3-7 無自覚こそ最大の爆弾
「そして、一番変態だなって思うのは、僕にこんなに心地良い居場所を与えてくれたところですかね」
「……その居場所は、お前自身で手に入れたものではないか」
チラと目だけで月英を伺う燕明の口先は尖っており、それにまた月英は笑みを深くした。
「ええ。でもやっぱりその時の機会も、陛下が与えてくれたんですよね」
今回のように。
「陛下が陛下でいてくれるからこそ、僕は安心してこの国で生きていけるんです。僕のためを思ってくれるのなら、その椅子を邪魔だなんて思わないでください」
「お前はまったく……」
身体が暖かいからだろうか、気分までふわふわしてくる。
気分の高揚に任せてへらりと相好を崩した月英に、燕明もようやく薄い笑みを浮かべた。
「へへ、何だか久しぶりに陛下の顔を見たら安心しました」
ふあぁ、と月英は大きな口を開けてあくびをする。
「眠いのか?」
「う……多分?」
「多分とは何だ、多分とは。自分の身体だろう。大体お前はいつも自分のことは――」
どうやら燕明もいつもの調子に戻ったようだ。
小言がうるさい。
「李尚書から聞いている。申の刻までに戻れば良いんだろう」
目をさすりながら、月英はこくりと頷く。
「時間が来たら起こすから、眠いんだったら少しここで寝ておけ」
それはさすがにと思いつつも、身体は石のように重く、立ち上がる気力すらわかない。ふらふらと上体を揺らしていれば、燕明の手が優しく月英を己が胸の方へと押し倒した。ちょうど良い堅さと暖かさが、みるみる月英から思考力を奪っていく。
「……じゃあ……お言葉に、甘えて……」
ふあ、とまた大きなあくびが出る。
たちまち、目にせり上がってきた涙と一緒に、眠気までもが一緒に上がってくる。
ジンジンと頭が痺れたような感覚がして、瞼が重くなる。
頭上でふっと燕明が笑う気配がして顔を上げれば、狭まる視界の中で、燕明が笑っていた。しかも何がそんなに嬉しいのか、今まで見たことないくらいのふやけた笑顔だ。
よくは分からないが、眠気に浸食された頭ではまともな思考ができないのも当然のこと。つられて月英も、わけも分からずへへと嬉しくなった。
「陛下……ぼくずっと……、そば……に、た……ぃ」
もう一度あくびをすれば、月英の上下の瞼は完全にくっついた。
余程疲れていたのだろう。すぐに、すーすーと心地よさそうな寝息が聞こえてくる。
「~~っこいつ……最後に最強の殺し文句を……」
顔を手で覆えば熱かった。
恐らく赤くなっているに違いない。
「……藩季がいなくてよかった」
きっと事細かに日誌に書かれ、末代まで揶揄いの種にされていただろう。
燕明は手で熱くなった顔を仰ぐと、次にその手で月英の前髪を払った。
手入れする者がいないからか、すっかり以前のような髪に戻ってしまっている。
閉じられた瞼の下には、この国で一番美しい色が隠されているのを、燕明はもう知っている。
燕明だけでない。
宮廷官たちにはじまり、次第に王都の民、そして果ては全国民が知ることになるだろう。
そうなってくれれば良いなと、燕明は願う。
「月英……」
腕の中で無防備に眠る彼女に、燕明の影が覆い被さる。
「好きだ」
前髪を撫で上げた月英の額に、燕明の熱がそっと落ちた。
◆◆◆
「へ、陛下!?」
牢塔の入り口を守っていた衛士は、正面からやってきた者を見て、目玉を落としそうなほどに驚愕した。
しかも、皇帝は何かを抱きかかえてやって来る。
両腕でしっかりと抱く様子から、とても大切なものだろうと思って見ていれば、近くづくにつれそれが人だと分かる。
「陛下、その者は……」
「収監されている陽月英だ。そこで力尽きて寝こけていたから運んできたまでだ」
「そ! それはお手を煩わせてしまい誠に申し訳ございません!」
顔を青くして、衛士は自己最高記録の高さで拱手を仰いだ。
「では、あとはわたくし共が――」
衛士が慌てて燕明の手から月英を受け取ろうとするも、燕明は身体を背けて月英を衛士から遠ざける。
「え……」
「いや、私が運ぼう」
呆気にとられている衛士を放置して、燕明はさっさと牢塔の中へと入っていった。
薄暗く淀んだ空気が漂う牢塔内に、燕明は奥歯を噛んだ。
衛士に案内された月英の牢屋だという場所は、筵しか敷かれておらず、他は粗末な掛布が置いてあるだけ。
その筵に月英を横たえる時、燕明は奥歯が欠けてしまうのではと思った。
すやすやと眠る月英の身体に掛布を掛け、燕明は牢塔から出る。
「そうそう。彼は丁重に扱うように。食事の量ももっと増やせ。囚人といえど、雑に扱って良い理由にはならないからな」
衛士は「ハッ」と気持ち良い返事を返したものの、余韻には疑問が漂っている。
燕明はクスと口元だけで笑った。
「私の掌中の珠だ。なによりも丁重に扱え」
「え……」
「はは、冗談だよ」
衛士の顔が固まったのを見て、燕明は背中越しにひらひらと手を振り歩き出す。
「この国にまだ二人しかいない香療師だ。大切な身だから注意してくれよ」
再び衛士が「ハッ」と声を上げるのを、燕明は背中で聞いていた。
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