3-1 萬華宮の男装医官は、
『異国融和策』――それが皇太子燕明がやろうとしている事だった。
しかし未だに朝廷の理解が得られておらず、全ては朝廷のたった一人の官吏によって封殺されている。
それが門下省侍中『蔡京玿』だった。
皇帝を掣肘できる程の権力を有する門下省の長。門下省は元よりその業務――皇帝の詔勅の可否判断が出来る事から、権力は朝廷機関三省六部の中でも頭一つ抜き出ている。宰相位が三代前からずっと空位な事もあり、実際の皇帝に次ぐ権力者だった。それに加え、蔡京玿は先帝の寵臣ときている。先帝亡き今もその権力は顕在だった。
「――どうして皇太子より、その蔡侍中って人の方が発言力が強いの?」
言いながら月英は竈の火を調節する。その隣では豪亮が手持ち無沙汰なのか、盥に井戸から持ってきた水を注いでくれていた。
「そりゃあ、やっぱり経験だろうな。先帝を長年支えた辣腕寵臣と、皇太子とはいえ二十そこそこの人とじゃあ、皆前者につくだろ」
「そういうもん?」
「ま、お前は政治とか興味なさそうだもんな。言うて俺も、医術さえ学べれば政治は割とどうでも良いけどよ」
月英が「そこの天竺葵取って」と手を突き出せば、豪亮も「ん」と分かったように、薄紅の小花が咲いた植物をその手に乗せてやる。
未知のものに興味を示すのが医官の性なのか、豪亮のように医官の仕事が暇になると誰か彼かやってきて、月英の作業を覗きがてら手伝ってくれていた。お陰で皆、植物の特異な名前も覚えてしまっている。
月英はありがとう、と受け取った植物を鍋に入れ蒸し器に掛ける。
「けど、いつまでも皇帝が居ないって異常なんじゃないの」
「まあ、歴史を見れば後継者争いで空位が数年続いたなんて事もあったし、そんな空位だからって国が傾くような柔な人が、朝廷官吏になるわきゃねぇからな。皆良くも悪くもクセのあるお方達ばっかだよ。朝廷官吏っつーのは、各部省の長官様だかんな。それに空位っても今回は殿下がいるし、政治を回すには困ってないのが現状だな」
「ふぅん。じゃあ殿下もまだ即位できてないからって、焦る必要はないのかもね」
でも不眠になっているという事は、燕明には何かしらの負担が掛かっているという事なのか。
「まあクセの強い中で特に殿下が厄介に思ってるのは、その蔡侍中と、礼部尚書の孫二高って方だろうがね。つーか、即位できてないのは蔡侍中よりも、孫二尚書が原因って感じかな」
「その人も異国排斥派なの?」
「いや孫二尚書は聞く限り、融和策に異は唱えてないはずだ」
「じゃあどうして?」
豪亮は「んー」と顎をさすりながら天井を睨む。
「元々即位ってのは、礼部尚書の承認さえあれば出来るんだがな、だからこそ礼部の長官になる人には、より公平・中立性が求められるのさ」
確かにその礼部尚書の一言で皇帝が決まるのなら、誰だって彼におもねるだろう。
「だからやっぱし、他の長官が反対してるのに、即位を強行するって事はされないんじゃねえかな? それに孫二尚書も蔡侍中と並んで、先帝の寵臣って言われた方だからな。同じ朝廷官吏でも、あの方達に意見できるのは居ないと思うぞ。若い身で、殿下はよく折れずにやってると俺は思うね」
「政治って色々ややこしいね」
月英の身も蓋も無い他人事のような感想に、「そうだな」と豪亮も苦笑していた。
そんな政治は興味ないと言う豪亮に、ふと月英は聞いてみたくなった。
「ねえ、豪亮は異国融和策についてどう思うの? やっぱり……異人は……入ってきてほしくない?」
月英の声の調子が暗くなると同時に、頭も僅かに俯く。
するとそれを察したのか、豪亮の分厚い手がわしっと月英の頭を掴み撫でた。撫でるというより、最早振るといった動作に近かったが。
「ちょちょちょ!? 豪亮やめてって! 脳が口から出る!」
抗議の声を上げれば、豪亮は呵呵と大口開けて笑った。
「安心しろ。俺達医官は政治云々より、自分達の医術の向上にしか興味のねえ奴ばっかだからよ。だからお前に……まあ、家柄がなくてもそれで嫌だとか思わねえよ。お前はしっかりした香療術ってのを持ってるんだから自信持てよ!」
きっと気落ちしたのは、自分が下民だという事を気にしているからと思ったのだろう。実際はもっと根の深い問題を抱えているのだが、それでも月英には豪亮の言葉が嬉しかった。
「ありがと豪亮」
「おう!」
豪亮が歯を覗かせ清々しい笑みを月英に向けた時、奥から彼を呼ぶ医官の声が飛んできた。豪亮は片手で月英に別れを告げると、医官達の元へと去って行った。
すると月英の元から離れた豪亮に、二人の医官がコソコソと寄ってくる。
「お前ばっかりずるいんだよ!」
「何が?」
「月英だよ。最近あいつちょっと可愛くね?」
思わず豪亮は「はぁ!?」と素っ頓狂な声を出した。
「お前、働き過ぎで目でもいかれたか? 男に向かって可愛いはないだろ。しかもあいつ、顔の半分隠れてんじゃねえか」
「いやいや、あれは私も可愛いと思うよ。むしろ顔が見えないのが想像力を掻き立てるっていうか。小さいのが一生懸命にチョロチョロしてるところなんて、子鼠みたいじゃないか」
「褒めてねえよ、それ」
豪亮は肩越しにチラと月英を盗み見た。
確かに小さな月英が竈や台を行ったり来たりしたり、ちまちまと蜜柑の皮を剥いていたりする姿は、何とはなしに癒されるものがある。それに何だか最近はよく笑うようになった。だが可愛いかと言われれば……
「いや、やっぱ可愛くねえ。蜜柑汁飛ばす奴は絶対的に可愛くねえよ」
「それやられんの、お前くらいだって。逆に羨ましいわ」
「お前ちょっと休め。頭もおかしい」
変な趣味でも開花したのか、と豪亮は額を抑えて疲れた溜息を吐く。
「でもな、実際私達だけじゃないよ。月英の事を可愛いと思ってるのは」
そう言って房の奥に視線を投げた男のあとを追って見れば、医官に治療を受けている患者達がチラチラと月英の様子を窺っていた。
《《そういった趣味》》の者が居ることは知っていたが……。通りでここ最近、軽症患者の多い事だ。
「なるほど。そういう理由か」
全員目がいかれている。
もう一度豪亮は月英を盗み見る。月英は何か鼻歌を歌いながら花びらを毟っていた。
「……まあ、女だったら……ちょっとは可愛いんじゃねぇの……」
「だっよねーッフガ!!」
嬉々とした声を上げそうになる医官の口を、慌てて豪亮が押さえた。
「ん? なに騒いでんの豪亮。仕事しなよー」
「あ、ああ、悪ぃな」
医官の頭を腕で脇下に抱え込んであははとぎこちなく笑う豪亮に、月英は「変なの」とぼやいて作業に戻った。花を毟っていたと思ったら今は布を裂いている。
その手元を見て医官は「あっ」と声を上げた。
「そういえばさっき礼部の劉丹が来て、肩が痛いからまた『湿布』くれって言ってたんだったよ」
「えーまた!? 劉丹殿はもう僕じゃなくて医術の方が良いんじゃない?」
「確かに良く来るね。まあ、飲み薬より湿布が良いってのは分かるけどな」
月英を取り巻く環境で変わったのは、太医院の中だけではなかった。
房に置いていた暑さ緩和のための薄荷石を知った外朝の官吏達が、その涼しさを知って「うちにも」「こっちにも」と欲しがったのだ。
それからは早かった。
『太医院には香療術なる医術を使う医官が居る。縫ったり飲んだりせず、病を治せるらしい』――と瞬く間に噂は宮廷を駆け巡り、事ある毎に官吏達が月英を訪ねるようになっていた。
――まあ、薬は不味いし、出来れば痛い思いもしたくないもんね。
香りだけで病が治るのならば、そこに皆群がるだろう。多少噂に尾ひれが付いている感じも否めないが、香療術でどうにもならないと思う者は、豪亮達医官に引き渡すから問題無い。
痛い不味い思いをせずに病を治せるとウキウキ気分でやって来たのに、無慈悲に医官達の手に渡される時の官吏達の絶望顔は、中々に面白いものがある。
「それに上手い具合に広まってるようだしね」
月英は満足げに一人頷くと、さっそく水桶に桉樹の精油を垂らし、先程裂いていた布をその桶に浸した。
「じゃあ、ちょっと礼部まで行ってくるねー」
近くに居た医官達から、「んー」やら「はいよー」やらの適当な返事が返ってくる。香療術が広まるのも嬉しかったが、それと同じだけ、呼び掛けた自分の声に返事があるというのは心を弾ませた。
◆◆◆
外朝と内朝は『央華門』で区切られている。門といっても門の形をしているわけでなく、実際には正殿だった。
そこでは偉い人達の話し合いやなんやかんやが行われているらしい、という程度しか月英は知らない。いつも月英が使うのはその正殿の左右に備えられた、外朝へ行くための小さな扉だけだったからだ。
「おお! やっぱりコレだね。気持ち良い~。今日はこれ何の香り?」
劉丹の首や肩には布が貼り付けられていた。
「桉樹ですよ。肩こりに効く抗炎症作用の他に、集中力を増す効能付きです。どうにも……劉丹殿はお仕事に集中されていないようですから?」
そう言ってやれば、劉丹は後頭部を掻きながら「参ったね」と苦笑していた。
「劉丹殿、肩こりが続くようでしたら、ちゃんと医術の方の診察も受けて下さいよ」
医術にも肩こりに効く薬があると豪亮が言っていた。
「だって薬は苦いもん」
頬を膨らませ、プイと明後日を向いてしまう劉丹の子供っぽい態度に、月英は苦笑いする。
「一体幾つですか……次に『もん』なんて言ったら医官に引き渡しますからね」
「えっ、まだ二十六だし良いでしょ!?」
「是か非かで言えば、許せないですね」
「許せない!? 存在の否定!?」
劉丹はここ最近太医院に頻繁にやって来る官吏だった。
人懐こく、誰に対しても飾らない態度で接する彼は、どこか憎めないところがある。
毎度自分を指名して来るのだが、今回のようにやってきても肩こりや、腕や脚が痛いなど大した症状ではない。今までどうやって仕事をしていたのか聞きたいほどだ。
それでも結局受けてしまうのは、やはり彼のその憎めないという不思議な魅力故でもあった。
「僕のこの香療術だって、欠点がないわけじゃないんですよ。精油は肌への影響が強いんで、こうやって水に薄めて使っているわけですし」
劉丹は人懐こく見える垂れた目を開いて、ズイと月英に興味の目を向ける。
「へえ。じゃあ、完全に安全なものでもないんだね。例えばどんな風に危ないの?」
この様に目をキラキラさせて興味津々に尋ねられるのは、正直悪い気はしない。嬉しさのあまり、ついつい月英も聞かれれば色々な事を話してしまう。
「そうですね。精油には毒性や感作性を持ったものも多いんです」
「毒!?」
「毒も一種類じゃなくて、経皮毒性、経口毒性、光毒性ってのがあるんですよ」
「経皮と経口は何となく分かる。けど、光毒性って?」
「皮膚とかに精油を塗って太陽の光に当てると、皮膚が火傷したりするんですよ。何種類かありますよ」
劉丹は「ひぇ、怖い」とおののいていた。
「けど、やっぱりそんな危ない精油、持ってないんだろう?」
「いえ……一応作ってはありますけど。毒性も強弱ありますし、皆さんにも注意して使ってますよ。あーでも、確かに一番強いのは使いませんね。怖くて」
父の本に作り方が載っていたから作ってみたが、他人に対しては使おうとは思わない。しかし香りは良いので、時々自分用に火を点して香りを楽しんでいる。
「ねえ、その精油ってなんていう植物からの? その植物もやっぱり毒があるの?」
本当に好奇心旺盛だな、と月英はふふと笑みが漏れる。
「いえ、毒は無いですよ。きっと劉丹殿も食べた事ありますから」
「え、食べれるのに毒がとれるの!?」
「無花果ですよ。正確には、その無花果の葉から作られた精油ですが。僕、その香りが好きで、自分用に時々焚いて使ってるんですよ」
劉丹はへえと興味深そうに聞いていた。
「ねえ、今度その無花果の精油の香り嗅がせてよ。肌に付けなきゃ大丈夫なんだろ?」
「じゃあ、一度ちゃんと医術の診察を受けるなら、今度お見せしますよ」
そう言えば劉丹は「うへぇ」と顰めっ面をしながらも、最後には「分かったよ」と渋々了承してくれた。
「ふふ、君と話してると面白いよ。ねえ、ところでさ……」
突然劉丹の手が、ぬうっと月英の髪に伸びた。
「この前髪、鬱陶しくない?」
指が前髪を掠める寸前に、月英は身を引き何とか回避した。その明らかに怪しい行動に、劉丹は目を瞬かせる。
「……ごめん。何か見られたくない傷でもあった?」
「あ! いえ、ちょっと……人と顔を合せるのが苦手で……」
前髪を手で押さえ顔を背けた月英に、それ以上劉丹は聞かなかった。
「ま、誰にだって他人には言えない事の一つや二つくらいあるもんね」
月英は笑った。上手く笑えていたかは分からない。
「じゃあ湿布剥がしますね」
劉丹の首と肩に貼った湿布を取ると、持ってきていた水桶に放り込んでいく。
「これ、ずっと付けっぱなしじゃダメなの。香りも良いし、スーってして気持ちいんだけど」
「言ったでしょう。肌への影響が強いって。これは桉樹の精油を薄めて使ってますが、やはり長く肌に貼り付けておくと、感作作用を催したりしますからね」
「かんさ?」
「肌が刺激に敏感になるって事です」
全ての湿布を剥がし終わると、劉丹は肩をぐるぐる回し、にこやかな顔を月英に向けた。
「うん! 調子よくなったよ。流石だね月英ちゃん!」
「……その『ちゃん』っていうのも、どうにかなりませんかね」
「なーりませんねえ」
劉丹はにこにこ顔で、片付けをする月英を眺めていた。
「僕は好きな人とは距離詰めたいタイプだからさ」
「それはどうも」
「……月英ちゃん、色恋方面の感性死んでるでしょ」
月英のあまりの反応の淡泊さに、劉丹の方が表情を変えた。下唇を突き出し物悲しそうな顔になる。
「色恋も何も、男同士ですから」
劉丹は「はぁ」と聞こえよがしな溜息を吐くと、やれやれと頭を振る。
「君はまだ、この甘美で耽美な世界を知らないんだねえ。勿体ない。せっかくだし僕が教えてあげよう」
そんな世界知りたくもない。両手を広げ京劇のような仕草で近寄ってくる劉丹に、月英は桶の水を指に付け下瞼に塗ってやった。
「んぎゃっ何これ!? スースーするっ!!」
「秘技、薄荷水目潰し」
両手でバチンと目元を押さえて「ひー!」と悶える劉丹をよそに、月英は「ちゃんと後で拭っておいてくださいね」と、形ばかりの助言を与えさっさと房を後にする。
――本当、宮廷って変態ばっかだな。
「あ、待って待って!」
月英が出て行く気配を感じたのか、慌てて劉丹がその後を追う。しかし月英は足を止めない。すると劉丹が声を張り上げた。
「――月英ちゃん、湿布ありがとうね!」
月英は驚きに足を止め、思わず振り返ってしまった。そこには房から顔を出し――目は相変わらず閉じたままだったが――、嬉しそうに手を振る劉丹の姿が。
「……っちゃんと、お仕事して下さいね」
月英はそれだけを返すと、早足で房を離れた。
「ありがとう」――その言葉が、こんなにも嬉しくもむず痒いものだとは知らなかった。その言葉を貰う度に、月英は空っぽだった自分の中に、なにかが溜っていくような心地だった。
まるで、つらら石の先からポタリポタリと落ちた雫が、月英という新たな人間を形づくっていくようだ。
水桶を抱え太医院へ向かう月英の足は次第に速まる。抑えきれない、と高鳴る鼓動に合わせ足まで駆けてしまった。
◆◆◆
「おう、おかえり月英――って、どうした? 随分と息があがってんな。走って帰って来たか?」
息切れで荒くなる呼吸。上下する肩。火照る顔。
その全てを無視して、月英は目を丸くしている豪亮に渾身の笑顔を向けた。
「ただいま!」
豪亮は一瞬目を見張ったものの、すぐに「おう」と笑って迎えてくれた。
豪亮の隣で医官が「ほらね」と、じと目を豪亮に向け、豪亮は「うるせっ!」と医官に拳を振り上げて騒いでいた。
何を騒いでいるか分からなかったが、楽しそうな雰囲気に月英の頬も緩む。
――ああ、ここは間違いなく僕の居場所だ。




