2-8 烏牙琳という女性
「香療師様……間違っているとは……」
「合ってるとか違うとか、そんな事は考えなくて大丈夫です。ただ、香りを楽しんでください」
「楽しむだけ……で良いのですか?」
「ええ。香療師だなんて肩書きがついて、僕こそ勘違いしてました。確かに香療術は心を癒やし治療する術です。が、それ以前にこの術は、ただ香りを楽しむ為のものなんです。楽しめないのなら、この術に意味はないんですよ」
亞妃の震える指先を、控え目な力で月英が握る。
下から覗き込むようにして亞妃と視線を交わせば、亞妃はきゅうと目頭に力を入れた。
その行動こそが、彼女の全てを表わしているようだった。
「亞妃様、今だけで良いですから。もう我慢しないでください。姿勢を正さないでください。もう……頑張らなくても大丈夫ですから」
ね、と月英はひたすら優しい声音で亞妃に微笑んだ。
「――っどうして、関係のないわたくしを、そこまで気に掛けてくださるのです」
「同じだからです」
月英は己の瞳を指さした。
「一人、自分と違う者達の中に放り込まれる怖さは分かるんですよ……嫌っていうほど」
亞妃の眉間が更に厳しくなる。しかし、それは月英を嫌悪したわけではない。
まだ、彼女は我慢していた。
「亞妃様、笑ってください」
いつも困ったように笑っていた亞妃。
言いたい事より、言わねばならない事を優先したかのような台詞は、彼女と月英達との心の壁でもあり、彼女自身の蓋でもあった。
しかし、今、亞妃の蓋は緩みかけていた。
亞妃は、杏色の小さな唇を開いては閉じるということを何度も繰り返した。何かを伝えたそうに、それでも、迷いの末に喉の奥に呑み込む。
――何が、彼女の口に歯止めをかけてるんだろう。
月英は、これまでの亞妃の態度を思い返してみた。
燕明は彼女を『物静か』と形容した。恐らくそれは『内気な』と同義だったのだろう。初めは月英も同じ印象を抱いていた。確かに声を荒げることも、全身を使って派手に意思を伝えようともしない彼女の姿は、物静かと言えるだろう。
しかし、それは粛然とした気高さからくるものだと、今なら分かる。
彼女は強い。
普通ならば弱音くらい吐いてしまいそうなものだが、彼女はこの期に及んでも『亞妃』を守っていた。まだ、彼女自身の本当の姿が見えてこない。
どうしたものか、と悩んだのも束の間。月英は「あ」とある事に思い至る。
「亞妃様の御名はなんと言うんでしょうか?」
誰もが『亞妃』と呼ぶためすっかり忘れていた。それは妃称であって、彼女自身の名ではない事を。
月英の問いに、亞妃は『意外だ』とばかりに目を瞬かせている。
「……烏牙琳と……北ではウージャリィと言うので、皆はリィと」
「ウージャリィ様ですか。ふふ、とても可愛らしい響きですね」
にこり、と月英が微笑めば、亞妃の目元が微かに和らぎを見せる。
「亞妃様、僕は今、亞妃様の名を知りました。これで一つ、関係が出来ましたね。もう関係ないなんて事はありませんからね」
亞妃の瞼が縦に大きく開かれる。
「これで堂々と気に掛けることが出来ます」
胸を反らせ誇らしげに言えば、亞妃は苦笑に肩を揺らした。
彼女のクスクスとした愛らしい笑い声に合わせて、胸元で灰色の横髪がふわふわと揺れる。彼女の髪が揺れる度に、月英の心もふわりと軽くなった。
「……わたくし、上手く笑えていませんでしたか」
「僕には、いつも無理をしているように見えていましたよ」
亞妃は笑いを収めると、瞼を閉じ深く長く息を吸った。
全身の隅々にまで行き渡らせるような深呼吸。限界まで吸い、香りを堪能するように息を止め、そして静かに息を吐く亞妃。
長い長い一呼吸が終わり、ゆっくりと瞼が持ち上がる。
「わたくしは今……二十一なのですが、結婚の歳としてはおかしくないでしょうか」
前振りのない唐突な話題に月英は首を傾げたが、問われた事に素直な感想を述べる。
「僕はそういった事に疎いので詳しくは分かりませんが、一般的な歳だと思いますよ。少なくとも遅くはないかと。僕は十八で後ろの彼は二十ですが、全く結婚の気配はないですし」
「おい、オマエが決めつけるなよ」
「じゃあ、万里にはそういった相手でもいるの?」
「…………別に」
なぜ反論したのか。自ら墓穴を掘っただけではないか。
決まりが悪そうにそっぽを向いた万里は一先ず置いておいて、亞妃を向き直れば、彼女は月英の返答に、どこかホッとしたような薄い息をついていた。
「萬華国ではそうなのですね。……でも、これは北では遅すぎる歳なのです」
亞妃の身を飾る、山吹色の襦裙に紅の長袍を重ねた鮮麗な衣装。しかしその鮮やかさが今は、亞妃の寂寥を湛えた表情を強調する羽目になっていた。
「少し、付き合って下さいますか……烏牙琳というしがない女の思い出話に」




