2-6 さよならは言えなかった
『リィ、お主の嫁ぎ先が決まった』
諦めていた結婚をしらせる父の突然の言葉に、声の発し方を忘れてしまった。
『お主は萬華国へ行け。そして、皇帝の後宮へと入るのだ』
いや、きっと声が出たとしても何も言えなかっただろう。
言える権利など、元より持ちはしないのだから。
『お世話になりました』
『ああ』
父娘の別れの挨拶にしては、随分と無味乾燥な言葉ではあったが、烏牙琳はその他に言葉を残さなかった。
行ってきますとは言えなかった。
ただいまと言う日は来ないのだから。
さよならとは言えなかった。
それは、どうしてなのか――
◆◆◆
今日も彼らが訪ねてくる。
一人は、碧い目をした朗らかな香療師。
香療術という見たこともない術で、毎日違った香りを部屋に満たしてくれる。
もう一人は、いつも壁際で苛立たしそうにして待っている内侍官。
目が合えば眉を顰められる為、なるべく香療師の方に意識を向けるようにしている。
「きっと、今日もまた……香療師様を悩ませてしまいますわ……」
どの香りが良いか、と嫌な顔せずに毎回丁寧に聞いてくれる香療師。それに自分は、『良い香りです』『ありがとうございます』とばかり答えてきた。
それしか言いようがないのだ。
どの香りも本当に心地良く、蝋燭を灯した途端にふわりと香りが広がっていく様は、何度見ても感動を覚える。
しかし、求めた香りかと言われれば、やはり違うのだ。
記憶の奥にすっかり染みついた懐かしい香り――白い、甘く澄んだ香り。
瞼を閉じれば、真っ白な光景ばかりが浮かんでは消える。
懐かしい、よく慣れ親しんだ景色。何度も何度も、その景色が自分を支えてくれた。心が萎れてもう一歩も進めないと思った時でも、そこに変らずにあってくれたからこそ、己を鼓舞し、立ててきたというのに。
二度と、その景色を見ることは叶わないだろう。
だから、もしあの香りにもう一度触れる事が出来れば、と香療師に願ったのだ。せめて似たような香りだけでもと。しかし――
「違うという事を突き付けられるのは、これ程にも胸を絞られるものなのですね……」
きっと自分は今、香療師の彼だけでなく多くの人に迷惑を掛けている。
それは、内侍官の彼の視線の厳しさからも分かることだ。
「――っしっかりなさい、亞妃……何も出来なかったわたくしに与えられた、唯一の役目ですから。でないと、部族の皆に迷惑がかかってしまいますわ」
誰に言うでもない、内側に向かって発せられる言葉。
両手の指を組み、祈るように「大丈夫」と、何度も何度も呟く。
「もし、ここでも見捨てられてしまえば、今度こそわたくしには……っ」
想像してしまった未来に、亞妃はぶるりと身体を震わせた。
「大丈夫……もうあの香りがなくても……全て忘れればいいのですから」
その内、この茨を抱いたような、未だに胸に刺さるチクチクとした痛みも消えていくだろう。
「わたくしは……亞妃」
いつかこの名も、口に馴染む日が来るのだろうか。




