7 違和感
◇◇◇
「……こうして、冬の王様と銀のお姫様は永遠に幸せになりましたとさ。おしまい」
パタン、と本が閉じられると同時に、リージェンは深く息を吸う。ふぅ、と吐いて、兄の膝の上でうっとりと物語の余韻に身を任せた。
転生して早3年。リージェンは異世界ならではの不思議な雰囲気の絵本や童話に、すっかり虜になっていた。仁科健二であった時から、読書はそれなりに好きだったこともある。
いつしか、もっとたくさんの本を自分の力で読みたい、という願望が生まれ──そこから来る字の習得に対する意欲がまた、読書を好きにさせた。最近はずっと、父の書斎に入り浸っていた。
弟の幸せそうな様子に、読み聞かせをしていたユリウスもつられて笑顔になる。さらさらの白髪を堪能していると、弟は振り返って絵本の山を指さした。
「にいさま、もういっさつ読んでください!」
「えぇっ、でも次で4冊目だよ? 明日にした方が…」
「だめですか……?」
「しょうがないなぁ、これが最後だからね。どれにしようか?」
コロッと態度を変えて、絵本選びに加わるユリウス。
今までのやり取りをずっと見守っていたジークとルナリアは、ふふっと笑いをこぼした。
「はは、ユリウスはすっかり弟にぞっこんだ」
「喉が枯れかけているのにね。…そろそろ、お茶にしようかしら」
「本当? じゃあ僕も早めに切り上げないと」
そう言って、ジークは書類の束に向かう。子どものように無邪気な夫の表情に、ルナリアは眉を下げた。それから、兄弟の元へ歩み寄る。
ちょうど、リージェンが1冊の絵本を取り上げたところだった。
「じゃあ、これをおねがいします!」
リージェンが選んだのは、表紙の擦り切れた、少し厚めの絵本。金色の文字で、『黄金の大陸』と題されていた。
それを見て、ユリウスは顔を曇らせる。
「あ、これ、難しい本だよ。リージェンにはまだ早いかも……他にはない?」
「ええと……」
そう言われて、辺りの本を見回す。
先ほどの『冬の王様と銀の姫』に『メルクトールの英雄譚』、『まぬけなおおかみグレゴリー』、『天使と魔族』、『石になった勇者』、『創世の物語』。その他にも10冊ほど。
全部、何度も読んだことがあるものだ。
迷いに迷って、棚の本も見上げる。けれど、もっと難しそうなタイトルが並んでいた。むむむ、と唸る子供たちに、ルナリアが声をかける。
「ふたりとも、おやつにするわよ。今日はシュルリムノを剥いてあげるから、手を洗ってきなさい」
シュルリムノ、と聞いてリージェンはパッと顔を上げる。酸味とほどよい甘さが美味しい、ゼリーのような食感の果物だ。もちろん、前世では食べたことも見たこともなかった。今では、好物のひとつだ。
「はい!」
「はーい」
元気よく返事をして、いそいそと本を片付ける。
ウキウキと扉に駆け寄り、ノブに手を伸ばして──
──ガキン、と何かが折れる音が鳴った。
「へっ?!」
恐る恐る、音の発生源を見る。
リージェンの手は、見覚えのある鉄の塊をしっかりと掴んでいた。
綺麗な断面が、照明の光を反射する。
「え……えっ?」
目を白黒させるリージェンに、ルナリアが「あら」と声を上げた。
「もう、そんな時期なのねえ。ユリウスの時は短かったから、すっかり忘れていたわ」
「“破壊期”用の取っ手に替えないとだね。直しておくから、2人とも行っておいで」
朗らかに笑う両親からは、驚いた素振りも怒った素振りも見当たらない。ユリウスも同じだ。リージェンだけが混乱したまま、兄に手を引かれて廊下に出る。冬だからか、部屋の中よりずっと寒かった。
洗面所に向かう途中、大きな鏡に差し掛かった。少しだけ、手を握り込む。
鏡に映る、慣れない姿の自分。
両親や兄と同じ、白い髪に黄色の瞳。まだ幼いこともあるのか、一見すると性別は分からない。けれど、以前より整った顔がそこにある。
(……本当に、“僕”じゃなくなったんだ)
そう思うと同時に、ある違和感が心に芽生える。
これは──人間の容姿なのだろうか、と。
大鏡から、目をそらした。
手を洗って戻ると、ちょうど、書斎からポニーテールの女性が出てきた。
初めて散歩に出た日、留守番を請け負った人だ。『カリナン警備隊』の所属の証だという制服に、腰には剣。その凛とした緋色の眼がリージェンたちを見止めて、僅かに開かれる。
片膝をついて、彼女は問いかけた。
「おや。ユリウス様、リージェン様はどうされたんですか?」
「マヴィル。扉を壊して、ちょっとびっくりしてるみたいなんだ」
「それはそれは。…リージェン様、私たちなら誰でも経験することですから、あまりお気になさらず。では、」
「マヴィルは? 父さんに何か用があったの?」
立ち去ろうとした彼女を、ユリウスが呼び止める。マヴィルは少し視線を泳がせて、やがて、言葉を濁しつつ答えた。
「……色々と、報告を。ああ、悪いものではありませんから、ご安心ください」
そう言って、軽く頭を下げる。去り際に2人の頭を撫でていった。
彼女の後ろ姿を見送って、リージェンは確か、と記憶を探る。
(3年前、兄様を助けたんでしたっけ。誘拐犯から)
耳にした時は、領主の息子ならそういうこともあるんだろう、と納得していた。けれど、今となっては気にかかって仕方がない。
(何か、理由があるんでしょうか。それとも……)
考え事をしている内に、ユリウスが書斎の扉を開けた。ドアノブは既に新しい、銀色のものに取り替えられている。
部屋に入ると、ジークたちは机の上の何かを見ているところだった。
その表情は、今まで見たことがないほど険しい。
しかしそれも一瞬のこと。すぐに表情を崩して、おかえり、と言った。
「母さんが紅茶を淹れてくれたよ。それと、今日のシュルリムノは特別に蜂蜜がけだって」
その言葉に、子供たちは顔を見合わせ喜んだ。
いつもと違う、甘めの果実を堪能していると、ジークが「そういえば、」と切り出した。
「ルナリアはもうすぐ誕生日だろう? 今回は何がしたい? 今年はそんなに忙しくないから、何だってできそうだよ」
「まあ! でもそうねえ……さすがに100回を越えると思いつかなくなってくるわね。おじい様の気持ちがよく分かるわ」
「!?」
紅茶を噴き出しそうなのを必死に堪えて、リージェンは目を剥いた。
ひゃっかい……? と心の中で繰り返して、助けを求める意味で兄の方を見る。視線に気づいたユリウスは、不思議そうに首をかしげた。動揺している気配は欠片もない。
(いや、長齢がこの世界の基本の可能性がまだ……)
祈るリージェンの傍で、夫婦は楽しげに会話を続ける。
「僕らはついこの間成人を迎えたばかりだけど、もう既に大変だよね……壮年なったらどうなるのやら。
こればかりは、人間たちが羨ましいよ」
希望は、呆気なく打ち砕かれた。
その弾みで、紅茶が変な方に入る。
ケホケホと噎せるリージェンの背を、異変に気づいたルナリアがさすった。
「あらあら、大丈夫?」
「……、はい……」
弱々しく答えて、リージェンは呼吸を整える。
それから、愕然と、心の中でつぶやいた。
(僕、人間じゃないんだ……)
次回、変な閑話を入れます。