4-10 脅したら殺されそうになった
配達人は背後から追ってくる者の気配がなくなって、ようやく足を緩める。
「……っ一体誰が……まさか気付かれたわけじゃ……」
配達人の男は上がった息を整えるため、一度立ち止まって後ろを振り返った。
しかし、やはりそこには自分を追う影などなく、男は深呼吸と一緒に安堵の息を吐く。
「そろそろ潮時か……一度目は成功したんだし、これ以上は必要ないか?」
男がぶつぶつと独り言を呟き、思案にふけっていたその時。
「見ぃつけたあああああああ!」
先ほど背後から聞こえていた声と同じ声が、突如、頭上から降りかかった。
顔を向ければ、隣家の壁の上に少年が仁王立ちしているではないか。
「色んな場所で働かされ続けた僕の土地勘を侮ってもらっちゃ困りますね!」
少年――月英が、壁の上から飛び降り、配達人の前に立ち塞がった。
「特にここら辺りの裏路地に関しちゃ、僕の方が詳しいですよ」
男が逃げ込んだ場所は、かつての月英の職場――花街であり、下民区を含むここら一帯は、月英にとっては庭のようなものである。
月英は男へと歩みを進めた。
笠を被った男の顔は、取り立てた特徴はないのっぺりとしたもの。恐らく張朱朱に配達人の特徴を教えられたとしても、見つけることはできなかっただろう。
「あなたですよね。僕の移香茶の茶葉に変なものを混ぜた人は」
「……だとしたら?」
「当然、一緒に御史台に行ってもらいますよ。じゃないと、僕の無実が証明されない」
しかし、当然目の前の男は素直に「分かりました」などとは言わないだろう。
だから月英は少し脅しをかけてみることにする。
「知ってます? 花街って店ごとに用心棒を置いてたりするんですよ」
酒に酔った客が店の妓女に危害を加えたり、懸想しすぎた者が妓女を連れ出したりと、日夜問題に事欠かないのが花街だ。
当然、店の商品である妓女を守るため、楼主たちは対抗手段として用心棒などを常駐さている。
「用心棒って町人の諍いには手出しはしないですが、少しでも妓女に何かあると、地の果てまで追いかけて滅多打ちするんですよ。二度と妓女に変な気を起こさないようにって。ここで僕が妓女のふりして助けを呼んだらどうなるか――」
「では、呼ばれる前に始末するとしよう」
男は平然として、懐から短刀を取り出した。
「――ってええええ!? 配達人が戦えるだなんて聞いてない!」
ぎらりと鈍く光る刃に、月英も驚きに声を大きくする。
向けられる男の目は冗談や脅しではなく、手に持つ短刀と同じ鋭利な光を宿している。
「えっと、ここは穏便に……」
済むはずがなかった。
男は配達人とは思えぬ素早さで月英に向かって疾駆する。
これはもう駄目だと、月英が悲鳴を上げながらうずくまったとき、金属の弾けるような音が思ったよりも遠い位置で聞こえた。
「……ほえ?」
涙目になりながらも様子確認に顔を上げてみれば、目の前には誰かの背中があった。
「大丈夫ですか、月英殿?」
「は、藩季様!?」
振り向いて見えた顔に、月英は驚きの声を上げた。
どうして彼がここに――そんな疑問が思い浮かぶも、それよりも安堵のほうが大きく、月英はへろへろとその場に尻餅をつく。
くす、と藩季のいつも弓なりになった目が、さらに山なりになる。
すると、ふわりと彼の手で目を覆われた。
「月英殿、私が良いと言う少しの間、目を閉じていてください」
こんな状況で目を閉じるというのに、不思議と抵抗はなかった。
月英がコクリと頷くと、藩季の「良い子ですね」という声が聞こえ、しばらく後に誰かの呻き声が聞こえた。
尾を引くような呻きがプツリと途切れれば、静けさが戻ってくる。
――も、もう目を開けてもいいかな。
などと思っていると、今度突然の浮遊感に襲われた。
「うわ!? え! 藩季様!?」
突然のことに目を開けそうになったが、藩季の「まだですよ」という声で耐える。
横抱きにされていることと移動していることは、伝わってくる振動や手の位置で分かった。
背中を支える藩季の腕は、骨張っていて硬かったが、暖かくとても優しいものだった。落ちないようにと藩季の袍に縋っていると、ピタリとシ振動がやんだ。
「もういいですよ」
ゆっくりと地面に下ろされ、目を開ければ、やはりいつもと変わらぬ柔和な顔した藩季がそこにいた。
「助けてくださってありがとうございます、藩季様」
「はい、どういたしまして」
藩季は懐から小さな布袋を出すと、月英の手を取って乗せた。
「これは?」
「あの配達人が持っていたものです。おそらくは移香茶に混ぜられたものかと」
「証拠品!」
まさか、証拠品が手に入れられるとは思っていなかった。
「あの配達人はまだ生きてますよ。拘束してますので、あとは翔信殿に任せればいいでしょう。私の方からも御史台に連絡を入れておきますし、刑部が上手くやってくれますよ」
何から何までありがたい。
すると、藩季は口の前で人差し指を立てる。
「私に会ったことは内緒ですからね。接見禁止……守らないと、李尚書がうるさいですし」
そう言うと、藩季はするりと、まるで風のように横の路地へと身を滑らせた。
「あ、藩季様」
すぐに後を追って路地をのぞきこんでみるも、もう彼の姿はどこにもなかった。
「おっ、月英ー!」
そこへ、別れた方向から翔信の声が飛んでくる。
「翔信殿!」
額に滲んだ汗を拭い、もうへとへとなのか月英の隣まで来ると、彼は膝に手をついて全身で息をしていた。
「どうだ、そっちはいたか?」
月英は彼に、藩季から渡された小袋を自信満々に差し出した。
「ばっちりですよ」




