3-22 絶景の香り
「雪景色が?」と、月英が訝しげに眉を顰めた次の瞬間、突如、絶景が目の前に広がった。
「え……なに……」
大地に朝日が射し込み、雪原が輝きだしたと思ったら突然、視界一面が白一色になった。隙間に見えていた青すら全て白に塗りつぶされる。
そして同時に、強烈な芳香が辺り一帯に立ち籠める。
「なに、この香り! 一体どこから……!?」
濃厚な甘い香りの中に、鼻孔を抜けるような爽やかさが混ざった香り。
月英の耳に彼女の言葉が蘇る。
『白くて、甘く澄んだ香りが好きですわ』
ハッとして、月英は目の前の絶景に目を凝らす。
そこで月英は気付いた。
雪だと思っていたものは、全て白い花なのだと。
朝日を受け、閉じていた花が一斉に開花したのだ。両手を広げるかのように、丸っこい花弁を大きく広げ所狭しと咲き誇っている。
月明かりにキラキラと輝いていたのは、花弁を滑る朝露だったらしい。
今は朝日を受け、宝石をばら撒いたかのように煌めいている。その荘厳とも言える幻想的なまでの美しさに、月英だけでなく春廷も万里も言葉を失っていた。
「もしかして、この花は亞妃様の……大于さんは知ってたんですね、亞妃様の好きな香りを」
大于の口端が、微かに上がった。
「あの子は、幼い頃から何かあると『ここへ連れて行け』と、私の袖を引っ張ってはよく言ったものだった」
腕組みし、目を細めた穏やかな表情で、目の前に広がる白い絶景を眺める大于。
それは亞妃から聞いていた、入宮を『ちょうど良い捨て場を見つけた』と思っている者の顔ではなかった。
「その度に私は、小さなあの子をお主にしたように腕の中に入れ、暁の中を馬で駆けたものだ」
目の前の景色の中にかつての亞妃の姿を思い描いているのか、大于の口角はゆるく持ち上がり、目尻には皺が刻まれている。
その表情は、北の地をまとめ上げる勇猛果敢な大于でも、他者を圧倒する威容の雄でも、小動物を捕食しようとする獣のものでもなかった。
ただ娘を想うだけの、どこにでもいる一人の父親の顔であった。
「すっげぇ! これ一面全部花かよ!」
「こんな寒い地でこれだけ咲くなんて……こんな花、見たことないわ!」
感動の声を上げながら、万里と春廷は、引き寄せられるように花畑へと足を踏み入れていた。
驚きに目を輝かせ、足元に繁る可憐な花を手にしたり、鼻を近づけたりしては、全身でその光景を愉しんでいる。
まるで甘い芳香につられた蝶のようだ。
「この光景こそが、我らが地が白土と言われる由縁だ。雪の中で春を待つ強さを持った、朝日と共に咲く『待雪草』」
「……待雪草」
月英がその名を唇に乗せれば、花々は返事をするように風に首を振った。
小さな身体を喜ばせるように揺らし、甘くとも清々しい香りを撒き散らす。
「この花には、もう一つ呼び名があってな……寒峻な白土の中でも、より厳しい場所に咲く姿に、我らの地では『希望の花』とも呼ばれている」
「希望の花」と、月英は口の動きだけで呟いた。
旭光が角度を深くし、白はより一層鮮やかな純白となる。
視界を明るく染めるそれらは、光を抱く『希望』と言うに相応しかった。
きっと彼女はこの光景を見て、幾度も胸に光を抱いたのだろう。俯きそうになった時も、足下が揺らいで膝を折りそうになった時も、逆境に負けずに咲く待雪草を前にして何を胸に抱いたのか、想像に難くない。
「希望の花……か」
確かに、これ以上に彼女に相応しい花はないだろう。




