第二話
耳朶に触れる微かな水音に意識が浮上する。
重い目蓋を開けば、視界に広がる暗い空間。
「……何だ、ここは?」
自らの声音に違和感を覚えながらも冷静に周囲を確認する。先程から断続的に響く水音は天井から滴り落ちる水滴のものらしい。
暗闇に慣れてきた目は自分の置かれた環境をより鮮明に見せてくれる。どうやら、小さな鍾乳洞らしき場所にカガミは横たわっていたようだ。
入り口は一つ。大人一人が屈むことで辛うじて通れるような大きさであり、洞の天井もまた低い。入り口は外に直結しているわけではない。そこから覗く僅かな景色は、カガミがいる場所のものと大差なく、恐らくはまだまだ長い道が続いているだろうことがわかる。
こんな場所に意識のない大の大人一人を運び込んで立ち去るなど、その思考回路は到底理解しがたいものだ。
そう。
カガミは意識が無かった。もっと言えば、あの時確かに死んだ筈なのだ。自室で首を吊り、自殺を図って。
なのに、その筈なのに、何だこれは。
見える範囲に危険が無いことで束の間の安心が訪れた所為かもしれない。現在自らの置かれた異常な状況に言い様の無い不安に襲われた。
「……」
暗く狭い空間はカガミの不安を更に煽り、増大させる。
無言になったことで、余計に唯一の音である水音が不安を掻き立て、現実感を失わせていく。
夢なのだろうか。若しくは死後の世界か。
理解できない状況は、凡そ考えられない原因を想起させる。しかし、肌寒い空気は容赦なくカガミの体温を奪っていき、ついでとばかりに彼を冷静にさせた。
「ここにいても仕方がない」
立ち上がり、入り口へ近づこうとして――気付く。
可笑しい。視点が低い。
そこから芋づる式に気付く。
声が高い。自分の手がやや小さい。脚が短い。髭がない。
「は……?」
年齢で言えば十八歳くらいだろうか。カガミは若返っていた。
当然ながら原因は一つたりとも思い付かず、こんなことを行えるような技術も人物も耳にしたことはない。それこそ創作物以外でその様なものが存在していたという事実に驚愕を隠せない。また、図らずもそれを自らの体で証明してしまったカガミは、呆然と立ち尽くす。
が、奇妙な現状を思えば今更とも思える。
原因を究明する為の手段も、それの手助けとなる心当たりも一切無いのだから、考えても仕方がないだろう。故に、「そんな日もあるだろう」と無理矢理考えることを諦めて、再度カガミは歩き出した。
***
どこまでも続く暗闇。
いくら目が慣れたと言っても文字通り『一寸先は闇』であり、ここが何処か見当も付かず、どんな危険が潜んでいるかも予測できない環境であることに変わりはない。ただ救いがあるとすれば、天井が薄っすらと発光していることだろうか。
それはともかくとして、一時の安全が確認されたのはあくまでも、カガミが初めに横たわっていた狭く小さい空間のことだ。気を抜くことはできない。
カガミは最初の空間を後にしてからというもの、延々と変わらぬ景色が続く道をひたすらに真っ直ぐと進んでいた。
歩き行く道は初めの空間と比べ、随分と余裕のある高さだ。カガミは若返りに合わせて多少身長が縮んでいるが、元の身長でも余裕を持って歩くことができただろう。
鍾乳洞には時々枝分かれするように道があったが、いずれも小さい空間が広がっており、一刻も早く日の目を見たいカガミからすると、特筆すべき点のない場所であった。
今のところ自分を除く生命体には、幸か不幸か遭遇していない。
鍾乳洞などほとんど行ったことがないカガミには分からないが、これほどまでに立派なものであれば観光地として十二分に利用できるように思える。もし観光地となっているのであれば、自ずと他の人間に遭遇しそうなものであるが。
突然、目の前が大きく開ける。
直前から漏れ出す光に気付いてはいたが、その場所は先ほどまでとは比べ物にならない程に明るい空間だった。見回せばあちらこちらにカガミが出てきたような穴があり、全ての通路がこの場に集約しているだろうことがわかる。そして、見れば壁の多くが青みがかった透明の宝石で形成されており、いづこからか取り入れた光を乱反射して、全体を幻想的な空間に仕上げている。
だが、中でも特に際立ち目を引くのはカガミの正面に堂々と鎮座する門の如きそれであろう。
扉はなく、人の手が入った気配のないそれは門とは決して呼べないに違いない。しかし煌めく壁面を霞ませる群青のアーチは、そこを潜る者の威光を一気に数段引き上げてくれるに違いない。
「何だ……地震か?」
美しさに見惚れ、呆けていたカガミは一瞬にして現実に引き戻された。
小さく地面が揺れ、落ちる滴が周期を乱す。
初期微動ともとれる小さな揺れは、時を追うごとに大きくなっている。それは主要動へと移り変わる前兆というより寧ろ、
「近づいて――っ!」
ダンッ! と一際大きな揺れを起こし、音と振動の主が門より出でる。
艶があり針のように頑丈な漆黒の体毛。
硬い岩盤を抉るように鋭い巨大な爪。
筋肉が盛り上がり、力強くも素早い動きを可能とする体躯。
喰らい付く物を容赦なく引き裂く鋭利な牙。
ルビーのように純粋でいて、視界に映る全てを屠らんとする深紅の瞳。
そして、彼奴の象徴である三つの頭。
「まさか……」
冥府の番人。
名を、三頭獄犬。
――獰猛な獣が咆哮する。