4-6 あいつと関わると本当ッッッッッ!
皇帝の執務室で、万里は背中を冷たくしていた。
「さて、恋人の春万里」
執務机に両手で顎杖をついて座す己が主の笑顔を、これほど恐ろしく感じたことがあっただろうか。
名を呼ばれ、万里はゴクと喉を鳴らす。
「月英とはいつからそのような関係になったのか、是非とも教えてくれないか?」
「いえ、あの……それは……っ」
いくら滅多に言葉を交わさない相手だとて、これは万里にも分かる。
皇帝は、随分とご立腹されているのだと。
『何でこんなことになってるんだよ!』と、万里は心の中で泣き叫ぶ。
燕明の後ろに佇む彼の側近からも、何故かただならぬ圧が伝わってくる。
容疑者とされている月英よりも、自分の方が酷い状況に置かれているのではないか。
「アイツ……いえ、月英はその……恋人とかではなくてただの太医院仲間と言いますか……第一、男……ですし」
「ははっ、隠し通さなくたっていいぞ」
声は笑っているが、燕明の目は笑っていない。
――勘弁してくれッ!
「駄目ですよ、燕明様。怯えているではありませんか」
藩季が燕明をたしなめたことに、冷静に話を聞いてくれる人がいてくれて良かったと、万里は安堵した。
が、次の瞬間に絶望のどん底へと突き落とされる。
「――で、どこまでですか?」
「はへ?」
「月英殿とは、どこまでの関係かと聞いているのですよ」
細い目が薄らと開かれ、まるで片刃の剣のように鋭利な形が描かれていた。内側から覗く黒い瞳は昏い鈍色を宿し、喉元に刃先を突きつけられているような緊張感が部屋を包んだ。
――ダメだ……話が通じない。
確かに、宮廷では男同士で蜜月関係になる者もいる。しかし割合で言えば、女人に懸想する官吏のほうが遙かに多い。
だというのに、わざわざ少ない方の可能性をここまで心配する必要があるのか。
もしかすると、彼ら自身がそういった恋愛観を持っているが故だろうか――と、そこまで考えて、万里は一つの言葉を思い出す。
『これは僕だけの問題じゃなくて、色んな人に関わってくることだから……』
脳内で再生された月英の発言。
――『色んな人』って……誰だ……?
月英の交友関係の狭さから考えれば、自ずと対象は絞られる。
そして、今この状況だ。
「ま……さか、陛下は月英の性別を……」
随分と濁した物言いだったが、もし自分の考えていることが正解であれば、この言葉だけで充分理解してくれるはずだ。
そして予想通り、万里の発言を聞いた燕明と藩季は、がらりと雰囲気を変えた。
冷ややかな空気が引き潮のようにサッとなくなり、代わりに驚きと焦りが部屋を満たした。
「……春万里」
『恋人の春万里』として呼ばれたときより、遙かに威圧が増していた。
「お前は知っているのか?」
何を、という部分だけ伏せて交わされる会話は、腹の探り合いといったところか。迂闊に月英の秘密を口にして相手が知らなかった場合、大変なことになってしまう。
しかし、万里には確信に似たものがあった。
皇帝と側近は秘密を知っていると。
万里は恭しく頭を下げた。
「はい。陽月英が女人であるということは」
部屋の空気が張り詰めた。
しかし、それも一瞬。すぐに、向かいからは長く深い溜め息が聞こえてくる。
顔を上げれば、燕明がどこか安堵したように全身から力を抜いていた。
「どうりで、女人でありながら月英が宮廷に入れたわけですね」
「まあ、その件に関してはいろいろあってな。私も最初は男と思っていたのだ」
そういえば、最初は皇帝自らが臨時任官という形で月英を医官にしたのだったか。
万里は、それも致し方がないだろうと深く頷いた。
あの色気のいの字もない小猿を見て、誰が女であることを最初から疑えるというのだろうか。無理だ。絶対に無理。
「それで、春万里はどのようにして知ったのだ――って、まさか!」
ガタンッと、燕明は椅子をひっくり返さん勢いで立ち上がった。
「ままままさか……白国に行った際……い、一緒に寝所を共にして……!?」
「ちちちち違いますよ!? じ、自分が知ったのはその後ですから!」
慌てふためく燕明につられ、万里も懸命に胸の前で手を振り否定する。
それを聞いて燕明は宙に息を流すと、どっかと椅子に腰を落とした。
「とりあえず、まあそういうことだ。これを知っているのは私とそこの藩季だけだが、まさかお前は他言しては……」
「も、もちろん、自分も誰にも言っておりませんからご安心ください!」
部屋に来てから初めて空気が普通のものになった。
万里の呼吸もようやく楽になる。それと同時に、心も楽になった。
もし月英が女だということを皇帝に知られれば、たたで済むわけないだろうと危なっかしく思っていたのだが、その皇帝自身が味方であるのならこれ以上頼もしいことはない。
「春万里。それでは、お前はどうやって月英の秘密を知ったのだ?」
「それが、本当に偶然の事故なんですが、月英の胸に触れてしまいまして」
「……ほう」
安堵で気が緩んだせいか、部屋の空気が再び凍り付いたことに万里は気付かない。
「自分も最初は何かの間違いかと思ったんですが、その後の月英は、あまりに分かりやすいほど自分を避けるもので」
「……なるほど。あいつが三日ほど太医院を休んだのはそういうわけか」
燕明の目からもスッと温度が消えていっているのだが、それすら気付かず万里は軽くなった口でつらつらとその時の状況を話した。もちろん、追いかけっこの末、壁際に追い詰め医官服を緩めて確認しようとしたことまで。
万里にとって、月英とのやりとりは友人同士のちょっとした喧嘩程度であって、そこに他意などなにもない。
だから、気付かなかったのだ。
まさか、あの小猿にそういった想いを寄せる者がいることなど。
「なるほど。お前のために月英は三日も休み、宮廷内では追いかけっこなどという楽しそうなことを繰り広げ――」
「楽しそう? え、あの……陛下……?」
どういう意味だろうかと、視線を後ろの藩季へと向ける。
しかし、藩季は顔を逸らし、全身を何かに耐えるようにぷるぷると震わせているではないか。
そこで万里の賢い頭が余計な思考を瞬時に巡らせた。
――ま、まさか……。
「――あまつさえ、月英の禁断の柔肌を露わにしようとしただと……? ほう……」
「や……やわ……?」
そんなはずはない。
まさかそんな、萬華国の至宝とまで言われる彼が、小猿なぞに《《そのような》》想いを抱くわけがない。
自分たちが敬い仰ぐ絶対的存在が、桃饅頭で簡単に捕獲できるような存在に気を寄せているなどと。
「う……嘘だ……っ」
万里はたどり着いた結論を拒むように呻き後退った。
「藩季」
しかし、燕明のその一言で万里の身体は自由を奪われる。
先ほどまで目の前にいたと思っていた藩季が、まばたきの一瞬で背後に回り込んでいた。
「い、いつの間に!?」
動くな、とばかりに肩を背後から掴まれ、耳元に口を寄せられる。
「良かったですね。もし彼女の柔肌を見ていたら、今頃あなたの頭と胴体が別れを告げていましたよ」
「さて、春万里。今後の月英との正しい付き合い方というものを、私とじっくり話そうではないか」
小猿にこれ以上無い心強い味方がいて安堵したのも束の間、同じ香療師として一つ屋根の下で働く自分にとっては、常に命を狙われる日々が始まるのだなと、万里は膝を折った。
――あいつに関わると、本当……。
「ああ、それと。最近、亞妃からよく呼び出しを受けているらしいな?」
「いぃっ!?」
「まあ、それについてもじっくりと聞かせてもらおうか……時間はたっぷりあるだろう? 香療師殿」
――本ッ当……!!




