終ー2 太医院
内朝の西側に位置する太医院。
一週間ぶりに立ち入る領域に、月英は緊張しながら歩を進める。
「また一から精油を作り直さないといけないんだよなあ」
解放手続きの際、御史台に持って行った精油をどうしたかと聞いたら、しっかりと保管されているとのことだった。
日当たり抜群な窓辺で。泣いた。
「季節物の材料を使った精油はもうしょうがないとして、とりあえずよく出るのだけでも作らないと」
見えてきた香療房に、思わず固唾をのんでしまう。
「ああっ、すっからかんの香療房を見るのが怖い!」
それでも扉を開けなければ仕事ができない。
月英は覚悟を決めて、エイヤッと香療房の扉を開けた。
「ただいま!」
「おう、お帰り」
「え……」
月英は驚いた。
きっと何もない房には誰もいないだろうな、と思っていた中で返事があったこともそうだが、香療房の中いっぱいに薫る様々な香りに。
竈を見れば、一つだった蒸留法用の鍋が二つに増えているし、机の上には薄荷や蜜柑の皮など、月英が必要だと思っていたものがすでにこんもりと盛られている。
「おいおい、そんなとこに突っ立って何してんだよ」
さっさと入れよ、と万里は月英の元まで来ると、手を取り房の中へと引き入れた。
「あ、いや……ごめん。驚きすぎちゃって」
万里はまだ水蒸気蒸留法での精油をいくつかしか作れなかったはず。なのに、机の上には教えていない植物や、花びらがならべられた冷浸法の玻璃板まで置いてある。
目をパチパチさせていると、万里は得意げな顔で「まだだよ」と薬棚へと向かった。
「さすがに全部は、材料の都合もあって無理だったんだけどよ……」
「え、待って。無理ってどういうこと……だって確か全部御史台に没収されて薬棚は空っぽのはずじゃ」
「それは……どうかな!」
バタバタと薬棚の扉が開けられていく。その中には真新しい白の精油瓶がちょこんと鎮座しており、全ての棚の半分ほどは埋まっていた。
「言っただろう。香療房は任せろって――って、格好付けたいんだけど、実はこれらは俺だけの力じゃないんだよ」
「万里だけじゃない……って、もしかして君が百華園にいたのは!」
万里は頷いた。
「あのお姫様が、毎日なんだかんだ理由付けて呼び出してくれてさ。おかげで御史台に見咎められることなく、芙蓉宮の竈を使って精油作りができたんだよ」
「亞妃様……」
胸がじんと痺れる。
「あと、侍女三人組が、百華園内で色んな花を摘んできてくれたりしてな。おかげでギリギリ間に合った、ぞ!」
ドンッと目の前の机に重そうな布袋が載せられた。
蜜柑の皮を詰める麻袋に似ているが、布袋から蜜柑の香りは漂ってこない。
月英が首を傾げつつ目で見てもいいか問うと、彼はすぐに頷き返す。
恐る恐るといった手つきで袋を開け、中を覗いた瞬間、月英は「えっ」と声を上げた。
「万里! これってもしかして移香茶の茶葉!?」
袋に詰まっていたのは、全て暗緑色の茶葉。
「しかもこの香りって……茉莉花だよね!?」
茶葉の苦い爽やかな香りの中で、ふわりと薫る甘い香り――それは間違いなく茉莉花の香りだった。
彼の間に合ったという台詞は、茉莉花の開花がすっかりこの一週間で終わってしまったことから来たのだろう。それまでに花を集められたと。
「いや、それでもこの量は……」
どれだけの茉莉花を集めたのか。袋にはぎっしりと茶葉が詰まっており、この茶葉全てに香りを付けようとすれば、両手でも足りないほどの花が必要となったはずだ。
「どうやって作ったの、万里!」
月英の驚きに、万里は誇らしそうに胸を反らし片口を上げる。
「茉莉花の香りが一番強くなるのは、花開く寸前の夜だろ。濃い香りを放つ分、茶葉に挟む枚数を減らせる。つまりその分量産できるって寸法よ!」
月英は額を手で打った。
「そうだった……確かに、茉莉花にはそんな特性があったんだった。でも、どこでそんな知識を?」
万里は懐から紺色の本を取り出す。
「それって……」
「全部、これのおかげだよ。精油の作り方も、茉莉花のことも、お前が追記した直接茶葉に香りを吸わせる方法も……全部、この【陽氏香療之術法】っていう本があったからできたことだったんだ」
万里が手にしていたのは、父の陽光英が唯一月英に遺した西国香療之術法とい本。西国の部分はかつて破られ、そこには燕明が別の紙を接いで『陽氏』と記してくれていた。
すっかり暗記してしまって、香療房に置いたままにしていたのだが、まさか万里が自ら読んでくれていたとは。
しかも最後に見たときより、本の頁がめくれあがっている。
どれだけこの短期間で、彼が読んでくれたのか。
父の遺した術が、陽の血――自分以外のものへと確かに継がれたことに、月英は震える思いだった。
たった一人。それでも無から有への一歩はとてつもなく大きなもの。
「ちなみに、この蜜柑の精油は俺でも亞妃様でもなくて、豪亮さんだ」
「っあははは! 分かる、分かるよ! だって、蜜柑の精油瓶だけ棚いっぱいに並んでるんだもん!」
きっと豪亮が自慢の筋肉を使って、たくさん絞ってくれたのだろう。どれだけの蜜柑の皮を踏めばこれほどの量が作れるのか。
「もう……太医院にも、芙蓉宮にも足を向けて寝られないね」
万里の手から本を受け取り、月英は胸に抱きしめた。
「おい、押すなって! 馬鹿、このっ!?」
すると、香療房の外からガヤガヤとした声が聞こえてきた――と思った瞬間、扉が開いてバタバタとむさ苦しい男達がなだれ込んでくるではないか。
「み、皆!」
浅葱色の医官達が積み重なった様子は、まるで新緑季節の山のようだ。へんな呻きが聞こえるが。
一番下には恐らく豪亮だろう巨木が倒れている。
無事かを確認しようと月英が近づくと、一番下の巨木が――いや、豪亮が上に乗る医官達を跳ね飛ばす勢いでむくっと起き上がった。
「無事か、月英!」
ガバと肩を鷲づかまれ、前後に揺らされる月英。
「痛いことされてない!?」
「たんと飯を食わせてもらってたか!?」
医官達は口々に月英を心配する言葉を口にする。
今現在、前後に揺すられすぎて大丈夫じゃない状況にあるのだが。
「あぁ……こんなにガリガリに痩せ――いや……、変わってねえな」
豪亮が月英の袖をまくり腕を確認する。
「頬ももっちりふかふかしてるわよ」
春廷も、月英の頬を摘まんでは引っ張ってその弾力を確認する。
「あ、どうも。良い壁さん」
「誰が壁よ!」
予想以上に月英が変わりなく、元気があることを知って、押しかけた医官一同は安堵の息を吐いた。
「皆、心配かけちゃってごめんね」
「まったくだよ」「少しは大人しくしてくれ」などの声がとぶ。皆の顔は辟易しているが漏らす声はどこか温かい。
「本当。月英がいると毎日退屈しないわよね」
「おかげで暇で膿むことはねえよ、なっ!」
「うわわっ!?」
突然、豪亮が月英を肩の上に担ぎ上げ、まるで猫のように月英を肩に座らせた。
「ちょっと豪亮!?」
不安定な体勢で抗議の声を上げる月英に、しかし豪亮は呵々として笑う。
「まるで嵐みたいな奴だよな、お前はよ。太医院の青嵐だわ!」
碧い瞳を見つめ、豪亮はニカッと大きな歯を見せて笑った。
こんなに清々しい笑みを向けられるようになるとは、太医院に臨時任官したときから誰が予想できただろうか。
「っ豪亮……」
今日は、一体何度瞼を濡らせば良いのだろうか。
自分を見つめる皆の視線で身体が熱くなる。
「ご、豪りょ――っ!?」
感極まって、月英が豪亮の頭に抱きつこうとしたときだった。
「うおああああ!? それ以上は危ない! 豪亮さんの命が!」
焦った万里が、豪亮からひょいっと月英を抱え奪う。
皆、万里の行動にきょとんとしていた。月英も、そこまで出かかっていた涙がひゅっと引っ込んでしまった。
「ど、どうしたのよ、万里?」
「俺の命?」
「い、いやぁ、はは……」
万里は曖昧で下手くそな笑みを浮かべながら、月英を抱えたままじりじりと医官達から距離をとる。そして、わざとらしい「あ!」という声を上げた。
「月英! 亞妃様のとこにいかないとだよな! 今回のことで随分と世話になったし、お前が解放されたって知って待ってると思うぜ」
「う、うん? それもそうだね」
「よし! じゃあ善は急げで……すみません、先輩方! 俺たちちょっと行ってきます!」
言うやいなや、万里は月英を小脇に抱えて、バタバタと香療房を出て行ってしまった。
先ほどまでの喧噪が嘘のように、あっという間に静かになった香療房。
医官たちは皆、目を瞬かせて二人が去った方を見つめていた。
「もっと落ち着いた奴かと思ってたが、随分と面白い奴だったんだな……お前の弟」
「本当ね。まるで昔のあの子に戻ったみたい」
豪亮はチラと横目に春廷を確認し、ふっと口元をほころばせる。
「お前がそんな顔するなんてな……良かったな」
ええ、と春廷はゆっくりと噛みしめるように頷いた。
「月英には、色々なものをもらうわね」




