2 地上ではない、どこか
◇◇◇
気づけば、一面の青に包まれていた。
溺れているかのような息苦しさに、冷たいようでどこか暖かい、不思議な感覚。
何ともいえない心地よさに、だんだん“自分”の輪郭が溶けていく。
自我が完全に霧散しそうな、その時。
「───、」
ささやくような、懐かしい誰かの声がした。
(──え?)
微睡んでいた意識が、一気に冴えていく。
この声を、逃がしてはいけない。そんな焦りにも似た意思が、彼を突き動かした。
寝起きのようなけだるさの中、必死に声の元を探す。
(いた……!)
目星をつけた途端纏わりつく、海とも空とも違うあお。それを無我夢中でかき分けて、進む。
あと少しで影に触れる。
そう確信を持った瞬間、大きな圧力が加わった。
上にあがることも叶わぬまま、水に押し込められるように流される。奔流に逆らおうともがいても、どんどん声は離れていく。
(待って、教えて。あなたは、まさか──)
完全に見えなくなる前。
そのシルエットはふっ、と優しく笑ったような気がした。
手を伸ばしたまま、深く深く沈んでいく。
声の正体を確かめる術は既になく、もはや抗う必要もない。腕が、静かに下ろされた。
視界が深い青に埋め尽くされる。意識が再び、暗闇へと落ちていった。
《──おいで》
また、声がした。
混濁した意識の中、今度ははっきりと言葉が届く。
だれ、と疑問が言葉になる前に、押しつぶされそうな彼を誰かが拾い上げた。そのやけに細いくせに意外と芯のある手に、ただ身をゆだねる。
水から引き上げられる感覚と共に、真っ白な光が健二を包んだ。
◇
まぶた越しでもわかる、外界の眩しさ。
しつこく目覚めを促すそれに、もう少し寝ていたい、と健二は無意識に顔を覆った。
「…………あれ、手……?」
寝ぼけ眼で、至近距離のそれを動かす。握って開いて、また開いて。当たり前に見えるそれが、なぜか健二には無性におかしなことに思えた。
どうして、と寝ぼけた頭で考えて。
健二はやっと、自分が死んだことを思い出した。
「…あー、そうだった……」
思考が徐々に冴えてくる。
やけに冷たい背筋には、轢き潰された感触がまだありありと残っていた。その不快感に吐き気を感じて、健二は顔をしかめる。
と、そこでまた違和感を覚えた。
あらためて、目の前の腕を見つめる。
「…………ん?」
見間違いかと目をこすっても、確かに腕は己の肉体の一部としてそこにある。
「……え? 死んだはずじゃ──ええっ?!」
健二は勢いよく飛び起きた。
脳内に、カーブミラーで見た自分の姿がよみがえる。叫びそうなのを抑えて、健二は恐る恐る自身を見下ろした。
あらぬ方向に曲がっていた腕、折れていたはずの胴、肩から首、最後に顔。体のパーツを一通り触って確めて、ようやく健二は肩の力を抜いた。
「っはぁーーー、よかった……」
幸い、どこも折れたり裂けたりしていない。
轢かれた時と同じ制服姿に、安心したような、呆れたようなため息をつく。それから辺りを見回して、健二はなんだここ、と首を傾げた。
上下左右、白が絶えることなく続いているだけの空間。明確な光源もないのに、確かなまばゆさに包まれている。しかし、体の下を覗くと影もなかった。
暴力的なまでの白が、健二という異物を浮き彫りにしていく。
(──どうして、体と意識があるのか、疑問だったけど……そういうことか)
この浮世離れした空間と、自分が死んだという揺るがない事実。これら2つを合わせれば、自然とこの異質な場所の正体がわかる。
「これが、死後の世界なんだ」
呟いて、それ以外に何があるだろうか、と肩をすくめる。
ここで『実は自分は助かって、どこかの実験施設に連れこられたのではないか』などと考えたら、それこそSF小説の読みすぎだ。健二の友人のように。
あいにく健二にそんな趣味はないし、それを楽しむ余裕もなかった。
(本当に、終わったんだ。全部)
まだボーっとする頭に、死の自覚は生まれてこない。逆に、こんなにあっさりしたものか、とすら感じていた。
健二起き上がった体制のまま、残してきてしまった妹の周囲のことを思い浮かべてみる。そうすれば実感できるかもしれない、と考えてのことだった。
(ええと、高校の学費は……奨学金があるから大丈夫。当面の生活費は貯めてあったし、万が一を考えて巖谷の家に援助を頼んである。生命保険も降りるし、真奈実は優秀だからバイトもすぐ見つけられ……あ、もうやってたんだっけ。
で、料理は…………大丈夫だ、あいつがいる)
頭の中で指折り数えて、健二はうんうんと頷く。どう考えても、不安な要素はひとつとして浮かばない。
もう一人で色々出来るようになったんだな、と誇らしい反面、健二は少しの寂しさを感じた。その中に、“悲しい”という感情はなかった。
思考にひと区切りをつけて、健二は再び周囲を見渡す。
辺りにはやはり何もなく、誰もいない。視界には少しも変わらない純白が、ただ横たわるだけだった。
こんな場所で何をしていようか、と目を閉じた、その時。
「やア!!!」
無邪気な声が、健二の耳を貫いた。