第一話
人を信じられなくなったのは何時からだったか。記憶は定かではない。
対して原因なら幾らでも思い浮かぶ。劇的ではないがありふれた事件の数々。いや、事件などと大袈裟に言うものでもないのだろう。世界に溢れる小さな悪意。それに触れただけだ。
いじめや裏切り。騙され、利用され、それでも信じてはまた裏切られる。
会社のリストラもそれらと同じだ。会社そのものに良い様にこき使われ、使い潰され、骨の髄までしゃぶられて、ゴミのように棄てられた。リストラの原因が「嵌められた」という特殊なものではあったのだが……言ってしまえば、ただそれだけ。何処にでもある、そんな話だ。
しかし小さな悪意の積み重ねは、耐え続けてきたカガミ――加賀峰 鏡の心を粉々に砕いた。
――何故こんなにも自分は不幸なのか。
――何故こんなにも不遇な人生なのか。
答えは当然得られない。
どうしても答えが欲しいのなら、それはカガミが「不幸の星に生まれたから」、ということなのだろう。
カガミは普通に生きてきた。一般的に言う普通、誰とも変わらぬ普通だ。目立たず、さりとて隠れず。人並みに生きてきた。
だが何故か目をつけられた。理由は不明。もしかしたら気が障るようなことを言ったのか、もしくはそんな行動を取ったのか。カガミに心当たりは無かった。しかし目をつけられた。そして悪意を向けられた。
命の危険があったわけではない。そこまで危険な何かをされたわけではないのだが、いずれもカガミの心を抉り、決して癒えない傷痕を遺していったのは間違いなかった。
そんなカガミは今日という日まで耐えてきた。耐えて、耐えて、耐え続けてきた。
それも今日で終わり。カガミはこの不幸な運命に繋がれた鎖を断ち切ることにしたのだ。
部屋の真ん中に置かれた木製の椅子。長年使い込まれたそれは酷く傷付いている。
本来座るべきそこに、カガミはゆっくりと登る。
カガミ以外に誰もいない部屋にはひっきりなしに携帯が鳴り響き、「突然別れを告げたことに俺を心配してくれているのかもしれない」と母の名が画面に浮かぶそれを見ながら思えば、何故だかそれが可笑しくて、笑いが込み上げてきた。
「…………」
一頻り笑ってしまえば、再び心が静かになった。
携帯は鳴り止まないが、何かと悩みや愚痴を聴いてくれた母と父や支えになってくれた少ない友人達にも、感謝と別れは既に告げた。もう二度と、顔を合わせることも声を聴くこともない。
いつもより視点の高いそこからは、毎日変わらぬ生活を送っていた部屋が、どこか全くの別物のようにも感ぜられる。
幼少期に張った沢山のシールが残る本棚に、少年時代から使っている机。部屋の脇には、初任給で買った少々高めの掃除機。これからすることを考えれば無用だろうに、習慣で綺麗に折り畳んでベッドに置いた服。
実家を出てからは何時もここで寝起きをして、会社へ向かっていた。三日前に突然リストラされるまでは。
覚悟を決める。
子供の時分であれば「そんな覚悟はこの世で最も不要なものだ」と断じていたそれを自らが決めることになるとは、人生とはつくづく、分からないものだ。
紐が絶対に外れないように、天井からするりと落ちないように、万一も無いように気を付ける。確かめる、念入りに。
天井から吊るした太めの紐に手を掛ける。頸に掛ける。
そして。
「――――!」
苦しい。
苦しい苦しい苦しい。
落ちた瞬間に自重で骨が砕けた。
望み通りだろう? と、頸に紐が食い込む。
喉元を掻き毟る。生々しい爪痕が生まれる。
ガリガリと肌が削れ血が浮かび、紐に染み込む。
俄に視界が赤く染まる。
眼球が自由を求めて飛び出さんとする。
苦しい。苦しい。
想像を絶する苦しみに叫ぶ。声は出ない。
叫ぶ。金切り声を上げる。断末魔を上げる。
しかし声は出ない。
逃れるために脚を振り回す。
頸を軸に体が揺れる。つけを払うように更に苦しくなる。
望み通りに苦痛が訪れた。
逃げられない。これが望んだことなのだから。
入念に確認した紐は正しく役を担い、カガミの命を絞り上げる。
暴れる。苦しみを払うように暴れる。
身体的苦痛は次第に、精神を蝕み始めた。
憎い。
自分に死を望ませた周囲が憎い。
苦痛を与える世界が憎い。
何より、死を選んだ自分が憎い。
憎い憎い憎い。
心底憎い。
この救いのない世界が際限なく憎い。
心が絶叫する。
音をたてて精神が崩壊する。
憎み、怨み、叫ぶ。
八つ当たりかもしれない。責任転嫁かもしれない。
わからない。考えられない。
ただ純粋に、自らをここまで追い込んだ、この世界を憎悪する。
『二度と人を信じるな』
魂に刻み込む。
忘れないように、間違えないように、繰り返さないように。
刻み込む。深く深く刻み付ける。
手足に力が入らなくなり、思考が出来なくなる。
気が遠くなる。意識が消え始めた。
肉体から魂が、カガミが剥がれていく。
「…………」
……やがて、静かになった。
だらりと吊り下がる手足。
頸に滲む鮮血。
変わらず体温を維持する肢体。
しかしそれは既にカガミではなく、カガミの遺体になっていた。
携帯が鳴り続ける部屋で、一人の男の人生が幕を下ろす。
だがこれは終わりではない。
寧ろこれが救い無き世界の、始まりなのだ。