3-9 狄と白土
笑みというより、皮肉に歪んだ表情であった。
彼の様子から、恐らく彼も先帝には余程苦虫を噛まされたのだろう事が窺えた。本当ならば月英達――萬華国の民など見たくもないだろう。
しかし彼は、萬華の民だからと月英達を罰することも、縛り続けることもしなかった。誰もが忌避した月英の異色を、矢のように真っ直ぐに見つめる。
灰色の瞳は狼のような恐ろしさがあるが、月英は怖くは感じなかった。
「……僕、大于さんには萬華国を好きになってもらいたいです」
ほう、と大于が喉で鳴いた。
値踏みするかのように灰色の目が細められ、吊り上げた片口はより深く吊り上がる。
「あ、新しい皇帝になって、萬華国は今、少しずつですが変わりつつあります」
月英は、大于と同じ瞳を知っている。
色こそ違うものの、彼も雑念などとは無縁な澄んだ瞳をしていた。
月英に手を差し伸べ、立つ場所を与え、光の下がどれだけ温かいかを教えてくれた人。
だからこそ、大于には知っていてほしかった。
燕明が今までの皇帝と違うことを。
決して、高座から見下ろす景色を愉しむために、冠を被ったのではないのだと。
「僕が――萬華の色を持たない僕が、こうして目を見せて生きていられるのも、王宮で香療師をやれているのも陛下のおかげなんです。そりゃあ、すぐに全部は変われませんけど、これから先、陛下が大于さん達を悪く扱うなんてことは、絶対にないです」
どうか分かってほしいという熱意が先走り、月英は知らずのうちに大于の手を握っていた。
突如握られた手に、大于は眦が裂けんばかりに目を大きく見開いていた。
圧倒されたように上体を後ろに傾け、目を瞬かせている大于に気付き、慌てて月英は握っていた彼の手を離す。
「す、すみません! いきなり……」
突拍子もない行動をしてしまった。いきなり手など握られさぞ困惑させただろう。
恥ずかしさに俯いていた月英であったが、突如大于からの反応の一切がなくなり、不安に怖ず怖ずと顔を上げる。
「……亞妃というのは、萬華国ではどのような感じだ」
上げたと同時に掛けられた前触れのない質問に、今度は月英が目を瞬かせた。
「亞妃様……ですか?」
「亞妃が心を塞いでいると言ったな。それは、亞妃は泣いているということか」
稲光の如く、大于の瞳に一瞬だけ赫色が光った。
瞬く間に空気が針鼠のように逆立つ。
「な、泣いてはいません。ただ……泣きたくても泣けないんだと思います」
「何故だ」
「なぜ……」と、月英は指先で顎を掻き黙考した。
「――亞妃様って、実はすごく心優しい方なんだと思うんです。でもそれはこう……目に見えて相手に施す優しさじゃなくて、相手の知らないところで自分を我慢するような優しさっていうか……上手く言えませんけど」
亞妃の物静かさは、性根が内気というものから来るのではなく、ひたすらな責任感の強さの現れであった。
「だから、彼女は泣けば迷惑を掛けてしまうだとか、色々と周囲の人達のことを考えてしまって、泣くに泣けないんじゃないかと」
「しかし、こうしてお主達は亞妃の為に北に来ることになった。異国の姫に手を煩わされて、嫌だとかいう思いはないのか?」
月英は笑って首を横に振った。
それは、大于にとって予想外な反応だったのだろう。彼の眉が跳ねる。
「北に来たのは僕達の意思ですから。むしろ亞妃様は、僕達にこれ以上負担を掛けないようにって、大丈夫だと言ってくれましたよ」
その時もやはり彼女は笑っていたのだが、その笑顔は到底月英の納得できるものではなかった。
「亞妃様は、自分が北の地と萬華国とを繋ぐ唯一の架け橋だと自覚され、その橋がどれほどに重要なのかも全て分かっています。自分の中にわだかまりを残しながらも、亞妃として懸命に役目を全うされようとしています」
襦裙を握り締めた、彼女の小さな拳が震える光景は忘れられない。
月英よりも小さな身体で、一国の重圧を背負う亞妃。
「歯を食いしばってでも前に進もうとされる亞妃様を、どうして好きにならずにいられますか。そんな彼女の心を少しでも癒やしてあげたいと思うのは、ごく自然な感情だと思うんです。だから、煩わされてるとか嫌いだなんてちっとも思いませんよ。むしろ、僕は亞妃様が大好きなんですから」
「……そうか」
大于は岩山が動くかのように、ゆっくりと腰を上げた。座って見上げる大于は、それこそ本当に山のようである。
大于と目が合う。
いつの間にか彼の目からは赫色が消えており、周囲を取り巻いていた刺々しい空気も綺麗さっぱりなくなっている。
「そういえば、亞妃はどのような香りを好きだと言っていた?」
「えっと……白くて甘く澄んだ香りと……」
大于は口元を手で覆い暫し沈黙していたが、「そうか」と頷くと、月英の頭を柔らかに撫で、その場を立ち去った。




