2-3 不完全燃焼
「――喜んでくれたのなら、良かったではないか」
初日を終え、月英は燕明への報告に彼の私室を訪ねていた。
「それは……そうなんですが…………」
燕明には、亞妃は香療術を喜んでくれ礼まで言ってくれた、とありのままの状況を報告していた。だから彼の言葉は間違いではないのだが、月英は素直に良かったとは思えなかった。
正確には、最後の最後で疑念が生まれてしまった――本当に喜んでくれていたのか、との。
「だったら、何をそんなに悩んでいるんだ」
口をへの字にして、己の手を眺めている月英を見て、燕明は怪訝に眉を上げた。
「彼女……手が冷たかったんですよ」
ありがとうございます――彼女はそう言った。弱々しくとも微笑んでくれた。確かに喜んでくれたはずなのだ。
しかし、倒れた際に握った彼女の手は、氷のように冷たかった。
「……心が正常な場合って、手も温かくなるものなんですよ」
心が緩むと、身体から余計な力が抜け血の巡りも良くなり、指先まで熱が満ちる。単に寒かっただけかとも思ったが、今日は絶好の春日和。芙蓉宮の中も射し込む陽光に、空気は温められ実に心地良かった。
だというのに、彼女の手は冷たかった。
これが意味するところは、彼女の心は全く緩んでいなかった――本当には喜んでいなかった、という事だろう。
「随分と、彼女は本心を言うのを躊躇っているようですね」
頑なとでも言うのだろうか。呈太医が手こずるはずだ。
「最後の手の冷たさに気付かなければ、僕は明日も同じ精油を焚いて、満足してたでしょうね。あの香りは、彼女が心の底から気に入った香りじゃないというのに」
まさか、嘘をついてまで好悪を偽られるとは思ってもみなかった。
月英は眉宇を曇らせ、見つめていた己の手を握り絞めた。
すると、肘掛けに頬杖をついて身体を斜めにしていた燕明がのそのそと身を起こす。鷹揚として長椅子に座り直し、月英の苦悩を分かち合うように同じく顔を曇らせる。
「亞妃は、どんな香りが好きと言ったんだ?」
「ええっと、確か……白くて、甘い澄んだ香り……でしたかね」
「いやに具体的だな」
「それは僕も思いました。しかも白い香りって、よく分からなくて。だから、今日処方したのは、甘くて澄んだ香りってとこを考えて蜜柑にしたんですけど。どうやら、違ったようですね」
「そうか。こんなに良い香りなのになあ」
燕明は、目の前の卓で焚かれているお気に入りの蜜柑の香りに、うっとりとした声を漏らす。
「陛下はこの香りがお好きですからね」
燕明の足元で、出した精油瓶などを片付けながら月英は頬を緩めた。長椅子の麓で、丸まって片付けをする月英を見ながら、ふむ、と燕明は思案の声を漏らす。
「もしかすると、亞妃には、はっきりと探している香りがあるのかもな」
形の良い指で顎を挟み、燕明は天井へと視線を投げる。
「なるほど。じゃあ、毎回違う香りを処方した方が良いかもしれないですね。にしても……また嘘をつかれたら……判別出来るかな……」
今回は途中まで、すっかり騙されていたのだ。しかも、彼女の本意でないと気付けたのは偶然の出来事だった。
どうして彼女は、本音を口にしないのだろう。
どうして彼女は、ああも弱々しくも笑おうとするのだろう。
実に弱々しく見える彼女だったが、無理をしているその姿には、相反した意思の硬さが見てとれる。一体、彼女は心に何を隠しているというのか。
「灰色の……瞳」
月英は己の瞼に指を這わせた。
かつてそこには重苦しい前髪があって、世界はこんなにも明るくはなかった。
「彼女は、僕と同じ異色をもつ姫……」
彼女は今、世界を明るく感じられているだろうか。もし、そうでないのなら――。
月英は瞼に這わせていた手で目元を覆い、項垂れるようにして沈黙した。
突然黙してしまった月英を前に、あたふたと燕明が焦りを見せる。
「だ、大丈夫か、月英!? 月英のせいでは全くないぞ! ほら、ま、まだ一日目だし焦る必要はないから。だからそんなに悲しまなくても――」
「っだあああああああ! もうっ!」
燕明の「良いんだぞ」という言葉は、突然の月英の絶叫によって掻き消された。
仰け反るようにして頭を上げた月英に燕明はおののき、戸惑いに目を白黒させる。
「悲しんでなんかいませんよ、悔しいんです! それにこのくらいで根を上げてたら、香療師失格ですから」
異国の香りを纏う、薄雪を被ったような灰色の髪と瞳を持つ亞妃。
薄紅の衣に風をはらませ、波打つ髪を揺らして、春陽の中で頬を染めて心から笑う姿こそ、月英が見たい彼女の姿なのだ。
「僕は、彼女に日の当たる世界の中で、眩しいくらいに笑ってほしいんです」
異色を持つ者同士という、少なからずの親近感もあるのだろう。
しかしそれ以上に、月英は香療師として、彼女の笑みを曇らせる憂鬱を全て払ってやりたかったのだ。
「陛下、僕は諦めませんよ」
目の前で月英がふんぞり返るようにして胸を張れば、燕明は一瞬目をまたたかせ、そして次の瞬間には腹を抱えて大笑した。
「あははははっ! それでこそ月英だ!」
大口を開けて、皇帝の品位など全て放り投げ、目尻に涙が滲むほどに燕明は笑っていた。その姿はとても楽しそうであり、愉快そうでもあった。
「…………笑いすぎじゃないですか、陛下」
月英の口先がだんだんと尖っていく。
しかし、次第に狐に似ていく月英の顔を見て、更に燕明も笑声を大きくする。
一向に笑いを収める気などない燕明に、月英はこれは始末に負えないと先に白旗を上げ、口先を引っ込めた。これ以上は唇が取れてしまう。
じっとりと物言いたげな目で眺めるに留めていれば、満足したのか、ようやく燕明の笑いも収まった。
「いやはや、俺もまだまだ月英に対する理解が甘かったな」
目尻の涙を指先で拭いながら、燕明は足元の月英に手を伸ばした。
「どうか、亞妃の心にも風を吹かせてくれ」
雛鳥に触れるような優しい手つきで頭を撫でる燕明に、月英も大人しく「はい」と目を細めた。




