっていたらしい。
またその部族というのが、偶然にも琅牙族――亞妃の父親である烏牙石耶の部族だったいうのだから、不思議な縁を感じずにはいられない。
そうして当初の目的通り、亞妃の心の病を治療するのに必要なものを手に入れ、そろそろ萬華国に帰ろうと琅牙族と別れたところで、問題は起こったようだ。
医官達からも嫌な意味で一目を置かれている、月英の『香療馬鹿』が出てしまったのだ。
香療術に関する事となると、周囲が全く見えなくなるという例の悪癖である。
月英は視界に植物を見つける度に、あっちへ行っては「わおぅ!」と喜声をあげ、こっちへ行っては「ひゃっほう!」と奇声をあげていたらし。
直進すればすぐに穿子関だというのに、右に左に時には逆走までしはじめ、当初予定の三倍は時間がかかったという。
実に想像に難くなかった。
「今度の春兄弟の休暇は、多目に付けといてやってくれ」
「かしこまりました」
藩季は苦笑して頷いた。
「まあ、取り敢えずは、目的達成できたとのことで良かったな」
燕明は百華園のある方を向いて、心配そうに目を細めた。
「早速に、月英殿は香療房へと戻ってしまいましたね。今頃、亞妃様のことを想いながら、精油でも作っているのでしょうか」
「これで亞妃も月英も、心を晴らしてくれると良いのだがな」
「大丈夫ですよ。亞妃様のことを想い異国にまで行く彼女の優しさが、伝わらないわけがありませんから」
藩季がおかわりの茶を、空になった燕明の茶器に丁寧に注ぐ。
湯気と共に立ち上る香りには香ばしさがあって、美味そうだと燕明は思った。
以前までなら、このように茶の香りなど気になどならなかった。茶は茶、それだけであった。
しかし、月英と一緒に過ごすようになって、このような今までなら見逃していた些細なことにも気付き、感情を動かされるようになった。
何気ない場面から小さな愉しみを見つけ出せるようになり、日々が豊かになった。
彼女と一緒に過ごす内に、燕明の日常は実に鮮やかなものへとなっていく。
知らない香りを知り、知らない感情を知り――知らないことを知っていく日々の面白さは、何物にも代えがたい魅惑的な刺激であった。
「あいつには不思議な魅力があるな」
恐らくそれは、国の頂に立つ自分すらも持ち得ない力。
「月英殿には、裏や表という考え方がありませんから。全てに真剣で、全てに真面目。ただ前を見据えてひたすらに歩み続ける。それは、私達大人が生きていく中で、少しずつ捨ててきたひたむきさ。だから皆、目を奪われ心を打たれ、彼女と共にいたくなるのでしょうね」
感慨深そうに瞼を閉じた藩季の顔は、しみじみと幸せを噛み締めているようで、見ている燕明までも心が温かくなる心地だった。
「……裏表のなさ、な」
だからこそ、彼女の言葉はまっすぐに相手の心まで届く。
余計な警戒心や猜疑心を持たせないからこそ、すっと相手の心の奥――一番柔らかいところに触れることができるのだ。
「よくあんな劣悪な環境でひねくれず、こうも真っ直ぐに育ったものだな」
どれだけに悲惨な暮らしをしていたか聞いた時は、胸が痛くなったものだ。
「彼女の本性が根付くときに、溢れんばかりの愛を受けたのでしょうね」
ほんの僅かな時間であったかもしれないが、その愛が今の月英の根幹をつくているのは間違いないだろう。
「二人の父親に感謝せねばな」
「ええ。私も三人目の父として負けないようにしませんと」
藩季は燕明の側近としてではなく、月英の父親としての顔で頷いていた。
燕明は一度深呼吸をすると、「さて」と、自らの頬を両手で打った。パチン、と清々しい音が響く。
「臣下の方が優秀すぎると噂されては困る。ここは一つ、俺も皇帝としての役割をしっかりと果たさなければな」
口端を深く上げた燕明の目は、意欲に燃えている。
「藩季、筆を」
執務机に広げた真っ新な紙に、燕明は筆先を落とした。
その紙の行く先は、北である。




