7. 牽引
翌日の朝、ルーガーは谷間の入り口とトラックの間の数十尋の空間を、じっと睨みつけていた。下からみると、それは見上げるほどの高低差があって、重くて大きな荷物を載せたトラックには到底上がれそうになかった。しかも左右には折り返すような余裕はなく、この場所を真横に上がっていった挙句、なんとかして谷の入り口で正面に向きなおしてやらなければならないのだ。
昨夜計画した通り、谷間の入り口に停められた小型トラックから、滑車を介してロープが伸ばされた。その滑車の一方を、大雑把に計算したトラックの重心の位置から定めた場所に結びつけた。この位置についてもルーガーは頭を悩ませていた。おそらく、わずかな位置のずれのせいで、トラックは回転を始めてしまうだろう。その回転は操縦で補正する必要があり、そのお陰で手順は更に複雑になる。ルーガーはバランスが前後のどちらにずれた場合でも対応できるように、頭の中で練習を繰り返した。
準備が整うと全員が持ち場についた。トラックに乗るのはルーガーだけだった。ルーガーが最大出力でトラックを横向きに持ち上げ、残り全員がロープで引っ張るという算段だ。引き役には、ディカースやドルイを含む全員が参加することになった。それでも大変な労働になるのは明らかだった。ロープの最後尾についたレトニが叫んだ。
「いくよ、野郎ども! いち、にい、さん!」
掛け声と同時に、兵士たちがロープを引っ張り始めた。ルーガーは操縦桿を倒して、トラックを無理矢理上へと引き上げた。最初は抵抗していたトラックは、いきなりがくんと斜面を進んで、引っ張っていた全員が後ろへ倒れた。
「痛ってえ!」
「なんだよ!」
「くそっ」
「手を離すな!」
怒号が飛び交う中、ディカースが全員を制してロープを引きなおす。トラックは再びふらふらと上へ登ってきた。
「いち、に! いち、に!」
「くっそ、早いよ」
「もう少し長く取ってくれ」
「いーち、にーい! いーち、にーい!」
掛け声とともにロープを引くと、トラックはふらつきながらも徐々に斜面を登ってきた。ルーガーは前後の動きと同時に、左右の怪しい挙動も押さえるため、細かく操縦桿を動かしながらバランスを取り続けた。何度も何度も機体が回転しそうになるのを押さえつけ、何度も何度もヒヤリとする瞬間を乗り越える。尋常でない緊張で、全身が汗だくになり始めた。
ロープを引く兵士たちも、大変な労働に大汗をかいていた。トラックの挙動は予測不可能で、順調に引っ張っていたかと思うと、突然引き戻されたりする。しっかりとロープを押さえていないと、すべてを谷へ落としてしまいそうだった。
「いーち、にーい! いーち、にーい!」
「まだか?」
「もう少し!」
動滑車は三連の複滑車になっていたが、ロープの長さが足りず二つしか使えなかった。そこで最初の三分の一まで何とか引き上げて距離を縮め、ロープを掛けなおさなければならない。その距離に到達するまでが重労働だった。
「いーち、にーい! いーち、にーいい!」
「まだか?」
「よしいいぞ、ロープを掛けなおす」
レトニは滑車を止めるために楔を打ち込んだ。そして別の工兵が余ったロープを手早く手繰り寄せ、それを動滑車に差し込み直した。それをレトニが引き取って、皆の手元に再び引き寄せる。これで引き綱の力が増える計算だ。
「よおし、もう一度いくぞ、いち、にい、さん!」
「そおれ、引け!」
「いーち、にーい!」
「おっ、少し軽くなったな」
ドルイは手ごたえが軽くなったことに気づいた。動滑車万歳だ。一方ルーガーの方は、斜面がきつくなってきた分、さらにバランスが取りづらくなっていた。ルーガーはトラックの位置を変えながら、その動きに対応した。
「後ろに下がるよ!」
「後ろってどっちだ!?」
「トラックの後ろだよ!」
「そっちか」
ドルイは首を巡らせた。トラックが斜面を滑るのに合わせて、ロープも引っ張られていく。ガリガリと何かが擦れる音が響いて、全員が首をすくめた。やめろやめろと声が上がった。
「少し待て! ロープを戻せ!」
「危ないぞ」
ルーガーは機体の姿勢を立て直そうと、さらに操縦桿を倒した。ロープが限界まで伸びきって、横滑りがようやく止まった。
「止まったか?」
「ああなんとか」
「もう少しで登りきれる、がんばるんだ」
そういって全員がロープに手を掛け直したときだった。がつんという大きな音がして、動滑車とトラックを繋いでいたロープが切れた。ロープにかかっていた大きな張力が放たれて、動滑車がロープを引いていた兵士たちの列に向かって飛んできた。そして恐ろしい音を立てて、中ほどにいた者を二人打ち倒した。悲鳴と怒号が沸き起こった。
「うわあ!」
「危ない!」
「どけ、どけったら!」
倒れた二人を助けようと、あるいはそこから逃げようとして、周りの兵士たちが右往左往を始めた。その中でも、ひときわ大声でドルイが叫んだ。
「トラックを止めろ! 谷に落ちるぞ!」
ロープが切れたトラックは右回りに回転し始めようとしていた。ルーガーは操縦桿を上昇に入れたくなる本能的な動きを、理性で押さえつけた。その代わりに、ロープが切れたらこうしようと決めていた通り、機体を地面に押し付けるよう操縦桿を降下側に入れた。
機体ががつんと地面に当たり、岩肌に押し付けられてガリガリと鈍い音を立てた。荷を縛り付けたロープが金切り声をあげた。荷台のどこかが、とがった岩の上に当たって跳ねたのだろう、空中にに浮いたような感覚が座席から伝わってきた。これをどちらに逃げるかが問題だ。間違えば横転するに違いない。ルーガーは僅かな瞬間迷った挙句、山側に操縦桿を倒した。
浮き上がった荷物が、荷台の上でどしんと尻もちを付いた。その重みで、トラックは引っかかっていた場所を越えて山側に滑った。機体が急回転して、後部が山側に流れた。慌てて駆け寄ろうとしたドルイとレトニは、轢かれそうになって飛びのいた。トラックはそのまま、ずるずると後ろへ落ちていきそうになったが、あとほんの僅かで横転するというところで、かろうじて安定を取り戻し、その場に停止した。
ドルイは立ち上がると、再び叫び始めた。
「ロープを寄越せ! もう一度固定しないと落ちるぞ!」
レトニは斜面を走って、飛んでいった動滑車を探しにいった。遅れてドルイもその後を追った。ディカースや他の兵士たちは怪我人の周りに集まっていたが、二人はそれに構わず、犠牲者の血と肉で汚れた滑車を拾い上げると、再びトラックの方へ駆け戻った。
二人の奮闘を見たディカースは、ショック状態からようやく立ち直って言った。
「お前は手当てをしろ。お前とお前は二人でレトニを助けてこい。残りはロープの張り直しだ。行け!」
ディカースは部下たちに仕事を割り振り直してトラックの牽引作業を続行させた。滑車を繋ぎなおし、ロープを渡しなおすのにしばらく時間がかかった。ルーガーはその間、フラフラと揺れる機体を操縦で保ち続けていた。
「よーし、準備できたぞ。ルーガー、ひっぱるからな、いいか?」
「早くやってくれ!」
レトニの掛け声で、またトラックが引き上げられ始めた。人数が減ってしまったので、ロープを引くのは更に過酷な労働になった。トラックの歩みは、それこそ人が這っていくほどの速度しかなかったが、それでも少しずつ上へ進んでいった。そしてとうとう、トラックは入り口の前まで到達した。
全員が疲労と恐怖で疲弊しきっていたが、まだこれでも終わりではなかった。最後にトラックを縦に向けなおさなければならない。ディカースはドルイに向かって詰問するような口調で言った。
「どうするんだ? 小さい方のトラックで牽引するのか?」
「だめだ。フライヤーってのはそういう風にはできてないんだよ」
「どういう意味だ?」
「フライヤーは重い物を浮かすことはできるが、移動させることは苦手なんだ。押したり引いたりするには向いてないって言ってんだよ」
「それじゃいったいどうするんだ」
「こっちの小さいほうを、もうちょい奥へ停めなおして、ロープを張りなおして、人力で引っ張る」
「すばらしい」
「なんだよ、くそっ。おれだってやりたかないんだ」
ドルイも疲れてイライラしていたが、ルーガーに曲芸操縦を続けさせるわけにはいかず、重い足を引きずりながら作業の準備を進めた。兵士たちと協力して、小型トラックの位置を変えてもう一度ロープを張り直し、今度は大型トラックの重心より前方にロープを結びつけた。そして全員で、これを引っ張り上げるのだ。トラックの後部が振り子のように下を向くので、途方もない力がかかるはずだった。
もしかしたら荷が振り落とされて、ここまでの努力が全部無駄になるかもしれないな、とドルイは内心思った。そうなったら、ディカースは何と言うだろうか。ちょっとした見ものに違いない。わざとそうなるように仕向けて、何と言うか見てみたい。ドルイは肉刺と擦り傷だらけになった手を摺り合わせながらそんなことを考えた。
「よーし野郎ども、これが最後だ! いーち、にーい! いーち、にーい!」
レトニの掛け声が響いた。一日中彼女の叫び声を聞いていたので頭がおかしくなりそうだった。掛け声に合わせて、全員がロープを引き始めた。ルーガーは散々考えて、考えた挙句に決めた方法でトラックを進めた。それはロープを引く人力にぎりぎりまで対抗して、ゆるやかに引っ張ってもらうように調整するというやり方だ。引っ張るほうは死ぬほど重くなるが、トラックを横倒しにしないようにするにはこれしかない。ルーガーは細かく操縦桿を操作しながら、ゆっくりと機体が回転するように調整していった。
「いーち、にーい」
「もう少しだ、もっと引け!」
機体は入り口に向かってまっすぐになった。ルーガーは、安定板のバランスがずれているせいで機体が横に流れるのを感じた。これを打ち消しながら前に進めなければならない。操縦桿をほんの僅かに動かすだけで、機体が大きくぐらぐらと揺れた。
「いーち、にーい」
「よし、前方がかかった」
トラックの運転席が、平らになった地面に到達した。まもなく終わると思うと、全員の腕に力が湧き上がった。
「いーち、にーい」
「あともう一度!」
ロープを引くと、トラックの後部が左に流れた。ルーガーが慌てて補正する。全員が息を飲んだが、悪いことは何も怒らなかった。掛け声が続いた。
「いーち、にーい」
「よーし、よーし!」
「いーち、にーい」
「着いた、着いたぞ!」
トラックはとうとう上り坂を越え、峠の頂上に到達した。ルーガーは機関のスイッチを叩き切ると、トラックが地面に落ちるに任せた。そこは谷の入り口で、細い道が奥へ続いている。その向こうがザイーツ領なのだった。
「終わった!」
「やったぞ!」
兵士たちは互いに肩を叩いたり、抱き合って喜んだ。ドルイはフライヤーに駆け寄ると、ルーガーに手を貸して運転席から降ろしてやった。
「やり遂げたな」
「ううーっ」
ルーガーは膝に手をついて、かろうじて立っているという様子だった。ドルイがその手に水筒を押し付けた。
「顔色が悪いな、ちょっと水でも飲んどけよ」
「ありがとう……。怪我人はどうしたの?」
「知らねえよ、あんなマヌケのことなんか」
「まったくもう。少しは思いやりってものはないの?」
ルーガーは水筒の水を一気に飲み干すと、谷の方へ戻って怪我人の様子を見に行った。そこには、すでにディカースがいて、片膝をついて二人の兵士を看取っているところだった。
「具合は?」
ルーガーが尋ねると、ディカースは首を振った。一人は頭が半分吹き飛んでいて、すでに事切れていた。もう一人はマーカンだった。彼女の腕は肩からもぎ取られたようになっていた。破いた服や紐で傷口を縛り上げてあったが、大量に出血したようだった。その血溜まりの上で、マーカンは苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた。ディカースは、マーカンの残った方の手を取ったまま言った。
「なんとか止血はしたんだが、長くは持つまい」
ルーガーは何も言うことができず、黙って見守るしかなかった。やがてマーカンは小さな悲鳴を上げると、深いため息をついた。ディカースは握っていた手に力をこめたが、マーカンはそれきり息を吹き返すことはなかった。ディカースはじっとそれを見下ろしていたが、やがて立ち上がり、別の部下に向かって手を振った。部下たちは二人の亡骸を包んで運んでいった。ルーガーは顔をしかめてそれを見送った。何も言うべき言葉が見つからなかった。
ドルイも、ルーガーの背中越しにそれを見ていたが、やがてこう言った。
「行こうぜ、安定板を戻してまっすぐ走れるようにしなきゃならん」
「……うん」
二人は傷だらけのトラックに向かって歩き出した。