踵鳴る。
俺、東京出身なんですけど、一時期長野に住んでたんですよ。
長野の田舎のね、すんげえ山奥。
転地療養ってやつです。
小さい頃。体、弱かったんで。
天河村ってんですけどね。
天の川の、川がサンズイの河で……ああそうそう。
緑豊かで水が澄んでて、星空が綺麗なとこでね……。
まあー本当に、それしかないとこですよ。
ザ・日本の田舎。
楽しみといったら年一の村祭りぐらい。
星祭っていうんですけどね。
七夕の日に行われるんですけど。
そこで俺は、彼女に出会ったんです。
名前はわかりません。
歳はたぶん同じぐらいで、小学校高学年。
すらっと細身で、髪は……ショートボブってんですかね。
どこか大人びたような、超越したような印象のある子でした。
星祭の夜にしか見たことないんで、村の子ではなかったんじゃないかな。
その子が踊るわけですよ。
村の一番奥にある、古びた神社の舞台で。
踏むときゅうきゅう鳴る、ヒノキの板の上で。
お母さんかお姉さんかわからないですけど、似た雰囲気の年上の女性の伴奏に合わせてね。
柔らかいシルク地の、真っ赤な民族衣装みたいなのを着てね。
楽器はあれは……シタールだったかな?
あるじゃないですか。
インド辺りのほら、弦のたくさんある、幻想的な音を奏でるやつです。
あれに合わせて踊るんです。
踊りの種類ってのはよくわかんないです。
そっち方面、まったく無知なんで。
あ、動きのポイントはですね、踵です。裸足の踵。
まず半歩足を進めるでしょ?
すって。
その前足の踵に、後ろ足の踵をぶつけるんですよ。
こう斜めに、ぱちって。
すっ、ぱちっ。
すっ、ぱちっ。
そうやって繰り返しながら前進してくんです。
んで、ぽーんって跳んで、着地と同時に大きく、ぱちぃって。
くるっとターンして、ぱちぃって。
つるつるした踵と踵がぶつかる時の音がね、すごくいいんです。
シタールの音と合わさって、まるで打楽器みたいだった。
七夕の夜っていう状況のせいもあるんでしょうけど、天の川を行く小舟の上で、その子が舞いを舞ってるみたいに見えました。
え?
日本人ですよ。
や、たぶん……たぶんですけどね?
もう、たしかめようもないですけど……。
なんせその村は、もう水の底なんです。
国のダム造成事業の範囲に指定されちゃってね。
沈んじゃった。
まあそれはともかく、最後の夜ですよ。
村を訪れて三年目、その子に出会って三年目。
来年にはこの村は水の底に沈んじまう、もう会えなくなっちまう。
そこでようやく、俺は思い切ったんです。
人生最大の大博打。
……なーんて、大げさですよね。
でも本当、当時はそれぐらいの気持ちでした。
舞台の裏に回ってね、彼女が引けてきたところに声かけたんですよ。
次はどこでやりますかって。
もう星祭は最後で、俺も東京に戻るんだけど、もしまたどこかできみが踊るなら、観に行きたいと思うからって。
拳を震わせながらね。勢い込んで。自己紹介すらしなかった。
そしたら彼女はこう言ったんです。
残念だけど無理だよって。
俺の様子を眺めて、目を細めてちょっと笑って。
星空を指さして。
──わたしはあそこに帰らなきゃならないからって。
「……ったく、あのふたりはよぉー」
行きつけのスナックで待ってるからと言い残して去った上司ふたりをうらめしく思いながら、俺は居酒屋の会計を済ませていた。
「人の話を聞くだけ聞いて、さんざんバカにしくさってえー……」
「だ、だってしょうがないじゃないですかぁー。先輩の話がつっこみやすすぎるからぁー。あれじゃ酒の肴にしてくれってのと同じですよぉー」
尾形はまだ笑いが収まらないのか、待合用の丸椅子に座って足をバタバタさせている。
そのたびパンプスの踵が床に打ちつけられ、カツカツうるさい。
「お……おまけに変な性癖まで暴露するし……っ。ま、まさかの踵フェチ……あっははは」
「……ちっ」
尾形の試用期間明けを祝って開かれた飲み会の、ちょうど半ばを過ぎた頃だった。
──みなさん、夏休みのご予定って何かありますか?
尾形の問いかけに、みんなが順番に答えていった。
向井課長はゴルフ。
伊藤補佐は趣味の浅草巡り。
言い出しっぺの尾形はとくに何も無し。
俺が旧天河村周辺をツーリングすると言ったら総ツッコミを受け、そこに至った事情を根掘り葉掘り聞かれたあげく、大笑いされたというわけだ。
「し、しかも理由がなんともロマンチックな……あははははっ。あれはふたりでなくても笑いますってえー」
そうだろうよ、中でも一番大きいリアクションしてたのがおまえだもんな。
顔真っ赤にして涙まで流してな。
「……ちっ。おまえ明日、会社で会ったら覚えてろよ? すんげえこき使ってやるから」
「ええーっ? 飲みの席は無礼講って言ってたのにずるいですよーっ」
尾形は顔を上げると、不満そうに唇を尖らせた。
「うるせえ。ブラック会社へようこそ、だ」
吐き捨てながら店を出ると、尾形が慌てて追いかけてきた。
「あ痛たたたっ、ちょ、ちょっと待ってくださいよおーっ」
ぴょんぴょこ跳ねるようにしているのをその場において、俺は夜の底をずんずん歩いた。
「パンプスの踵が取れちゃって……お願いですから待ってくださいってばーっ」
切羽詰まったような声が聞こえてくるが、無視。
「もうっ、先輩冷たーいっ。そんなんじゃ女の子にモテませんよーっ?」
「けっこうけっこうコケコッコー、とくらあ」
「そんなんじゃ、その子にもう会えませんよーっ?」
「そもそもおまえの自業自得だろって…………はあ?」
思わず立ち止まった。
「あ、やっと止まってくれたっ」
尾形は嬉しそうに笑うと、脱いだパンプスを手に持ってテケテケと駆けてきた。
「おまえ、足……痛くないの?」
「この辺の道路って、樹脂タイルですしね。これぐらいなら平気です。鍛えてますんで。この先に遅くまで開いてる靴屋あったはずなんで、そこでスニーカーでも買いますよ」
「あ、そう……」
「ん? どうしたんです? 変な顔しちゃって。なんだか心ここにあらずって感じですけど」
尾形は俺の横に並ぶと、きょとんと首を傾げた。
明るい茶色のショートボブが、ふわりと揺れた。
「いや、さっきのおまえの言い方……」
──女の子にモテないってのはともかくとして、そんなんじゃその子にもう会えないってのは……そんなんでなかったら会えるって意味か?
などとは、さすがに聞けない。
これ以上の恥の上塗りはごめんだ。
「……ああー」
俺の内心を察したのか、尾形は「ひひ」と悪そうな笑みを浮かべた。
「……なんだよ」
「いやあーなんでもないですよ? 優しい人でよかったなあーって思ってるだけです」
「そうかよ」
「そうですよーだ」
尾形は心地よさげに笑うと、くるりその場でターンした。
「おい……おまえ……こんなとこで……っ?」
人の流れが変わった。
いきなり踊り出した尾形を避けるように、みんなが左右に分かれていく。
「なんで急に……っ?」
「ねえー、せんぱーい?」
酔っているのだろう。
戸惑う俺をよそにくるくると、ゆらゆらと、尾形は踊り続ける。
目を細めて手を伸ばして、いかにも気持ちよさそうに。
「さっきの話なんですけどー。本当にどうして、先輩はその子のことを探してるんですかー? だって十何年も前のー、たった三日だけのー。しかもつき合いと呼べるほどのつき合いもないのにですよー? 名前すら知らないのにー。社会人としての少ない夏休みを消費してまで探しに行くほどの価値があるんですかあー?」
「……価値とか、そういうんじゃねえよ。日数とか、そんなんでもねえ。あの子に関してだけはさ……なんか、違うんだ」
なんとなく止める言葉を失って、手近にあったベンチに腰掛けた。
通行人の目も気にせずなおも踊り続ける尾形を、ぼんやりと目で追った。
「ずっと気になってたんだ。あの言葉の意味。次どこでやるのか言えない理由はなんだろうって。約束できない理由はなんだろうって。怖がられてるとかさ、怯えられてるとかさ、そんな感じはしなかったんだ。ただ悲しそうな、寂しそうな感じを受けた。その感じの理由が知りたかった」
「……」
「……最初はさ、何の気なしだったんだ。バイクの免許をとった、運転にも慣れた。さて遠乗りだ、どこへ行こう。長野がいいかもな。ついでにあの子の足跡でも追えたらまあ……いいかもな。んで実際行ってみた。当時の新聞とか周辺の市町村の広報誌とかを現地の図書館で探してさ、天河村の資料館とかもさ。様々巡って……」
「結果はどうだったんですー?」
俺はため息を零し、かぶりを振った。
「全然ダメ。どこにも載ってなかった。じゃあってんで聞きこみしてみたんだけど、そっちもやっぱりダメだった。誰も知らなかった。その子が踊っていたってことすら、誰も覚えていなかった。そんなことあるかよって思ったんだ。記録に残っていなくても、記憶には残ってるはずじゃないかって。だってあの踊りは、そんな簡単なものじゃなかった。プロがどうとかそんなんじゃないけど、確実に、人の心を打つものだった」
「……へえー」
「一時期本気で、宇宙人だったんじゃないかって思ったこともあったんだ。あの子は何らかの目的があって地球に降りて来てて、俺たちに束の間の幸せを提供してくれたんじゃないかって。だから二度と会えないのも当然だって。だって、そうじゃないとさ……。そう思わないと……」
「そう思わないと……なんです?」
「……ちょっと、怖いじゃないかよ。なんの記録にも残っていない女の子。俺の記憶にしか残っていない女の子。最後に会ったのはダムに沈む予定の村……。それって、なんだかさ……」
あの祭りの夜に──
今はもうない村の中に──
置いて来ちまったみたいじゃないか──なんて思うのは、センチメンタルにすぎるのかもしれないけども。
「……大丈夫ですよ」
俺の気持ちを見透かしたのだろうか、尾形は優しい目で言った。
「その子は生きてますよ。そして今も、元気です」
いつの間にか、踊りは終わっていた。
ふわりと音もなく、静かに止んでた。
「……お父さんの経営してた町工場がね、潰れたんですよ。お父さんは首をくくって、お母さんとその子はなおも追ってくる借金取りから逃げていた。親類のツテを頼って天河村の近隣に住んでいた。極力目立たないように暮らしてたから、踊りを披露するのも年に一回、星祭の一夜だけ。まさに織姫さながら」
「おまえ……?」
「そこから先、特別ドラマチックなことがあったわけじゃないんですよ。ただただ時間をかけて、色んな人の支援があって、最近になってようやく、借金はなくなった。先輩の探していた当時は、だからみんなが情報を隠していた時期だったんです。先輩、借金取りだと思われてたんじゃないですかね。一見優しそうに見えて実は……ってパターンなんじゃないかって」
「どうして……そんな……っ?」
思わず立ち上がった。
たくさん飲んだはずなのに、喉がカラカラに乾いてた。
「……見て来たようなことを言うのかって? さて、どうしてでしょう」
尾形は目を細めてほほ笑んだ。
柔らかな夜風を浴びながら、空を仰いだ。
俺もつられて、空を見上げた。
雲ひとつない夜空には、だけどあんまり星は見えなかった。
「ねえ先輩。今日は七夕ですよ? 織姫と彦星が会える日。年に一回だけのビッグチャンス」
「そりゃ……知ってるけど……」
「ねえ先輩。やっぱり都会の空じゃダメですねえー。星なんかまったく見えやしない。空気が悪いんですかねえー」
「尾形……」
「今度わたしもヘルメット買うんで、そしたら連れてってもらえません? 先輩のバイクの後ろに乗けってもらって、一緒に旧天河村へ。ツーリングがてら。あ、ちょうどよかった。わたし、今度の夏休み暇なんですよね。これってもしかして、千載一遇のチャンス?」
「尾形……」
「理恵ですよ、先輩」
「え?」
「わたしの名前、尾形理恵」
「そりゃ……知ってるけど……」
「あら、そうでした? こいつぁー失敬」
尾形は「ひひ」といたずらっ子みたいに笑った。
笑って、歩き出した。
俺をその場に置いて。
「……お、おい。どこ行くんだよ……」
俺は慌てて尾形の後を追った。
追わないと、どこかへ消えて行ってしまいそうな気がしたからだ。
「さあーて、どこ行きましょうかねえ……。向井さんたちと合流するのが社会人としてはまあ、常識なんでしょうけどねえー……」
尾形は半歩、足を出した。
前足の踵に後ろ足の踵を、ぱちっとぶつけた。
「わたしは今、子供なんで」
あどけなく笑いながら、振り返った。