2-3
ドンッと重たい音を立てて、竈の上に大鍋が置かれた。
隣の作業台にも、バラバラと一見しただけでは分からない器具が置かれる。月英はそれらをくみ上げ一つの装置を作り上げた。
太医院の房の片隅には竈が据えられている。薬草を煮たり煎じたりする時に使うもので、常に火が入っている。
おかげで夏場はそこら一帯地獄のような蒸し暑さになり、この季節は必要にかられないと誰もすすんでは近付かない。
そこに、いつもは部屋の隅の薄暗い所で静かに果物の皮を剥いたり、花を並べたりしていた謎の新人が現れたものだから、皆一斉に手を止めて注視した。
ヒソヒソとした様子伺いの声が方々で上がる。
一体何なんだ、何をやるつもりだ、あの器具はどうしたんだ――などと房はざわついていた。
そしてやはりというか、最初に月英に正面切って声を掛けてきたのは、いつも月英を小馬鹿にしてちょっかいをかける男だった。
「おいチビ」
不機嫌を表わしたような野太い声。
線の細い者が多い医官の中でその男はよく目立った。武官のような逞しい体つきは他の医官達よりも一回り大きく、見た目からも態度の大きさからも医官達の中心的存在だと伺い知れた。
――まず、この男をどうにかしないとだよね。
先日の燕明との会話から、月英は自分のすべき事を考えた。
そして出した結論が、「まずは認められる事」だった。その為には太医院の主を押さえるのが一番だ。
本当の太医院の主である呈太医は、皇族や後宮妃達の健康を一手に担っている。その為太医院を不在にしがちで、実質この男が太医院での権力者だった。
月英は、背後で睨みをきかせてくる男を振り返った。
「僕の名はチビじゃない」
「どうせすぐ居なくなる奴の名なんか覚えねえよ」
一々言う事が腹立つ男だ。
月英は身体の横で手をわきわきさせる。手元に蜜柑の皮が無い事が悔やまれる。
「その竈は医官が仕事に使うもんだ。茶でも湧かしたいなら食膳処行きな。医官より宮廷料理人の方が向いてるかもしれないぜ、ハハッ!」
男は月英の両手にこんもりと盛られた葉っぱの山を見て意地悪く笑った。クスクスと周囲からも失笑が聞こえる。
しかし月英は怯まない。
「変な事を言うんだな。僕も医官だけど?」
「医術の使えねえ奴は、医官とは言わねえんだよ。コネで任官された奴に、真剣にやってる俺達の横で優雅にお花遊びなんてされちゃ堪んねえんだよ!」
男の月英を見つめる瞳は、それこそ食膳処に迷い込んだ野良犬を見るような、異物を排除しようとするものだった。
「君が知る医術が全てじゃないだろう」
男は「ほう」と口を丸め、月英に好戦的な目を向けた。
「じゃあお前の医術を見せて貰おうか? 医官を名乗るならそれくらい出来るだろ? 出鱈目だったら大人しく医官を辞めて貰うからな」
周囲から「おお」囃し立てる歓声が上がった。
月英と男のやり取りは、もはや一種の見せ物と化していた。
「……分かった」
これくらい想定内だ。この程度の状況をひっくり返せないようでは、到底この術を認めさせる事は不可能だろう。
月英は男達の存在を認知の外へと追いやると、素早く作業に取り掛かった。
「ただでさえ暑いってのに、そんなに火をくべてどうするってんだよ」
男は顎先から滴る汗を拭いながら、ぐちぐちと悪態をつく。
竈の火はごうと音を立てて燃えさかり、ただでさえ暑い房の中はさらに暑さを増し、まるで地獄の釜で煮込まれているようだった。
窓から一応の風は入ってくるが、房の熱気を巻き込んだ風はただの拷問でしかない。
月英の動向を見つめる男や他の医官達の額には、玉のような汗が浮いていた。
男や医官達は「うー」だの「あー」だの、聞いているこちらが鬱陶しくなる、湿度の高い呻きを上げている。正直うるさい。
――嫌なら、隣の房に行ってれば良いものを。
この場に蜜柑が無いのが本当に、心の底から悔やまれる。
「ここに蜜柑がなくて良かったね」
「あったら、どうだってんだよ」
「ふふ……今頃、明日の朝日も拝めなくなってたよ」
「ただの目潰しを妙に雰囲気出して言うんじゃねえよ」
バレていた。しかし、男も蜜柑汁の怖さを思い出したのだろう。月英から一歩距離を取る。
「それで、お前は今何の薬を作ってんだよ? チラッとしか見えなかったが、鍋に大量の葉を入れてたよな。煎じ薬か?」
「煎じてるわけじゃない。蒸してるんだよ。正確には水蒸気蒸留法って言うんだけど」
「蒸す!?」と、男は語尾を高めて月英の言葉を復唱した。
「丸薬でも作るつもりか? それでも普通そんな沢山は必要ねえだろ」
知的好奇心が旺盛なのか、男達は何だかんだとくだを巻きながら月英を質問攻めにする。そこはやはり医官なんだな、少しだけ月英は見直した。
「もうすぐで出来上がるから、大人しく見てなよ」
月英は、竈隣の作業台に置かれた玻璃瓶を顎で示してみせた。その先には冷たい井戸水をたっぷりと張った盥があり、中に透明の玻璃瓶が置かれていた。
玻璃瓶は鍋の蓋と繋がっており、革のようなもので出来た鍋の蓋は、飴を伸ばしたように細い管状になって、玻璃瓶の中にその先端を差し込んでいる。
「この、鍋の蓋は革か?」
「豚の胃袋だよ」
男は「へえ」とだけ言うと、鍋の蓋の伸びる先を追って目線を移動させた。目線の終着点からはポタリポタリと一滴ずつ雫が落ち、玻璃瓶を満たしていた。
男は玻璃瓶に顔を近づけ、顎を撫でながら雫が落ちる様子を眺めていた。
「蒸気を冷却して液化してんのか」
やはりこの男ただ単に身体が大きい故の主ではなく、医官としての高い技倆も持ち合わせているようだった。一目でこの装置の意味を当ててしまった。
「そう。鍋から出た蒸気を液体にする為の装置なんだけど、出てきた蒸気はただの蒸気じゃない」
男は首を捻った。
「鍋に入れた葉の香り成分が含まれた蒸気だよ」
「香り!? 蒸気にか!?」
素っ頓狂な声が房に響いた。
「どんな植物だって大なり小なり香りを持ってるでしょ? それは植物の中にある『油のう』って袋に香りの成分が入ってるからなんだけど。その香りの油ってのが揮発しやすくて、こうやって蒸してやると、出来た蒸気に香りが移るってわけ」
月英は取り巻く者達に説明するように、液体の溜った玻璃瓶を掲げ見せた。
液体は不思議な事に、上下を分けるように一本の線が入っていた。
「この上澄み部分が精油、この線より下の部分が芳香蒸留水って呼ばれるものなんだ。芳香蒸留水の方が成分は薄いけど、どっちもしっかりと香りがついてるよ」
月英は上澄みを薬匙で丁寧に掬い取り、精油瓶に移した。そうして出来た白磁瓶に入った精油と、玻璃瓶に残った芳香蒸留水とを男に手渡せば、男は確かめるような手つきで二本を受け取り、それぞれに鼻を近づけ香りを確認していた。
「この香り……薄荷か!」
二本の瓶からは、清涼感のある香りがほのかに立ち上がっていた。
男の言うとおり、月英が鍋に入れていたのは、薬草園に茂っていた大量の薄荷だ。
「確かに薄荷は、俺達も煎じ薬や薬膳として使うけどよ。じゃあ、お前はこんな回りくどい方法までして、俺達のと同じもんを作っだけっていう事かよ」
先程まで興味津々という顔をしていた男の表情が、途端に曇る。
月英を見る目も、どこか見下したようなものへと変わった。しかし、月英はその視線を受けてもケロリとしていた。それどころか、男の手にあった精油の瓶を奪うと医官達の山を突っ切り、窓辺でゴソゴソと作業を始める。
窓から風が流れ込んでくる。しかし、やはりその風は変わらず生温い。
こんな熱い風なら無い方がマシだな、などと医官達が思っていた次の瞬間――
「――ん……あれ? なあ……急に涼しくなった感じしねえ?」
「おお何だ!? 風が冷てえよ!」
男も医官達も、突然変わった風に驚きを隠せないでいた。窓の外や、冷たく感じた自分の手を不思議そうに眺めては首を傾げている。
「どう? これで少しは仕事しやすくなるんじゃないかな」
男が目玉が落ちそうな顔で月英を見ていた。
「お前の仕業か!? けどどうやって……まさか呪法か」
呪法とは星をよんだり、卜占を行う者達が得意とする、まじないのようなもの。月英は呪法について信じてはいないが、これを信じるものは案外多い。
「はは、僕がそんなの使えるわけないだろ。正体は――さっきのコレ」
そう言って見せたのは先程の精油の瓶と、窓辺に置かれた謎の石。
「素焼きの石に精油を染み込ませたんだ」
風が吹き込む度、嘘のように房が涼やかになっていく。同時に、医官達の苦痛に満ちていた顔も、穏やかなものへと変わっていく。
「確かに俺達の知らない術だ」
これで認めてくれたか、と月英はホッと胸を撫で下ろした。が、男は「だが!」と言葉を続けた。
「だがな、チビ。これのどこが医術って呼べるんだよ。風が涼しくなった。気持ちいい。それだけじゃ医術とは言えねえんだよ!」
言う事は確かにその通り。ごもっとも。
だが単純に月英はこう思った。「しつこい」と。
「だったら……そのご自慢の身体に直接分からせてやるよ」
月英はドスドスと足音を立てて男へと向かった。その迫力に医官達は身を引いて道を空けた。
男も迫り来る月英の全身から溢れる邪気に、顔を引きつらせる。
「お、おい、何だ――」
男は最後まで言葉を言わせて貰えなかった。
月英の両腕が男の医官服の襟を乱暴に掴み、そして――
「きゃあああああッ!」
一瞬にして男は上半身を剥かれた。
女みたいな声を出すな。
本物の女である自分以上に女らしい悲鳴が無駄に癪に障る。
月英は剥ぎ取った男の医官服を、「フンッ!」と床に投げつけた。
「いやあああああッ!」
胸を手で隠すな。
なぜか下衣は剥いていないのに男の足は内股だ。それがまたイラッとくる。
月英は投げ捨てた男の医官服に、もう一つの玻璃瓶の中身――芳香蒸留水をぶちまけた。
「お、俺の服ううぅ!」
黙れ。下も剥くぞ。
びしょ濡れになったその医官服を月英は乱暴に揉み込み、水気を絞ると男に投げて寄越した。
この時の月英の様子は、まるで憎い者の首でもねじ切っているような迫力だった、と後に医官達は語っている。
「さっさとその無駄な肉を隠しなよ」
「肉じゃねえ! 筋肉だ!」
どちらにしろ医官には不要だろう。
男は返ってきた医官服にさっさと袖を通していたが、そこで気付いたようだ。
「……んだ、これ。服が……冷てえ?」
男の言葉に医官達が笑う。
「ハハッ、何言ってんだよお前。濡れてんだから冷たいに決まってるだろう」
「いや、違うんだって! ただの水濡れだったらすぐに体温が移って温かくなるだろ? それが全くないんだって! 氷室で冷やしたみてぇによ!」
医官達は「またまたぁ」と男の言葉に笑って、取り合わない。
「それに、心なしか身体がスッキリするんだわ。なんか軽くなったような……」
「勘違いじゃないのか? ちょっと私に貸してみろよ」
「いや、オレが試したい。ちょっと脱げよソレ」
自分も私も、と医官達が男にわらわらと群がり始める。
「や、やめ!? 剥くな! おい、待てって! や! や! 襲われるううう!」
熊のような男にカマキリのような医官達が群がる。絵面はまさに汚い地獄。
「そういう事やるなら、別の所でやってくれないかな。僕、そういう趣味ないから」
「俺だってねーわ!!」
と男は言いつつも、その腹の上では「うわ、本当だ冷たい!」などと、服の取り合いが勃発していた。男はご自慢の筋肉を使い、纏わり付くカマキリ達を千切っては投げ千切っては投げ、ようやく立ち上がる。
月英はおもむろに、ぜーはーと肩で息をしている男に、薄荷の精油が入った白磁の瓶を手渡した。
「薄荷は清涼感を与えてくれるだけじゃなくて、疲労回復や集中力向上にも効果があるんだ。君がさっき身体が軽いって感じたのもそのおかげ。他にも頭痛や腹部異常、虫刺されなんかにも――」
月英が精油の効能をツラツラと並べれば、男の口はそれに伴い段々と顎が下がっていく。
「そんなにか!? 俺達が薄荷を使うのは病熱の時だけだったが……」
「植物には色んな力があるんだよ。一つだけとは限らない。使い方だって、なにも口から入れるばかりじゃない。こうやって嗅覚を使って、直接脳や身体に作用させる事も出来るんだ」
男は「へえ」と、しばらく手にした瓶を真剣な目付きで眺めていた。
「……お前が使うのはこの薄荷の精油だけか?」
月英はにやりと口角を上げると、唯一の私物である竹籠を開いて男に見せた。そこには小皿や器具の他に、ずらずらと沢山の白磁の瓶が並んでいた。
「端から蜜柑、薫衣草、丁子、月桂樹、鼠尾草、加蜜列、茉莉花、天竺葵――」
「待て待て待て! 呪文かそりゃあ!?」
ツラツラと植物の名前を唱え始めた月英を、慌てて男が止めた。
「精油ってのはこんなにもあるのか!?」
「これはごく一部。僕じゃ手に入らない植物の方が多かったから」
「これでごく一部……」
男だけじゃなく他の医官達も、竹籠の中身を覗きに集まってくる。
「これが僕の医術。確かに君達みたいに切ったり縫ったりは出来ない。だけど、僕にだって治療はできる。それは身体だけじゃない。香りは心も癒やせるんだ」
ふわりと部屋に風が吹き込んだ。
先程まで不快感を運んでいた風は、今はもう心地良いだけの清々しい風だった。
男達の顔の汗もいつの間にか引いている。呼吸をすれば、身体の中から冷やされていく。
男と月英は無言で睨み合っていた。
「……医術……じゃあねえな」
月英の顔が強張った。
「だが、確かにこれは治療術だ」
俯きかけた月英の顔が跳ね上がる。
「俺達医官は自分らの術に誇りを持ってる。日夜新しい治療法や、もっと有効な薬を探して勉強してる。だから、殿下の一声で入ってきて、いつも房の隅で花遊びしてるような奴なんか――って気に食わなかったんだがよ。でも実は、お前はお前でちゃんと自分の術を磨いてたんだな」
男は笑っていた。
その笑みは、皮肉でもなければ嘲笑でもなかった。それは月英が太医院に来て初めて向けられた、喜びを表わす純粋な笑顔だった。
薄荷の香りが目に沁みた。
生まれて初めての感覚に、月英は上げた顔を隠すように再び俯ける。
「で、お前のこれは何術って言うんだ?」
「え……自分の為にしか使った事なかったから、そんなの考えた事もなかったけど」
「俺達の知る医術とは全くの別物だからよ、偏に医術なんて呼んだら混乱するしな。他の言い方探さねえとよ」
いつの間にか、男や医官達があれはこれはと口々に術の名前を発していた。
少なくともこの術は今は月英にしか使えない。男達には関係のない術のはず。なのにまるで自分の事のように、真剣に話し合ってくれていた。
――ああ……。
月英は、房の裏で燕明に言われた言葉を思い出した。
――互いに知らないと歩み寄れない、ってこういう事だったんだ。
彼等はなにも新人だからという理由だけで、自分に突っかかっていたわけじゃなかった。自分達の持つ術に真摯に向き合っていたからこそ、同じ医官の名を持つ自分が許せなかったのだろう。
月英は懐の本を、医官服の上からそっと撫でた。
――逃げずに……もう少しだけ早く向き合えば良かった。
彼等にも。
自分にも。
「……香療術」
ポツリと溢した月英の声に、男達は一斉に会話を止めた。
「香療術ってのは、どうかな?」
「香りで治療する術――か。いいじゃねえか!」
「うわわわわ!?」
男が月英の頭を乱暴に撫でその名に納得顔をすれば、他の者達も頷き承諾を表わす。
「ま! 共に精進していこうや、月英」
月英は顔を上げ笑った。
◆◆◆
「あ、そういえば……名を」
「ああ? そりゃ名くらい知ってるだろ。……一応……同じ医官なんだからよ」
男は照れくさそうに頬を掻きながらそっぽを向く。そんな男を、周囲の医官達がヤンヤヤンヤと囃し立てている。
「いや……君の名を」
「俺のかよっ!?」
先程までの可愛らしい態度はどこへやら、男は叫びと共に海老の如くのけ反った。周囲は爆笑している。
仕方ない。だってあれだけ自分を嫌っていて、覚えるつもりはないとまで言っていたのに、まさか知っているとは思わないだろう。
思わず月英も周囲につられ笑みが漏れそうになる。だが、今笑ったら明らかに怒られそうなので、伏せた顔の下で密かに笑う事にする。
男はまるで宣戦布告のように、肩を震わせながらビッと月英を指さした。
「豪亮だよ! ご・う・りょ・う! 覚えとけよ!」
「ははは、負け犬の遠吠えみたいな台詞だね」
「キシャアアアア!」
結局怒られた。
月英は周囲の医官達と一緒になって笑った。腹から笑うことがこんなに気持ちいいことだとは知らなかった。




