3-3 不機嫌な氷の内侍
燕明の私室は、内朝に据えられた『龍冠宮』という皇帝専用宮の一室にある。とは言っても、専用宮のため全ての部屋が燕明の私室とも言えるのだが。
とりわけその中でも一番燕明の在室率が高いのが、日頃執務を行っている部屋であった。
龍冠宮が内朝に位置しているため、普段は滅多なことでは燕明の私室に官吏は現れない。しかし、その中でただ一つの例外的部省がある。
「どうしたのだ、呂内侍」
その例外的部省である、内朝に房を置く内侍省長官の来訪に、燕明は書類に走らせていた筆を止めた。
「なぜ陛下は、官の狄行きを許されたのです。どのような理由で、狄を訪ねる必要があったのでしょうか」
燕明は筆尻を顎にあてがい、呂阡が現れた理由に頭を巡らす。
そう言えば、月英の同行者は医官と、もう一人は内侍官であった。
表立って異国融和策に異を唱えはしないが、呂阡は融和策を良くは思っていない者の一人である。
往々にして長官の意思は、部下にも反映されやすい。
大方、同じく融和策を嫌厭していた部下が、突如異国に行きたがったのを不審に思ったのだろう。
「今回の件は、私が命じたのではない。ただ、行きたいと言った者の理由に納得したため、許したまでだ。開国したのだから、おかしな事でもあるまい」
「狄に行かなければならない理由とは?」
「誰かの心を救うため……ではあるが、呂内侍の部下が手を挙げた理由は知らんな。聞かなかったのか」
「それ、は……っ」
呂阡は言葉を詰まらせ、燕明から視線を切る。
燕明はじっと見つめ、そして静かに筆を置いた。
「呂内侍、部下が己の理解の及ばないところへ行くのは怖いか」
「そういうわけではありません……ただ、疑問に思っただけですから」
「であれば、やはり帰ってきてから部下に直接問えばいい。残念ながら、私は呂内侍の疑問を晴らす答えを、持ち合わせてはおらんからな」
何となく煙に巻かれた感じがしてならない。しかし、確かにこれ以上ここにいても疑問は晴れないだろう。
そう悟った呂阡は頭を下げると、踵を返した。
扉を開け、出て行こうとする呂阡の背に、燕明の声がかかる。
「呂内侍、人は変わる。風が吹くように、一所に留まるなど不可能なのだ」
「……風は、いつでも吹いているわけではありませんから」
年若の皇帝に見透かされている気がしたのが悔しくて、最後に一矢報いてやろうと発した言葉だった。
しかし、振り返って見た燕明の顔は穏やかに微笑んでいた。
それがまた、呂阡は気に食わなかった。




