1 悲劇はいつも唐突に
◇◇◇
“人生はこの世の何より残酷で、そのくせ、終わりはなんとも呆気ない”
誰が言った言葉だったか。
仁科健二は漠然と、そんな言葉を思い出した。
偉人か知人か、はたまた創作の人物なのか。思い出そうとしても、頭がうまく働かない。小さな思考が浮かんでは、また消える。そんな奇妙な感覚が、じっくりと健二を蝕んでいた。
景色がやけに遅く流れていく。スローモーションを見ているような違和感にとらわれ、健二は焦って視線を移した。
その中に、ぼんやりとカーブミラーの縁が写り込む。幸い、距離はさほど開いていない。
(……!)
鏡を見れば。
淡い期待を抱いて、その方向に精いっぱい首をひねる。意思とは一瞬遅れて、視界が動いた。
この反射的な判断は、正しかったと言える。
無機質な鏡に映る自分は、わずかに空中に浮いていた。仰向けに、腕や脚が放り出されている。まるで、己の一部であることを忘れたかのようにおかしな方に曲がっていた。酷く強張った顔が、こちらを凝視しながら遠ざかっていく。
瞬きの間に、視界から外れた。
(……違う、吹っ飛ばされたんだ)
かひゅ、と絶叫の代わりに細く息を吸う。ほんの一瞬、しかし遅い世界は否応なく健二に現実を焼き付けた。恐ろしいまでの静寂の中、長い刹那が過ぎていく。赤い水滴が目の前でくるくる踊るのを、ただ呆然と見ていた。
“死”の一文字が、心の臓に深く深く刻まれる。
(何で……いや、まだ)
助かる可能性はある。
重い頭を無理やり働かせれば、思考はどんどん明瞭になっていく。それに比べて、身体の方は相変わらず思うように動かない。それがひどく不気味だった。
(大丈夫、大丈夫……)
背筋を這い上がる何かを無視して、健二はしっかり目を開けた。
思い出せる一番近くの記憶は、学校から出たところ。
健二の通う高校では数少ない帰宅部員のため、いつも通り1人きりで校門を出た。ただひとつ、普段と違ったのは、そのままスーパーに向かったこと。それでも、慣れた寄り道だった。信号のない小さな横断歩道にさしかかったとき、急にサイレンの音が聞こえてきて──。
(そう、いえば)
もうひとつ、変わった出来事を思い出した。
つい数時間前、昼休みのこと。クラスメイトがスマホを片手に騒いでいた声が、やけに大きく、切迫していたのを覚えている。
(確か、隣の市で銀行強盗があった、って)
銀行強盗。
健二は無意識に、浅い息を詰まらせた。一番嫌な記憶が顔を出して、彼をあざ笑うように消えていった。こんな時に、と心の中で吐き捨てる。気を紛らわせようと視線を移して、そこで健二はようやく気付いた。
何かが迫っている。ゆっくりと、しかし確実に。
その時、世界が沈み込んだ。
自分の体勢が崩れたと気づくには、そう時間はかからなかった。内臓が弾むような、なんとも言い難い感覚が健二を包む。
(ジェットコースターみたい……な、わけないか)
内心、笑う。
意識をそらしている間にも、景色はゆっくり変わっていく。やっと反対側を見て、健二は僅かに目を見開いた。
そこには、よくある白塗りの大型車。
距離は、10メートルあるかないか。その正面の“顔”が、いつもよりずっと下にある。
フロントが変に歪んでいるのを、無意識に冷たい目で見た。
(そうか、僕は、轢かれたんだ)
道を渡ろうとしたところを、横から猛スピードで。
その事実に何の感慨もなく、ただ納得する。実は、交通事故に遭うのは初めてではなかった。確か3回目だっけ、とぼんやり思い出して、健二は何気なく運転席に目をやった。
視線がかち合った。
黒い服装の2人組が居た。顔は覆面で見えないが、体格からして男だろう。健二を指差しながら、口々に何かを叫んでいた。真っ黒な目出し帽の奥がおぞましいモノを見るように歪んでいる。その2人以外に人は居ないようで、代わりに後部座席には大きなケースと袋があった。
父似と言われた健二の眼が、すぅと細められる。
ひびの入ったガラス越しでも、彼らが悲鳴を上げたのがわかった。できる限りの復讐を遂げて、健二は口端を吊り上げる。
(自分が、こうしたんだ)
せいぜい、悪夢に見ろ。
などと恨みの言葉を言おうにも、喉からはもう、息すら絞り出せない。かわりに、真っ赤な液体がしゃしゃり出た。鬱陶しさと歯がゆさでまた、余計なことを思い出す。
もっとどす黒い、一面の赤を。
フラッシュバックする光景に、健二は初めて顔を歪めた。
悪い縁とは、こういうことなんだろうか?
その問いに答えるものは、いない。自分に聞くのも嫌になって、健二は二つ目の赤いため息をついた。先ほどまで何も感じなかった体が、だんだん重みを訴えはじめる。全身に、痛みの前兆が生まれた気がした。
黒い地面が迫る。
(…ろくな死に方ができないとは思っていたけど……事故死、か。
うわ、最悪だ)
タイヤも迫っているのに気がついて、健二は最後の悪態をついた。せめて顔だけは、無傷がいい。でないと、最愛の妹が自分の悲惨な姿を見るかもしれない。それだけが、気がかりだった。
でも、心配はこれで終わり。
(もう、頑張らなくていい……)
そう思うと同時に、全身から力が抜けていく。
別に、妹と2人だけの生活が苦だったわけではない。むしろ楽しかった思い出は、人並み以上にある。それでも、健二の心には安堵があった。
気を緩めた途端、家族との思い出がどっと溢れだす。幼い頃父と母、妹と一緒に、幸せに暮らしていたこと。優しい父が死んだこと。ひとりで自分たちを育ててくれた母が、病気で倒れた時のこと。守られる側から、守る側になったこと。いままでの人生、そのすべてがよみがえる。
健二はふと、遊園地に初めて家族4人で行った時のことを思い出して、頬をゆるめた。
(あんがい、幸せだったんだな)
健二の目から、透明な液体があふれてこぼれる。アスファルトはもう、すぐそこにあった。
最期に、祈る。手を合わせるかわりに、健二は静かに目を閉じた。
(最後のひとりにしてごめん、真奈実)
兄さんは一緒にいられないけど、真奈美なら絶対に大丈夫。独りじゃない。それに、疫病神はもういないから。どうか、僕たちの分まで幸せになって。
……ああでも、一つだけ。
ふと、目をひらく。そして、健二は口元に笑みを浮かべた。年相応の、屈託のない笑顔だった。
(“妹は渡さん”…なんて、言ってみたかっ──)
雑音。
ささやかな祈りは、もう、泣き崩れる妹にも、その隣で唇を噛む親友にも届かない。
これは、健二が考えうる限り、最悪の終わり方。しかしどこか満足げに、彼は永久の眠りを受け入れた。騒がしいサイレンも、金属のひしゃげた音も、か細い誰かの悲鳴も、すでに届かない。
もう、何も。
──それで、“仁科健二”は死ぬはずだった。彼の物語は、終わりを迎えるはずだった。
しかし。世界の理と、因果のために。
純白の城にて、また。
“彼”にすくわれる。
これは、魂と縁の物語。