2-7 気付き
今日の芙蓉宮は、薫衣草の香りで満たされていた。
「今までの香りより軽く感じると思います。花特有の柔らかな爽やかさが特徴の、薫衣草という花の精油ですよ」
亞妃の足元で、月英は「どうですか」と小首を傾げて見上げる。
「はい……こちらもとても心地良い香りですわ」
そして、やはり今日も亞妃は困ったような微笑を浮かべ、優しい嘘をつくのだ。
月英の耳に、昨日の『もう良いだろ』と言う万里の声が蘇った。
もう一週間経つ。確かにもう良いのだろう。きっとこのまま同じ事を繰り返しても、亞妃の表情が晴れることはない。
それならば、と月英は亞妃に声を掛けようとした。
「亞妃さ――」
「もうそのくらいで良いでしょう?」
しかし、月英の声より先に、背後から万里の声が亞妃に飛んできた。
その声は明らかに悪感情を含んでいる。
振り返れば、定位置である壁際から、腕組みした万里が威圧するように亞妃を睨み据えていた。視線を受けた亞妃が、ただでさえ白い顔を蒼白にさせている。
「こうして宮に籠もって不調を訴えていれば、陛下が慰めに来るとでも思ったんですか」
「ち、違……っ」
「万里――っ!」
身を縮めて、細い首を懸命に振る亞妃。やめろ、と月英が声を上げるが、万里の一度開いた口は、閉じ方を忘れたかのように次々と言葉を吐き続ける。
「いつも何を聞いても同じ答え同じ顔。言いたいことがあるのなら言えばいいのに、いつまでもウジウジウジウジとジメったい……ここだけ雨漏りでもしてるんですかね。ハハッ、太医院じゃなくて、工部にでも頼んだほうが良かったかも知れませんね」
「わたくし……は、その……っ」
「ったく、これだから後宮のお方は。わざと相手を心配させるような行動ばっかするし……だから嫌いなんですよね」
「万里ッ!!」
たまらず月英は腰を上げ、万里の視線から守るように亞妃を背に立ちはだかる。
一瞬驚いたように万里は目を瞠ったが、すぐに今度は月英を睨みつける。
「君は楽だろうね。そうやって相手の言い分も聞かず、言いたいことだけ言ってれば良いんだから。相手が黙ってるからって、それが自らの意思とは限らないんだよ。君みたいに、相手から言葉を奪う奴がいるからね」
懸命に何か言葉を発しようとしていた亞妃。
しかし、万里は彼女の意思など汲まず、自らの言いたいことばかりを連ねた。それがまた、亞妃から言葉を奪っている事にも気付かず。
「へぇ……オレが悪いって?」
「違う、そんな事言ってない!」
「どうせ同じ異色だからって、同情でもしてるんだろ」
「今それは関係ない――」
「もう結構ですっ!」
初めて聞く亞妃の精一杯の声が、二人の耳に突き刺さった。
あまりの驚きに、『華奢な身体に見合って、叫ぶ声の線もやっぱり細いんだな』と、そんなどうでも良いことを月英は思った。
「……っもう……結構ですから……っ、わたくしが……皆様を困らせているのは、事実ですもの……」
亞妃は、泣いてはいなかった。
ただ顔を俯け、膝の上でちょこんと丸まった拳は震えていた。巻き込まれた襦裙が今にも裂けてしまいそうなくらい、拳の下の生地は引きつっている。
息をするのも憚られるほど、沈黙が耳に痛かった。
「どうかこれ以上は、わたくしの事などお気になさらず……っ」
亞妃の言葉を受け、さすがの万里もこれ以上はと思ったのだろう。雑に前髪を掻き乱すと、鼻から溜め息をついて沈黙する。
対して月英は、突然膝を折ったかと思えば、カチャカチャと竹籠の中をいじり始めた。
「お、おい……何してんだよ」
月英の行動に、万里が戸惑いの声を漏らす。
月英の手元は、香炉台を片付けているようには見えなかった。
「確かに、これ以上同じ事を続けても駄目ですね」
月英の頭向こうで、亞妃が息を詰める。後ろでは、万里がしたりと鼻を鳴らした。
「だから――」
焚かれ続けていた香炉台の小皿に、ポタリ、と雫が落ちる。
「――別の方法も試してみましょうよ」
万里と亞妃は、月英の言葉に瞬きも忘れ目を丸くした。
次の瞬間、新たな天幕に覆われたように、一瞬にして部屋が香りの色を変えた。
それまでとは違った重厚な甘さと、燻る香を思わせる深く落ち着いた香りが、部屋の空気に重さを付与する。
しかし、決して重苦しいというわけではなく、その重みが、揺らぐ心の丁度良い重石となるような香りであった。
自然と呼吸は深くなり、沈黙すらも瞑想の静謐さに変わる。
「薫衣草に白檀を混ぜました。薫衣草は鎮静や気分向上の効果が、白檀にはより深い鎮静と心の疲れ癒やす効果があります。これを混ぜ合わせた香りは、不安を取り除き、緊張をほぐす香りなんですよ」
亞妃様、と月英が丁寧に彼女の手を取る。
冷たく固まった氷塊のような拳を、月英は一本ずつゆっくりと解きほぐしていく。
「今までは、亞妃様の好きな香りを探すために精油を選んでましたが、もうやめましょう。僕が間違ってました」




