第三話
冥府の番人、三頭獄犬。
三つの首を持つ漆黒の怪物である。
カガミはそれと対峙している。
「……」
息を殺す。己を希釈する。
興味を惹かない様に、彼から逃げ延びるために、極限まで自分という存在を薄める。
しかし暴虐が命を持った様な存在に体の震えが止まらない。気付けば歯の根も合っていなかった。
彼も自身が暴力の化身であることをよく理解しているようだ。矮小な人間が自らに恐れ、怯え、震えていることに嗜虐的な表情を浮かべている。視線がカガミを捉えて離さないことと、とめどなく流れ落ちる涎に、カガミを獲物としているのは間違いない。が、彼は決して直ぐに飛び掛かり食い千切るようなことはせず、自らの嗜虐心を満たす為に嬲ろうとしていることは想像に難くない。未だカガミに近づいてすらいない現状が、その証拠である。
怪物が鼻息を強くする。それだけで心臓が大きく跳ねる。
唸り声を上げれば、意識を手放しそうになる。
脂汗が浮かび、顎を伝う。普段なら堪らず袖で拭いそうなものであるが、何が切っ掛けになるかわからない。一瞬でも眼前の存在から目を逸らしたくはなかった。瞬きすら許さない。その瞬間に命が刈り取られるような気がしてならないのだ。
相変わらず震えは止まらない。顎で汗が溜まり、今にも地に落ちようとしている。理由も根拠もないが、それが合図である気がする。遭遇してから一度たりとも目を逸らすことのない両者には不思議な一体感が生まれ、何となくそのように思えるのだ。カガミの錯覚だということも大いにあり得るのだが。
故に思考する。熟考にならぬ程度で考える。
逃げる手段を。生き延びる方法を。未来に繋ぐ可能性を。
だが、考えども考えども思い浮かばない。自分がここから逃れ、または彼を下して生き延びる、そんな未来が想い描けない。どんなに考えても逃れる手段が思いつかない。
唯一可能性があるのは来た道を戻り、脅威が去るのを待つことだろうか。彼がやってきた門は元の通路よりかなり大きい。もしかしたら体の大きさの所為で道を通ることができず、諦めて去るかもしれない。希望的観測を多分に含んだ解決策であるが、現状考えられる術はそれだけだ。
まさか彼を武力にて下すことなど出来るはずもなかろう。カガミに戦闘術の心得はなく、たとえあったとしても武器の一つも持っていない。無手は出来ることが限られている上、そもそもどんな武器を持ち出しても勝てる予感すらしないのだ。こんな条件で戦いを挑むなど、命をドブに棄てることと相違ない。
汗が目に入り、充血していくのを感じる。乾燥に目蓋が落ちる限界にいるのがわかる。
もし望むままにすれば二度と目蓋を開くことはなく、二度と景色を瞳に映すことは叶わないだろう。
耐えようとする心がカガミの体を固くする。咄嗟に動けなくなってしまうのは事実だ。だが恐怖があるのはどうしようもなく、やはりカガミは冷静になり切れない。無理もない。対峙するのは自分の数倍の体高をもつ化け物なのだから。
汗が頬を伝う。
顎の先には直ぐにでも落ちそうな滴が張り付いている。このまま順当に行けば汗は顎の先に辿り着くだろう。
限界だ。思考を打ち切る。もう時間はない。
後は作戦とも呼べない逃走劇を見事演じてみせるだけだ。
動かずして足に力を溜める。その時になれば即座に飛び出せるように。通路に飛び込めるように。
目を背けずして位置を確認する。振り返り、大股で五歩当たり。それで命が助かる。逃げられる。
汗が流れる。一つになって大きくなる。顎を離れる。落ちる。
そして、水滴が────弾けた。
瞬間振り返り、ダ──ッと飛び出す。右足を踏み出す。力強く踏み込む。あと四歩。
背後から聞える筈の地を蹴る音はない。
左足を蹴り出す。左足を踏み出す。姿勢は低く、抵抗が小さくなるように。あと三歩。
背後に迫る気配はない。音もしない。
全力で踏み切る。大きく脚を伸ばす。爪先で地を掴み、前へ進む。あと三歩。
怪物の息は感じられない。
腕を振る。大きく振る。進め前に。進め先に。あと一歩。
背後に動く物の気配はない。物音はしない。
溜める。力を溜める。そして通路に飛び込む。転がり込む。
「やった」
カガミは間に合った。彼奴がカガミを喰らう前に、追い縋るより先に、元の通路へと戻ることが出来たのだ。
だが「通路に戻れば逃げられる可能性がある」が「通路に戻れば逃げられる」にすり変わっていることには気付かない。ただ、今回は関係無いだろう。
カガミは生きていた。一度は失った筈の命だが、死にたがりではないのだ。
故に、喜びを噛み締める。涙が浮かぶ。恐怖から解放され、生を強く実感する。
そして袖で涙を拭おうとして、呟いた。
「…………」
…………。
──腕は……どこだ?
…………。
…………。
「…………」
振り返る。目が合った。元の位置から動かない怪物と。
見比べる。自らの腕と化け物が咥えているモノを。
「あ」
気付く。あれは自分の腕だと。
理解する。腕を刈られたのだと。
思い出す。腕を失った、その痛みを。
「お、あ、お…………ぁぁぁがあああっっっあああああああぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
カガミは体を劈く激痛に白目を剥き、背中から地面に倒れ込む。頭を強かに打ち付けながらも、それには一切気付いた様子がなく、悍ましい絶叫を上げながら腕のあった個所を押さえて悶える。その間ずっと、痛みを振り払おうとしているのか、宙を蹴り飛ばすように脚を動かしていた。
その様子を楽しそうに、実に愉快そうに見詰める者がいる。
言うまでもなく三頭獄犬である。瞳に嗜虐の色を映し、口元には満足そうに浮かぶ笑み。カガミの醜態は彼のお眼鏡に適うものであったらしい。
充分にカガミが演じる劇を堪能した彼は止めを刺すために近づいていく。が、ふと思う。
生かしておけば、まだまだ楽しめるのではないのか、と。
そう考えた彼はカガミに止めを刺すのを取りやめ、横の通路を歩き去る。
カガミが痛みに呻き意識を失いつつある中、彼の逃走劇は初めから成功しえなかったことが証明されるのだった。