2-2 芙蓉宮の姫
柳緑花紅。後華殿の門をくぐれば、そこは同じ宮廷とは思えぬほど艶やかな色彩に満ちていた。
流れる空気すら違うのではと思わせる、馥郁たる花々の香り。宮廷の表では決して耳にする事はない、キャラキャラとした華美で華奢な声。楽園かと見紛うような美しさは、百華園という名が些かの誇張もないものだと理解させるには充分であった。
緊張に喉を鳴らし、月英は長い長い道を進む。
百華園はその名にちなんで、全ての宮に花の名が与えられている。
月英達は、その中の一つ――芙蓉宮の白亜の囲いをくぐった。
宮の前には、既に三人の侍女が待ち構えていた。
「名乗りを」
「内侍官の春万里です。亞妃様の御体調をうかがうため、本日は香療師を連れてきました」
万里は胸の前で拱手し、背後の月英に顎をしゃくって挨拶を促す。
慌てて月英も彼を真似て手を結ぼうとするも、既に両手は竹籠で塞がっており、悩んだ末に頭を下げることにした。
「こ、香療師の陽月英ですっ!」
緊張に声が裏返ってしまった。
恥ずかしさに顔を赤くしていると、扉の内側から「ふふ」と可憐な微笑が聞こえた。
驚きに顔を上げれば既に宮の扉は開かれており、その奥には、仄かに異国の香りを纏った女人が、小さな身体より二回りも大きな椅子に座っていた。
それは、芙蓉宮の主であり、狄から嫁いできたお姫様――亞妃、その人であった。
さあ、と侍女に促され、月英達は部屋の中へと進み入った。入ると同時に、宮の扉は閉められ、向こう側では侍女達の足音が遠ざかっていく。
部屋には月英と万里、そして亞妃の三人だけとなった。
月英は、目の前で伏し目がちに俯いている亞妃を見つめた。
薄紅の襦裙を纏った膝の上で、自然と重ねられた雪のように白い両手。つま先まで綺麗に揃えられた両脚。背もたれに身体を預けることなく、まっすぐに背筋を伸ばして座る姿。大きく波打った灰色の長い髪は横髪だけを残し、あとは後頭部で綺麗に纏められている。しかし、装飾品は髪を纏めるだけの歩揺一本のみで、他に飾り気はない。
恐らく身に纏っているものはどれも最上級品なのだろうが、豪奢な姿を想像していた月英には、とても質素な後宮妃に映った。
されども、その控え目な姿は決して見窄らしいというわけではなく、飾らないからこそ、亞妃のありのままの気品がより映えていた。
まるで彼女自身が一つの宝飾品のようである。
思わず見とれていれば、伏せられていた亞妃の瞼が上がった。
月英と亞妃の視線が交わる。
「あ」と、亞妃が微かな驚きを露わにした。
月英には、彼女が何に反応したのかすぐに分かった。
「変わった色でしょう。僕には異国の血が入ってるんですよ」
月英は目元をトントンと指さし、「どこの国かは分からないんですがね」と、舌先を出しておどけてみせる。
少しでも亞妃の緊張を和らげられればと思っての事だったのだが、彼女は予想外の反応を示した。
白い肌の上で、雪霞を被ったような灰色の瞳が、柔和に細められていた。
まさに匂い立つような美女とは彼女の事だろう。亞妃の微笑顔を前に、月英の頬が熱くなる。
しかし惜しむらくは、彼女からは全く精気が感じられない事である。
亞妃の顔に浮かぶ笑みは、実に弱々しいものであった。
確かに綺麗な笑顔なのだろうが、心の底からは笑えていないというか。何かが、感情の出口で邪魔しているかのように、月英には思えた。
それに、燕明から聞いていた通り顔色も悪い。手指の白さに比べたら、顔には透明感がない。無理をしている事が、初対面の月英にすら伝わってきた。
「亞妃様、内侍官の春万里と申します。これからは呈太医に代わってこの者と、オレが随伴として来ることになりました。オレはただの監視役ですから、どうぞお気になさらずに」
万里の挨拶を受け、亞妃は眉間に怯えを刻んだ。
しかしそれもほんの一瞬。
月英達がその変化に気付く前に、亞妃は何事もなかったかのように、表情を元に戻す。
一方、万里の、脱線しそうになった場の空気を無理矢理正す挨拶によって、月英も己の役目を思い出し慌てて頭を下げた。
「僕が香療師の陽月英です」
「香療師……とは初めて聞きますが……」
「香りで心を整える香療術を使う医官のことですよ。今はまだ僕一人ですが」
月英は亞妃の前に膝をつき、出来るだけ刺激しないよう、声を柔らかにして答えた。
「あまり顔色がよろしくありませんね。遠くから来られ、少し疲れが出たのかもしれませんね」
竹籠の中から香炉台を取り出し、手早く組み立て始める。
「それとも、何かお心を悩ませるような事でも? 何でも仰って下さい」
「心を悩ませる…………いいえ、そのような事は…………」
杏色の小さな唇が確かめるように呟いた声は、柔らかな春風にすら吹き消されてしまいそうなほど、弱々しかった。決して『そのような事はない』と言える声ではないのだが。
しかし、無理に聞き出すことなど出来ないし、したくもない。
月英は「そうですか」と、それ以上の追求はしなかった。
「亞妃様、お好きな香りはありますか」
「香りですか……」
思案しているのだろうか、亞妃は灰色の瞳をフイと横に滑らせ沈黙する。
随分と長い黙考であった。
その間、亞妃は幾度か口を開き掛けたが、しかしまたすぐに口を閉ざし、何度も思考の波間に潜っていた。
しかし、月英は答えを急かすことはせず、彼女の口が開くまで静かに見守った。後ろの壁際で事の成り行きを監視していた万里も、身じろぎの音一つさせずに静かに待っている。
そうして、ようやく亞妃の開いた口が言葉を呟いた。
「白くて……甘い澄んだ香りが……」
「白い、ですか?」
実に抽象的な表現である。香りを色で表現するなど、初めて聞いた。
月英には、白い香りというのがどういったものかは分からなかったが、その後の『甘い澄んだ香り』というのには、いくつか心当たりがあった。
――『甘い』は、花か果実系。『澄んだ』って言うと……瑞々しいもの、すっきりしたものって事かな。
月英は幾本か精油瓶を選び出し、一つずつ蓋を開けて匂いを確かめる。
すると、今まで静かにしていた万里が、興味深そうに後ろから覗き込んでくる。
「へえ、それが噂の香療術ってやつか。そんなんでどうにか出来るのかよ」
「出来るから術なんだよ。ちょっと今忙しいから、邪魔しないでよ」
万里の言い方には多少なりの揶揄いが含まれており、月英は眉間に慍色を表わして万里を睨む。その一瞥に、万里は「へいへい」と大げさに肩をすくめると、大人しく壁際へと戻っていった。
月英は目端でそれを確認し、作業に戻る。
甘いと一言にいっても、蜜柑の爽やかな甘さから山梔子の濃厚な甘さまで、その種類は多岐にわたる。
しかも香りの感じ方は当人の感性や精神状態に左右されたりもするため、「甘いのはこれ」と、自分勝手に決めつけて処方はできない。
好みの香りを処方する場合には、常に相手の様子を見ながら感想を聞いて、少しずつ相手が心地良いと感じる香りを探していくことになるのだが。
――一先ずは、人を選ばない無難な香りからだね。
握っていた一本の中身を小皿に垂らす。
それを香炉台にのせ火を灯せば、ふわりと香りが立ち上った。
月英にとっては実になじみ深い香り――『蜜柑』の香りである。
すると、亞妃が反応を示すよりも先に、後ろの万里が声を漏らした。
「確かに、甘くてすっきりする香りだな。何の香りだ」
「蜜柑だよ」
その声音には先程までの揶揄いの色はなかった。香りまで聞いてくるとは、好奇心旺盛なのかもしれない。
それより、と月英は意識を背後から前方の亞妃へと向ける。
「亞妃様はいかがです? これは蜜柑の精油の香りなのですが、どのように感じますか。嫌いだとか、心地良いだとか……」
亞妃は大きく深呼吸し、鼻腔いっぱいに香りを吸い込んでいた。そうして香りを吟味するかのように、静かに瞼を閉じる。
「とても良い香りですわ」
次に瞼が上げられた時、亞妃は「ありがとうございます」と微笑んでいた。
「喜んでいただけて良かったです」
この調子ならば、彼女の口からその弱々しい笑みの理由を聞ける日も近いだろう。
「では、この小皿の精油がなくなったら、蝋燭の火は消してください」
「分かりましたわ。ではそこまでお見送りを――」
見送りに、と亞妃が椅子から立ち上がった時、「きゃっ!」と、彼女からか細い悲鳴が上がる。
襦裙の裾を踏んづけた亞妃は、大きく体勢を崩していた。
「亞妃様っ!」
間一髪、月英の伸ばした腕が、亞妃の倒れかけた身体を受け止めた。
「――っす、すみません、香療師様」
「いえ、それより亞妃様の方はお怪我は……」
「受け止めてくださったので大丈夫ですわ」
月英は安堵に胸を撫で下ろした。
亞妃の身体を支え、元の椅子へ丁寧に座らせる。
「も、申し訳ありません……本当に……っ」
「いえ、亞妃様の謝ることは何もありませんから。それより、亞妃様にお怪我がなくて良かったです」
亞妃は顔を伏せ、身を縮こまらせていた。
膝の上に置かれた手はきつく拳を握り、巻き込まれた襦裙が不規則な皺を作っている。月英はその震えるほどに握られた拳を見て、何をそこまでと思った。
これではまるで、怯えているようではないか。
――何に……?
次々と湧いて出てくる疑念に、月英の足が止まっていれば、袖を万里が引いた。顔を向ければ、彼は目を眇め「さっさと行くぞ」と示していた。
月英は「明日も来ますから」との言葉だけを伝え、芙蓉宮を後にした。




