3-19 兄が姉になった理由
春廷は、治療をしていた天幕の外で色々な人に取り囲まれていた。
彼らの表情を見れば一目瞭然。子供の治療は成功したのだろう。
「春廷、お疲れ様!」
月英が手をあげて呼び掛けると、気付いた春廷は笑って頷いた。月英を見つけて、どこかホッとした様子だった。
やはりあそこまで威勢良く言ってはいても、常に不安はあったのだろう。
少年の家族だろう者達に「ありがとう」と涙ながらに何度も感謝されている春廷は、困ったように手を振っていたが、同時にその目尻は嬉しそうに赤らんでいた。
すっかり夜の気配は薄れ、東の空が黒から藍に変わりはじめていた。
「――そう、あの子から全部聞いたのね……」
人集りを離れた月英と春廷は、行き先も定めず足に任せて歩く。
「万里の後宮女人が嫌いっていうの、もしかするとお姉さんが原因なのかもね」
「そうかも。きっと万里にとって、女の人は姉さんのようにあるべきって思ってたのかもね」
「姉溺愛じゃん」
「ふふ、確かに。一番甘やかされてたしね。昔は姉さんやワタシにべったりだったし、ワタシ達も幼い末子は可愛かったもの」
眉を垂らして微笑する春廷の脳内では、まだ愛らしい頃の万里が駆け回っているのだろう。
しかし、それもすぐに曇る。
「……こうやって、いつまでもあの子を幼い頃のままって思ってるからいけないのよね、きっと。いつまでもワタシの中の万里は、ワタシ達を遠ざけるように睨んで泣いていたもの。だから離れることを選んだのに……それが……ねぇ」
「万里も、実は少しずつ変わっていってたんだろうね」
その結果、二人はすれ違ってしまったのだろう。
「あの子のためかとも思っていたけれど、ワタシもあの子から目を背けてただけだったのかしら」
春廷の声には後悔の響きがあった。
「あ、そうそう。春廷って、昔はそんな口調じゃなかったんだね。万里は、春廷が姉代わりになろうとしてたって言ってたけど……」
「これは、そんな優しいもんじゃないのよ……ただ、自分のためだったのよ」
春蘭の存在は、春廷にとってもとても大きなものだった。
「あの時はワタシも結構キツくてね。姉さんを救えなかったこともそうだし、本当にもうこの世にいないんだって思ったら……ギリギリだったのよ。だから、心にだけは姉さんを置いておきたかったの」
「お姉さんの名残のものを纏っていたかったってこと?」
春廷は緩く首を振る。
「ワタシ、姉さんのような人になりたかったの……見た目とかじゃなくて。決して弱さを見せない人だったわ。ワタシにも、父にも。夜中に一人ですすり泣く声を聞いたこともあったけれど、翌朝には何事もないようにケロッとして笑っていたわ。本当強くて、優しくて、それこそ彼女の周りはいつも明るくて、花のような人だった。だから格好や口調だけでも真似ていれば、少しは彼女みたいな人になれるんじゃないかって」
春廷は足を止め、思い馳せるように、少しずつ明け行く地平の彼方を見つめていた。
口元に引いた緩い笑みは、在りし日の幸せを思い出しているのだろう。
まだ朝日は地平の下に沈んだままだ。
しかし、春廷の目は眩しそうに細められていた。
有明の薄明かりを映す瞳には、哀切が浮かぶ。
「ちょっと春廷に似てるね、そのお姉さん」
万里と似ている目元は、恐らく春蘭にも似ているのだろう。三人が並ぶ姿は華やかだったに違いない。
「あら、そう思ってくれてるのなら嬉しいものだわ」
面映ゆそうに肩をすくめてクスクスと笑う春廷は、本当に嬉しそうだった。
そこで、いつも達観したようにしている春廷が無邪気に微笑む姿に、月英の悪戯心がくすぐられる。
月英は、「あーでもぉ」とわざとらしい声を出す。
「最初の頃の春廷は、優しくなかったよねぇ」
「あら、月英だって最初、太医院にやって来たときはヤケッパチだったじゃない。アナタこそワタシ達を拒んでたわよね」
少しくらい慌ててくれるかと思ったのだが、平然と返されてしまった。
しかも、己の恥部を掘り起こされて。
「あ、あれぇ!? 僕の方が何か不利じゃない!?」
全てを拒んでいた自覚はある。
どうせ三月だと、関わろうとしなかったのも事実である。
思い出すと、自分の不幸に酔っていたようで恥ずかしくなってくる。
月英が「勘弁して!」と熱くなり始めた顔をわっと両手で覆えば、クスクスと笑いながら、春廷は月英の頭を撫でた。
この手の温もりを、自分以上に今必要としている者がいる。
「ねえ、春廷。万里は君に歩み寄ることを選んだよ。だから、今度は逃げないであげてね」
「ええ、そうね。それにワタシも、あの言葉の意味を聞かなきゃだもの」
地平から顔を覗かせた朝日が、春廷の横顔を照らし出す。
朝にふさわしい、実に清々しい笑みを湛えていた。




