4-8 夜の語らい2
それから暫くの間があった。
「お前がそう思ってくれているのなら、嬉しいものだな」
「嬉しい、ですか?」
「お前をこの世界に引き入れたのを後悔したこともあった。香療師などという役職を与えず、王宮を出て行ったあの日から、それぞれの道で生きていくべきだったのかもと。そうすれば、こんなに辛い目にも遭わずに済んだのではと、ずっと不安だった」
初めて聞く燕明の本音に、思わず月英は背後を振り返った。
しかし、当然そこに燕明の背などあるはずもなく、ただの硬い石壁があるばかり。
「そんな……っ、陛下が香療師っていう役目を与えてくれたおかげで、僕は生きる場所を見つけられたんです! 感謝こそすれ、辛いだなんて思ったことはないですよ!」
月英は拳を壁に打ち付けていた。
「月英……」
「大切なものができたからこそ、失うのが怖いんですよ。この感情だって、香療師にならなきゃ一生味わうこともなかったものです」
たった一年にも満たない期間。
それだけでも、月英の全てはまるっと変わってしまった。
諦め続けた人生で諦めないことを覚え、一人ぼっちで生きていくと思っていたのに、一人で生きていくことなんてもう考えられない。隠し続けた本当の名を、今では自ら名乗ることができる。
「陛下……僕、幸せですよ」
嘘偽りない気持ちだった。
再び沈黙がやってくる。虫の声がいやに大きく聞こえる。
このリリリと鳴く虫は何だっただろうか。
今、空の色は何色だろうか。
風に乗って流れてくる香りはどんなだろうか。
一年前まで、そんなことを考える余裕すらなかった。
もう充分だ、と月英が思った時、ようやく頭上の窓から声が降ってくる。
「なあ、月英……名を呼んでくれないか」
「え、誰のです?」
「俺の」
「陛下のですか!?」
また随分と突拍子もないお願いだなと、月英は一人目を瞬かせた。
「ずっと殿下か陛下だろう。そろそろ名で呼んでくれてもいいんじゃないか」
「いえいえいえ、そろそろとかないですよ。陛下は陛下ですし」
「藩季だって俺のことは名で呼ぶんだが?」
「歴が違うんですから当たり前じゃないですか。それにまず立場も違いますし」
「藩季の娘ならば、父が呼ぶのと同じ呼び方をするべきとは思わないのか。子は父を見て育つのではないのか」
暴論もいいところだ。
「それに、俺はお前とは皇太子として出会っていない。お前は俺をただの燕明という官吏と思っていたな。であれば、やはり出会った当初の認識で呼ぶべきではないのか」
「え、えぇ……」
なぜ、そこまでして。
月英が若干引いた声を漏らしても、燕明の矢継ぎ早な説得は続く。
「今だけでいい。俺とお前しか聞いてないんだから、ちょっとくらい呼んでみろ。何か発見があるかもしれないぞ、ほら」
ここまで言われると、何だか本当に、名を呼ぶことで何かしらの発見があるのではという気すらしてきた。
――ま、まあ確かに誰もいないなら……本人が良いって言ってるし。
「い、今だけ……ですよ?」
返事はなかった。
待っているから言え、ということなのだろう。
月英は間違わないようにと彼の名を頭の中で繰り返し、口にする。
「え……燕明……様」
呼び慣れないせいなのか、口ずさんだ唇がチリチリと痺れる感じがした。
さて彼の反応は、と思ったが返事はない。
ただ、ややあって、咳き込む声が聞こえてきた。
「よく聞こえなかった。もう一回」
「えっ!? 絶対聞こえてましたよね!?」
絶対に咳をする音より、自分の声のほうが大きかったと思うのだが。
「いーや、何も聞こえなかった。ほら、もう一回」
「……っ燕明様」
「最後の『様』しか聞こえなかった。もっとはっきり言ってくれないと」
「どうして急に耳が遠くなってるんです」
突発的な加齢なのか。姿は見えないが、もしや髪が白くなっているのでは。
燕明は月英の異議は無視し、「ほら」と再度を急かしている。しかも、声音はどこか楽しそうだ。
完全に揶揄われているのだと察するが、呼ばなければ終わりそうもない燕明の「もう一回」に、月英の方が先に折れた。
「~~っえ・ん・め・い・様!!」
半ばやけくそに。
向こう側からあっはっはと、とても愉快そうな笑い声が聞こえてくる。ちくしょう。
「ありがとう、月英。とても嬉しいよ」
「面白いの間違いでしょ。まったく……今回だけですからね、燕明様」
「本当に嬉しいさ。誰に呼ばれるより、お前に呼ばれるのが一番嬉しい」
「そ、それなら良かったですよ」
先ほどは壁を邪魔に思ったが、今は壁があってくれて良かったと思った。
手で仰いで顔に風を送る。ヒヤリとして気持ちよかった。
すると、いつの間にか笑い声は収まっており、代わりに「月英」と言う神妙な声が降ってくる。
「……俺が座る椅子は、座り心地がよさそうに見えるだろう。身に纏った袍は、肌触りが良さそうに見えるだろう」
相づちを必要としていない話し方だったため、月英は耳だけを傾けた。
「だが、椅子は硬く冷たいし、袍は鉛を編んで作られたように重いんだ」
彼は今どのような顔をしているのだろうか。
膝を抱えてはいないか。
また目の下に隈など作ってはいないか。
心配とはまた違った感情が、月英の心をぎゅうと握りしめる。
「月英……俺を一人にしないでくれ」
「はい」
考えるまでもなく、勝手に言葉が口を突いて出た。
「俺も決してお前を一人にはしない」
掛布を掴む月英の手は、いつの間にか拳を握っていた。
「私ももちろん、一人になどしませんよ」
突然、壁の向こうから燕明以外の声が聞こえた。声だけでも誰が向こう側にやってきたのか、月英にはすぐに分かる。
「藩季様!」
壁の向こうが騒がしくなる気配があって、わやわやとした声が窓から漏れ聞こえてくる。
「お前、衛兵の見張りはどうしたんだ! こちらに来ないようにしろと頼んだはずだぞ!?」
なるほど。大丈夫だと言った理由が分かった。
「ははっ、そんなのとうに眠ってもら…………」
「…………」
「眠られてますよ。よっぽど眠かったのでしょうね、夜ですし」
「藩季ィッ!」
相変わらずの二人だなと、思わずプッと笑いが噴き出る。
「藩季様、元気そうで何よりです」
「月英殿、この変態のお願い事を聞いてくださって、ありがとうございます」
燕明の「藩季ィ」という声を背後に、藩季の声がよりハッキリと聞こえる。恐らく窓に向かって喋ってくれているのだろう。
「月英殿、私からもお願いがあるのですが聞いてくれますか?」
「もちろんです、僕にできることなら」
彼がお願い事とは珍しい。
いつも月英の願い事を聞くのが願いだとばかりに、過分な施しをされてきた身としては、初めてだろうそれに興味がわく。
「牢塔を出たら、抱きしめさせてください」
「あ……」
これを彼のお願い事とするのは、少々自分に都合が良すぎないか。
藩季の声音から滲むのは、官吏の藩季としての心ではない。月英の父親としての気持ちだった。
「……っはい」
「待ってますから」
「はい、待っててください」
月英は胸に拳を押し当てた。
これは何が何でも、無実を証明しなければならない。
自分のためだけじゃない。信じてくれている彼らに報いるためにもだ。
「それでは疲れているでしょうから、月英殿はもうお休みになってください」
「おやすみなさい」と返事をすれば、藩季の声が遠くなる。
「さあ、そろそろ私たちも戻りませんと」
「お前が寝かせた衛兵が起きるからか?」
「私、こう見えても子守唄には定評があるんですよ」
「はっ、どうせ昏倒するほどの駄声という定評だろう」
「まあ、私の美声が駄声に聞こえるだなんて……燕明様はとうとう耳まで逝ってしまわれたのですね」
「待て、耳までとはどういう意味だ。までとは」
「え、頭は元よりですが」
「よし、衛兵が起きたらお前を牢塔にぶち込んでもらおう」
遠ざかる二人の声を聞きながら、月英は筵の上に横になった。
――きっと大丈夫。上手くいく。
彼らが望むのなら、何でも叶えられそうな気がする。




