2-4 腹立つな
広大な百華園の中央には、宮の中でも一際荘厳な造りの大宮が建つ。
今は住まう者がいないため、灯は落とされひっそりとしているが、本来ならば皇后が住み、最も賑やかな宮である。
その皇后の大宮を中心として、百華園は東西で役割が別れている。
東側は、白壁に囲われた後宮妃の宮がいくつも建ち並ぶ、謂わば皇帝のもう一つの寝所。その他には、女官達の寝食房や後宮専用の食膳処などが立ち並ぶ。
宮の隙間を縫うように走る石畳の通路には、女官達の姿がチラホラと見える。手に箒や桶を持ってる様子を見ると、掃除係の女官なのだろう。
一方西側は、皇太后の宮と、太子や公女の宮がある。
しかし現在、先帝の正妃であった皇太后は萬華宮内にはおらず、また、燕明にはまだ子がいないため、太子や公女の宮も当然空である。
東側に比べ西側は人の営みの気配はなく、時折、建物や調度品の管理のために、女官や内侍官が訪れる程度だ。空っ風が似合う物寂しさが漂っている。
その百華園の中を、芙蓉宮から帰る月英と万里が並んで歩く。
「蜜柑、加蜜列、桉樹に茉莉花、変わり種で種人参。そして、今日の天竺葵……やっぱり、どれも亞妃様の反応は芳しくないんだよね」
指を折りながら、使った精油を一つずつ確認する月英を横目に、万里はわざとらしい溜め息をついた。
「なあ、もういいだろ」
後頭部で手を組み、投げやりな足取りで隣を歩いていた万里が、突然足を止めた。月英も数歩先で足を止め、後ろにいってしまった万里を振り返る。
その目は訳が分からないと、いぶかしさに眇められている。
「何がもういいなの……」
「あのお姫様は笑ってる。良い香りって褒める。礼も必ず言う。どこに問題がある?」
「問題だらけだよ。亞妃様は確かに笑ってる。だけどそれが本心じゃないってのも分かるでしょ。他の後宮妃達も見てきた内侍官の君なら、それくらい分かってると思ってたんだけど」
ハッ、と万里が鼻から息を抜く音が聞こえた。
「内侍官だから言ってんだよ。後宮に入る女達がどれほど醜いか、ワガママか知ってんのかよ。数日通ったくらいで、アイツらの本性を分かった気になるなよな」
明らかな嘲笑に、月英は口元に慍色を表わす。
「よくそんな酷い事言えるね。内侍官は後宮の管理人でしょ。だったら、そこに勤める人達を貶めるようなことは言うべきじゃないよ」
しかも、その醜くワガママだと言う者達がいるど真ん中で。
声は二人の間でしか聞こえないような大きさだが、いつどこに誰の耳があるか分からない。先程、掃除の女官を見たばかりだ。他の女官がここら辺りにいてもおかしくはない。
月英は焦燥に周囲を見回した。
幸い、人の気配はなく小さく息をつくが、対して万里は平然としていた。
「オレは後宮の女達が嫌いだ。職場だからって、その職場のこと全部好きになるわけないだろ。それは後宮の女達も分かってんだよ。人の好悪じゃなく利害で繋がってんだから。本当、使う物だけじゃなくて頭の中までお花畑かよ。いっそ、頭の中から花でも毟ってこれたら楽でいいのにな」
いちいち反論に付け加えられる余計な一言が、腹立たしいことこの上ない。
「でも、その君が知る後宮の女の人達と亞妃様は、同じじゃないかもしれない。僕には亞妃様が醜くも、ワガママを言ってるようにも思えない」
「ワガママじゃなけりゃ、今頃あのジメジメした理由を言ってるって。そんで、とっくに解決してるはずだろ。しっかり口がついて喋れるんだ。それなのに、何も言わずただ大人しく座ってるばっかってのは、ワガママじゃないのか?」
「それは……っ」
万里の言葉は正論である。
「それでも僕は、亞妃様の事を諦めたくない……っ。異国に来て心細いだろうし、きっと口に出せないのは何か事情があるはずなんだよ」
月英は正論が全て正しいものだとは思いたくなかった。
それは感情論だ、と言われようが、黙って彼の言葉をのみ込むことなど出来ない。認めた瞬間に、亞妃を訪ねる理由すら失ってしまう。
目尻を尖らせて睨みつける月英を、万里は顎を上げて冷めた目で見下ろす。向けられる黒玉の瞳は、光すら拒むかのようにひたすら暗い。
「お前、百華園が何のためにある場所か理解してるのか?」
「……陛下のお嫁さんが住む場所」
「アッハ! お嫁さん!? ハハッ! 随分と可愛らしい認識だなあ!? どおりでオマエの思考が甘ちゃんなわけだ!」
万里は堪らないとばかりに、腰を曲げ腹を抱えて嗤っていた。
笑い声だけで馬鹿にされていると伝わるあたり、やはり彼には人を腹立たせる才能があるようだ。
「本っ当、君って腹立つね」
いい加減、耳に笑声がうるさくなり、月英が声を上げようとした時、万里はピタリと嗤うのをやめた。
「ここは陛下の寵を争う場所なんだよ」
笑い声が耳に残っていたからか、万里の一言は際だって静かに聞こえた。
「他の女より目立つためだけに、孔雀みたいに無駄に着飾る女や、狂ったふりしてわざと花瓶を割る女、泣いて病だ何だと平気で嘘つく女だっている。それは全部、陛下の気を引くためだ。そんな中で、綺麗事だけがまかり通るとでも思ってんのか? あのお姫様も結局は同じなんだよ。まんまと騙されんなよ」
「……っ君……本当に春廷の弟なの……?」
情などと対極に位置する思考をもつ万里を前にして、月英は戸惑いを覚えた。
「俺の前でその名を出すな」
好悪を向けるにしても、春廷には少なくとも彼なりの信念とも言える線引きがある。それは、一度は『悪』を向けられた月英には良く分かる。
春廷は相手を認めれば、次の瞬間には素直に手を差し伸べ、懐へと招き入れてくれる大きな度量がある。それに悪感情を向けるにしても、その根底にあるのは必ず己の矜持なのだ。
対して、万里の悪感情には矜持など感じられない。
彼の言葉の底から伝わってくるのは、ひたすらな嫌悪のみだ。
月英には万里が分からなかった。
「ねえ、万里……君は、何をそんなに嫌ってるの?」
「――っ!」
だから尋ねた。
しかしまさか、この期において質問が飛んでくるとは思っていなかったのだろう。
万里は声を詰まらせ、下瞼を痙攣させていた。
「僕より年上なのに、随分と子供っぽいね。春廷とは真逆だ」
「――っその名を出すなって言ってんだろ!」
握られた彼の拳から、骨の砕ける音が聞こえてくるのでは、と月英は思った。それ程に万里は強く強く拳を握り、百華園の隅まで届くほどの蛮声を轟かせた。
「人殺しなんかとオレを比べるんじゃねえよっ!」
「…………人、殺し……?」
大気を振るわせた彼の二度目の激声は、正面から月英にぶつかり、その感情の大きさを全身に知らしめていった。
しかし、知らしめたのは何も正面の月英だけではなかった。
案の定、角の奥や壁向こうからは、女官達のざわめく声が聞こえてくる。騒ぎを聞きつけた女官達のパタパタとした軽い足音が、だんだんと近付いてきていた。
ハッと我に返った万里は、己の失錯を舌打ちで誤魔化すと、月英の腕を強引に掴んで飛び出すように百華園を後にした。




