2-10 気持ちだけじゃどうにもならない
つい腑抜けた声を漏らす月英。
しかし、それも仕方のない話。月英も翔信も、店主は男だと思っていたのだから。
「もしかして、張朱朱さん……ですか?」
「じゃなきゃ、今ここにはいないよ」
二人して、鳩が豆鉄砲くらったような顔をして彼女を見つめる。
彼女の纏う着物は独特であった。
首に沿うように角が丸くなった立ち襟に、曲裾の袖は肩から先はない。だが、曲裾特有の身体に巻き付ける仕様はそのままで、彼女の身体の線を惜しみなくさらけ出している。
光の加減なのか、彼女が頭を微動させる度に藍色が混じる黒髪は、正面からでも突き刺しているのが見える大きな歩揺で一つに纏めている。
実に妖艶だが、不思議なことに女を感じさせない妙な爽快さもあった。
「何だい、そんなじろじろと。あたしを眺めに来ただけかい?」
「いやぁ、その……ちょっと聞きたいことがあるようなないような……」
彼女の独特で威圧的な空気に飲まれて、月英はしどろもどろになる。
「男の子だろうハッキリ喋んな!」
「ひゃい、すみません!」
まるで女親分を前にした下っ端子分の気持ちだ。
下っ端子分になどなったことはないのだが、きっとこんな感じに違いない。
子分月英、頑張って親分張朱朱に直言する。
「あの、僕たち茶心堂から来まして」
「ああ、店子から聞いたよ。何だい、鄒央からの使いかい。それとも詫びかい?」
「そうです。お詫びがしたくて……」
はあ、と張朱朱はこめかみを小指で引っ掻く。
「その件に関しては、もういいって言ったのに……ったく。帰って鄒央に伝えな。詫びなら、雲陽州の高級茶葉をこれからは六掛けで卸してくれってね」
張朱朱は呵々と笑うと、足先を階段の方へと向けた。
「さてと、これでもあたしは忙しい身なんだ。これで失礼するよ」
「いや違――っ! あの、張朱朱さん!」
勘違いしたまま戻ろうとする彼女を、月英が腰を浮かせて呼び止める。
「張朱朱だなんて、お役人じゃないんだし堅っ苦しい呼び方しなくていいよ。朱朱って呼びな」
「移香茶を作ったのは僕なんです!」
張朱朱の踏み出した足が、前方へ着地せずに元の場所へと戻ってきた。
「あ?」
たちまち張朱朱の声音に怒気が孕まれる。
「松明花と茉莉花の移香茶を作ったのは……僕なんです」
階段を向いていた張朱朱の大きな身体が、ゆっくりと月英の方を向く。
見上げる月英と見下ろす張朱朱。
その対峙を、向かい側で「あばばばばば」と指を噛みながら気配を消して見守る翔信。
「あんたかい。あんな酷いもんを作ったのは」
「ひど……!? いえ、そう思われても仕方ないですよね。僕のお茶を飲んで、体調を崩された人がたくさん出たと聞きました」
「ああそうだよ! おかげでこっちゃは大変したんだ」
「本当に……迷惑をかけてしまってすみませんでした」
月英は勢いよく腰を折った。
しかし鄒央の時とは違い大丈夫だという声はない。
張朱朱は、より低くなった月英の頭を顎先を上げて見下ろしていた。
「何で茶葉に毒を混ぜたか知らないが、客に何の恨みがあるってんだい。それとも、このあたしの城をぶっ壊したかったのかい!?」
「違います!」
反射で月英は上体を起こしていた。
そこだけは、何としても否定せねばならないことだった。
「僕は香療術で作られるこの移香茶が好きなんです。飲んだ人が笑顔になってくれるこのお茶を、街の人にも飲んでもらいたいと思って、僕が鄒央さんにお願いしました。そんな僕が、自分の術を汚すような真似を、ましてや笑顔が消えるようなことをするはずがないじゃないですか!」
月英が噛みつかんばかりに言い募るも、張朱朱は「はんっ!」と鼻で一笑に付す。
「信じらんないね。実際に体調を崩した客が出てんだよ。役人からも茶葉に毒が混じってたって報告をもらったんだ。どっちを信じるかなんて分かりきったことさ!」
「確かに……毒が混じってたって僕も聞きました……でも、本当に僕はそんなこと……」
どうしたら彼女に信じてもらえるのか分からず、月英の顔は次第に力なく俯いていく。
頭上から呆れとも疲れともとれる、いやきっと両方が含まれているのであろう嘆息が降ってきた。
「坊ちゃん、一つ教えてやるよ。建設的な会話の仕方ってやつを」
淡々とした声だった。
先ほどまでの怒気は感じられない。
しかし、ゆるりと顔を上げた月英に落ちてきた言葉は、酷く冷たいもの。
「気持ちじゃなくて事実だけで話しな」
ここで月英は、鄒央が東明飯店に行かせるのを随分と渋った理由がわかった。
今、月英が持っている『事実』で、彼女の誤解を解けるようなものは何一つない。全て、月英の言葉と気持ちだけである。
鄒央は彼女のこの性格を知っていたのだろう。
今になって、見送りの際に「気をつけて」と言った本意を理解した。
結果は、見るも無惨なボロ負けである。
「この東明飯店はあたしの夢だ。幼い頃から思い描いてきた夢の城なんだよ。苦労してやっとここまで大きくしたんだ……それなのに、それを奪おうってんなら、いくら子供でも容赦はしないよ」
向けられた張朱朱の目は、野犬のようにギラついていた。うっかり返す言葉を間違えれば、即座に喉笛を食いちぎりそうなほどに獰猛な野犬。
声から消えた怒気は全て、目に宿っていた。
腕組みした指先が、苛立たしそうに二の腕を打っている。
「ようやく客足が戻ってきたところなんだ。あんたがあの茶葉を作った張本人ってなら、あたしはこれ以上あんたと関わりたくない。まかり間違って、変な噂をおっ立てられたら堪ったもんじゃないし」
もう月英には返す言葉がなかった。
「……帰りな」
言って、張朱朱は自らが先に階段を降り始めた。
「でも、朱朱さ――」
「気安く呼ぶでないよ。そう呼べるのは、あたしが赦した奴だけだよ」
赦す――それは気なのか、罪なのか。
どちらにせよ、どちらも赦してもらっていない月英には蛇足思考であった。
ぽん、と肩が叩かれる。
翔信だった。
顔を向ければ、ゆるゆると首を横に振られた。どうやらこれ以上は無理だと言っているらしい。
月英は再び階段へと顔を戻す。ちょうど張朱朱が階段を下り終えたところだった。
前髪の下のうつろな瞳に、店の奥へと消えていく彼女の広い背中をただ視界に映していた。




