3-15 春家①
彼女の名は『春蘭』といった。
春廷とは三つ、万里とは八つも歳が離れた春家の長女であり、彼女自身は今年で二十八歳になる――生きていれば、だが。
春蘭は十年もの昔、彼女が十八歳の時に亡くなっていた。
彼女は母親に似て、元々身体の弱い人だった。
母親は万里を産んで亡くなった。おかげで春家で唯一の女人であった春蘭は、万里にとっては歳の離れた姉であると同時に母のような存在でもあった。
万里の中の春蘭の記憶は、庭を散歩している姿より、牀で横たわっている姿の方が多い。
李の木の枝のように細く骨張った腕、今にも帯が落ちてしまいそうな細い腰、年頃のふくよかさなど無縁の、儚さが着物を纏ったような人だった。
それでも彼女の柔和な笑みや、溌剌とした笑い声は、今でも鮮明に思い出すことができる。それほどに、春蘭はよく笑う明るい人でもあった。
身体が弱くて安静が必要だというのに、目を離せば庭の李の木に登って猫を助けていたり、花見がしたいと、夜中に春廷と万里を叩き起こしては山に登ったりと、彼女はその可憐な姿からは想像し得ないほどに逞しかった。
「まあ……花見の帰りはアイツがおぶって帰る羽目になるし、猫を助けて下りられなくなった姉さんを助けるのも、アイツの役割だったんだよな」
思い出した在りし日の楽しさに、万里の目元が優しくなる。
「姉さんは、いっつも明日は何をしたいだの、来年の花見はあそこに行きたいだのって、目をキラキラ輝かせてオレ達に言うんだ。絶対に病気を治して身体を強くして、そして大好きな人をつくって嫁ぐのが夢なんだって」
彼女は、いつも先を見つめていた。
「でもな……」
次の瞬間、万里の目元から優しさが消えた。
代わって目元に現れたのは、凍てついたかのような強張り。
「オレが十で、アイツは……十五、だったか……」
春蘭はよく病に罹る人であった。その都度、父親が調薬して治療をしていた。
そんな折り、春蘭の容態が急変した。
数日前から、断続的な高熱に浮かされるようになっていた春蘭。
初めは、誰もがいつもの体調不良だろうと考えていた。たちの悪い熱病でも捕まえてしまったのだろうと。
いつものように父親が調薬し、いつものように春廷が面倒を見る。
そして万里は、いつものように春蘭の話し相手だった。
彼女が苦しそうにうなされていれば一晩中でも手を握り、彼女に腕を上げる気力がなければ、様々な物語を傍らで紡いで聞かせた。
春家は医官や医士を輩出できる、世襲制の医戸籍に属している。
当時、父親は王都の街医士であり、春廷は医学に通う医生であった。
二人には医術の知識があり、春蘭の治療は二人に、話し相手は万里にというように自然と役割が割り振られていた。
幼い万里にできることは限られている。父親や兄の春廷を見ては、何もできない自分に腹が立つこともあった。
しかし、そう言ってむくれる度に、春蘭は万里の頭を撫で『万里、いてくれてありがとう』と笑ってくれた。
それに万里は、『ボクも医生になったら、絶対に蘭姉の身体を良くする治療法を見つけるからね』と返す。
それを聞いた春蘭は、『楽しみに待ってるね』と言ってまた笑うのだった。
そういう未来が当たり前に来るものだと、幼い万里は信じて疑わなかった。優しくて天真爛漫な大好きな姉に、恩返しができる日が来るのを待ちわびていたのだ。
だから突如、父親の切迫した激声でもって彼女の部屋を追い出され、次に入ることを許された時には、彼女が死んでいるなどと到底信じられるものではなかった。




