第七話「救出」
職員室とは、普段学生たちではなく、その学生たちを教える教師が詰めている場所の事だ。MCの教育施設でいうところの教官棟と同じ役割。別の教室と比べると二倍ほど広く造られていて、そのスペースを埋めるように教師たちの机がずらりと並んでいる。
とはいえ、それはここが中学校として機能していた頃の話だ。現在においてはただの少し広い部屋でしかない。他の教室と一緒で、当時の教師たちが残していった教材や私物がそのままにされているのだろうけど、その使っていた本人たちはもう一人とて、この街にはいない。
階段で三階から一階まで降りてきた俺は、やはり目線を頭上方向へと向けた。きょろきょろと辺りを見回すまでもなく赤いランプを見つけると、ため息をつく。
「一階のカメラはきちんと高い位置に設置しているんだな。でも・・・」
まるで男子トイレに駆け込む人間を映すためだけに設置されたかのようなカメラを見て、俺は思わず目を覆った。もはや何のためにカメラを用意したのか分かったものじゃない。さらに言うと、あの撮り方ではカメラの下側、つまりは廊下の半分が死角になってしまっている。侵入者である俺からしてみれば願ったり叶ったりな凡ミスだが、果たしてお前たち本当にそれでいいのかと問いかけたくなるような情けない気分になった。
「いや、駄目だ駄目だ。こんな事で気を抜くな」
囁くように言うと、俺は首を横に振る。どれだけマヌケであろうとも、相手は拳銃を持った犯罪者集団だ。金蔵寺の誘拐に一度は成功し、人を打ち殺している。それになにより、奴らの手の中にはお嬢様がいるんだぞ。こちらは一つだってミスは許されない。ミスはそのままお嬢様の死というゲームオーバーに直結しているのだから。
カメラの死角をするすると通り抜けながら職員室の傍まで来た俺は、壁に身を隠しながら職員室前の扉に視線を送った。そこに見張りと思われる女が一人立っていて、暢気に屈伸運動などやっている。豪快に欠伸をかますと、充血して赤くなった目の辺りを何度か指で擦った。誘拐決行から一夜明け、かなり寝不足であるように見える。
見張りの女はウリエルを連れ去った(?)女とは、別人だった。あれは顔の割れている三人の内の一人。黒髪で、豚のようなべちゃっとした鼻をしている。残念ながら彼女が銃を所持しているかどうか、離れたここからでは確認できない。だが、相手は偶然にも今一人ぼっちだ。各個撃破を念頭に置いている俺は襲いかかるべきか、あるいは様子を見るべきか悩んだ末に、土壇場でその場に踏み留まった。それは飛び出そうとした瞬間、女の背後にある扉に人影が現れたからだ。
「ねぇ。あの子って、ご飯食べたの?」扉の向こうから現れた女が、見張りの女に訊ねた。
「え、何で?」
「何でって。そりゃ人間だから食べるでしょ。ご飯」
「いや、そうじゃなくて。さっき京子が食べさせなくていいって言ってたじゃん」
耳を澄まして二人の会話を聞いていた俺は、あの子というのがお嬢様の事だとすぐに気がついた。
「そうだけど。一応人質って言ったって人間でしょ?ここからあの部屋に移した後は、水だってろくに飲ませてないし。なんかさ、・・・あれだなって」
「あれ?」
「そう。あれよ、あれ」
「あれねえ、・・・確かに。あれだね」
「でしょ?」
同意を求めるように相手の肩を叩く、扉から出てきた女。よく見れば、同じく顔の割れている三人の内の一人だった。
「あ、でもどうしよう。最後のパンはさっき未菜が持って行っちゃったよ」
「はぁ?どこによ?」
「分かんないけど、持って行きながらすごくニコニコしてた」
「うーん、そっか。・・・他に食べ物って、あったっけ?」
「ないねぇ。街の外に買いにいかないと何もないねぇ」
「だよね。そもそも昨日の内に全部決着付けて逃げる予定だったし、余分な食料なんて置いてるはずないか。仕方ない、手ぶらで行こっと」
「どこ行くの?」
「大事な大事な人質にあらせられるお嬢様の見張りだよ」
やがてその女は職員室の前に立つ女と別れると、コツンコツンとやけに大きく響く足音をさせながら、壁にひっついた俺の方へゆっくりと歩いてくる。慌てて物陰に身を潜め、息を殺した。先ほどの話が真実なら、彼女がお嬢様のいる場所まで俺を連れて行ってくれるはず。上手くやり過ごした後は、気配を消したまま女の背中を追った。
目的地へは思ったよりもすぐに辿り着いた。扉の斜め上に掲げられたプレートには資料室とある。
「お疲れ、交代の時間だよ」
「マジで?ヒャッホー!」
その資料室の前に立っていた女が歓声を上げた。まるで死闘を繰り広げた結果、王者からベルトを奪い取ったボクシング選手のようなガッツポーズを決めると、うんざりした表情で交代を告げに来た女とハイタッチを交わす。
「どう?我らが人質様は」
「どうも何もないよ。物音一つしないもん」
「うそ。まさか空腹で気絶したりしてないよね?」女は本気とも冗談ともつかない声のトーンで言う。
「まさか。どんだけ裕福なお嬢様でも、流石に一日食べないくらいで気絶しないでしょ。・・・でも案外状況を悲観して、自分で舌を噛み切ってたりして」
「ちょ、怖っ。やめてよ、私はこれから見張りなんだからさ」
少し離れた場所から俺が盗み聞きしているなどとは露程も知らず、二人はそこでしばらく緊張感など皆無な話を続けた。それが一段落つくと一人は扉の前に立ち、一人は職員室のある方向、要するに俺のいる方へと歩き始める。今回はさっきと違って、あらかじめ身を隠す場所を探しておいたので、難なくそれをやり過ごした。
今、傍を通った女。金髪で、両耳に星のピアスをつけた女だが、初めて見る顔だった。これで俺が校舎に潜り込んでから出会った人間は四人になる。事前に知っていた二人と、今日初めて顔を見た二人。そして事前に顔を知っているが、この場所では姿を見せていない女が一人。アキラさんを拳銃で打ち殺したと目されるその犯人を合わせれば、五人だ。誘拐のセオリーと言われる人数もちょうど同じ五人だが、・・・・さて本当にこれで全員だろうか。
窓から差し込む光がどんどん少なくなってきた。お嬢様が誘拐されてから、もうすぐ丸一日が経とうとしている。人間が過度な緊張状態でいられる限度はおよそ30時間程度。お嬢様のような若い女性の体力となるともっと短い。であれば、資料室に閉じ込められているはずのお嬢様はすでに我慢できる範囲を超えてしまっていると考えるのが妥当。すぐにでも助け出さなければ、ここから先はお嬢様の命に関わってくる。
俺は絶対に見逃さないように目を皿にして、資料室の前に立つ女の事を監視した。そこそこ遠く離れた俺の場所からでは、資料室の前まで一気に辿り着く事はできない。その間は遮蔽物もない直線なので、透明にでもならない限り少しずつ近づくという方法も無理だ。もし少しでも不審な様子に感づかれて、応援を呼ばれでもすればアウト。その時点でお嬢様救出は不可能となる。
五分、十分、十五分、・・・。そしてようやくその時が来た。資料室の前に立つ女が、顔を下げ、目線を自分の足元へと落としたのだ。その瞬間に俺は決して焦ることなく、ゆったりとした歩調のまま、わざと足音をさせて近寄って行く。
「どうした?何かあったの、グフッ」
女が顔を上げきる前に、俺は躊躇なく腹部に拳を叩き込んだ。みぞおちに強烈な一撃。声を上げるどころか、呼吸さえ止まる。
「アキラさんを殺し、お嬢様を誘拐したお前たちに容赦はしない」
前のめりに崩れ落ちる女の頭を掴むと、勢いよく捻る。顔があり得ない方向、あってはならない方向を向いた。全身の力が抜け、まるで支えを失った操り人形のように倒れ込む。俺は薄暗い瞳で、刈り取った最初の命を見下ろした。
女の死体から抜き取った鍵を鍵穴に刺し、回す。見張り交代の際に受け渡され、上着の内ポケットにしまったのをばっちりと見ていた俺は、それを簡単に見つけ出すことが出来た。カチリという何かと何かが噛み合うような音がして、ドアノブを下へ押し込むと、そこに両手を縛られ、アイマスクで目隠しをされたお嬢様がいた。
敷物の類は一切なく、冷たい床の上に直に座らされたお嬢様。見るからに衰弱した様子で、しかし扉が開いた事に音で気づいたのか、すぐさま肩を強張らせた。最後の力を振り絞るかのように、目隠しされたままの目がじっとこちらを睨みつけている。
俺は連れ立って入って来た女の死体を、三台並んだ大型のコピー機の傍に寝かせた。資料室と言うだけあって、レンガくらいの分厚さを誇る本が複数しまわれた棚や、大量の印刷紙がストックされた机が壁際を占拠している。だからという訳ではないが(恐らく掃除をしていないのが一番の原因だろう)、この部屋はとにかくホコリっぽい。お嬢様はこんな場所で何時間も孤独で辛い時を過ごしたかと思うと、それだけで身の引き裂かれるような気分だった。
「お嬢様、聞こえますか?」
「えっ、・・・この声、もしかしてユーリさん?」
「そうです。よかった、ご無事で。心配しました」
「ユーリさんだ、本当にユーリさんだ。夢じゃないのね」
お嬢様は肩にこもった力を抜くと、口元にわずかに笑みを浮かべた。ふぅーっと肺に溜まった空気を一気に吐き出し、両手を結束バンドのような物で縛られて不自由になっているにも関わらず、全身を使って喜びを表そうとする。しかし、俺はそれを慌てて止めた。「すいません。これから俺がする話を、まずはそのまま聞いてください」
「最初にお伝えしなければならないのが、現在お嬢様と俺がいる部屋には誘拐犯グループが仕掛けたカメラがあるという事です。そのカメラが今もなお、お嬢様の様子を撮って、逐一電波で送っています」
それを聞いたお嬢様は小さく悲鳴のような声を上げた。それに伴って、体も小さく震える。
俺が話しかけている場所の左側。何も知らされずに座っているお嬢様の正面にある棚に、そのカメラは置かれていた。廊下に仕掛けられていたやつと同系の物で、配布物を各学年ごとに仕分けるための箱と箱の間に挟まるようにして、じっとお嬢様の方へレンズを向けている。
五感のみで隠しカメラに気がつくのは不可能だ、とは何かのテレビ番組で聞いた言葉だ。番組名はイマイチ思い出せないが、確か警察が犯人逮捕のためにおとり捜査をしている場面で出た言葉だったか。もしそれが人の視線であれば感じる些細な違和感も、物言わぬ機械の、カメラのレンズであれば感じる事は絶対にない。自信満々にそう語る女刑事の顔は、何故かどこか自慢げであった。
仮に今向けられているのがカメラのレンズではなくて人の視線であれば、目隠しをされたお嬢様でも、その存在に気づけていたのかもしれない。しかし、それは想像しただけでも相当に気味の悪いというか、もはや軽い悲鳴どころの騒ぎではなかっただろう。
少々取り乱したお嬢様だったが、すぐさま何事もなかったかのように元の姿勢へと戻った。どうやら聡明なお嬢様はこちらが言わんとすることを先回りして理解してくれたらしい。今の今まで静止画のような有様だったカメラの向こう側が、急に息を吹き返したようにバタバタとやり始めると間違いなく怪しまれてしまう。そうなっては電波の飛ぶ先にいる監視役が一目散に駆け付け、俺はお嬢様を助けるどころか、仲良くお縄を頂戴。まさに飛んで火にいる夏の虫だ。最悪、人質としての価値がない俺は捕まる事もなく射殺という事だってあり得る。
「怖がらせるような事を言って、すいません。でも幸いな事にカメラは一台だけ。音は向こうに伝わっていません。お嬢様、少しだけ体の角度を変えられますか?」
するとお嬢様は頷く事もなく、意図を組んでくれたような自然な動きで体の向きを変えた。全身はカメラにきちんと映っているものの、口の動きはよく見えない。そういう状態。
「ありがとうございます。これで少し会話しても問題ないでしょう」
目隠しや縛られた手の方は自由にしてあげられないが、ここは我慢して貰う以外に方法はない。ようやく喋れるようになったお嬢様は、開口一番こう訊ねてきた。「母は、母は無事ですか?」
俺は一瞬だけ返事が遅れるが、掠れた声で告げる。「ええ、無事です」どうにか振り絞って出した言葉だった。
「そうですか。・・・はぁー、よかったぁ」
心底安堵した様子のお嬢様は、その後で俺が訪れる前にこの建物で起きた出来事の一部分を話した。
「母と二人で捕まっていた時は、ここじゃない別の部屋にいたんです。そこでは銃で脅されはしましたけど、目隠しはありませんでしたし、手も縛られていませんでした。丁重って言えば変かもしれませんけど、そんな風に扱われていたと思います。でも、私が・・・。私が母を逃がそうとして、犯人たちの気を引くために芝居をうちました。胸のこの辺りを押えて、うぅっ・・・って苦しんで見せたんです。すると犯人たちはかなり動揺したみたいで。その一瞬の隙をついて母は部屋を抜け出しました」
「いえ、何の相談もしていません。私が勝手に思いついて、勝手に行動したんです。犯人たちは母がいない事に気がつくと、急いで探しに行きました。けど見つけられなかったのか、戻ってくるなりすごい剣幕で私の腕を縛って、アイマスクをかけました。手を引かれて強引にこの部屋に移された後は、ずっと一人でこうして・・・」
説明を聞き終えた俺が初めに抱いた感想。それは、『驚き』だった。けれど、その対象は大胆な作戦に出たお嬢様に、ではなくて、逃げ出した金蔵寺の方に、だ。
この厳重に封鎖された建物から脱出できたこともさることながら、丸腰の女性が一人でこの街を歩いて抜け出して、他の街まで辿り着いたというのが、到底信じられる話ではない。実際に屋敷に戻ってきた金蔵寺の姿をこの目で見ていなければ、「こんな時に冗談なんて」とお嬢様を窘めていたところだ。土地勘のない街を何の頼りもなしに、それも十歩歩けば一人の犯罪者に出くわすというジョークが作られるほどの息吹市をだぞ。途中で別の被害に遭わなかっただけでもすごい幸運というか、お嬢様を置き去りにして逃げ出した金蔵寺を褒めたくはないが、もはや冒険家の才能さえ持ち合わせているのではないかと疑いたくなってくる。
「その後、母が無事に屋敷に帰れたのか心配していたんですけど・・・、本当に良かった」
お嬢様が、しゅんと鼻を鳴らす。頬が赤く染まり、目隠し越しにも泣いているのが声で分かった。
お嬢様の涙ぐましい親子愛に、俺は胸が押しつぶされる気分だった。先ほどのお嬢様の芝居ではないが、心臓の辺りがズキズキと痛んで、「うぅっ・・・」とうめき声をあげそうになる。それほどまでに心配し、身を挺してまで助けた母親が、今朝お屋敷で何と言っていたか。仮にお嬢様がその言葉を聞いたらどんな顔をするのか。想像しただけでも頭がクラクラした。
かける言葉が見当たらず、しばらく黙っていると、お嬢様が続けてとうとうと語り始めた。
「前にも話しましたけど、私ね、母のおかげで今のクラスの学級委員長になったんです。・・・おかげで、というよりも、せいで、と言った方がいいかもしれませんけど」
「本当はやりたくなかったんです。私は委員長なんて柄じゃないですし、人をまとめる才能って言うんですか?そういうのは全部希姉さんの方に行っちゃったみたいで。けど、担任の先生がどうしてもって推薦して。その理由を聞いて思わず笑っちゃいました。私が金蔵寺やす子の娘だから。他にやりたがる子なんている訳ないから、はい、それで決定。ひどいでしょ?」
「学級委員長なんてなるもんじゃありませんね。何でもかんでも押し付けられて。『長』ってつくはずなのに、やってることは下僕みたい」
「実は前にも同じような事が何度かあって。その事で、母を恨んだりもしました。でも誘拐されて、命が危険に晒されてみたらそんなのどうでもよくなったんです。母に助かって欲しい、母は死んじゃ駄目だ。その一心でした」
そうしてお嬢様は微笑みを浮かべた。「私ったら急に何を言ってるんでしょうね」
仕掛けられたカメラの存在をすっかり忘れてしまっているのか、カメラの横にいる俺の方、声のする方に体を向き直すので慌ててしまう。注意しようと開いた俺の口が、全く別の言葉を喋っていた。
「・・・実は俺、ケイやジョー、他のMC達とは違う手順でMCになりました」
「そうなんですか?」
「記憶を失ったまま入院している俺を、海堂さん、MCの学校で理事長をしている人が拾ってくれたんです」
いつの間にかお嬢様から受け取っていた会話のバトン。それをマイク代わりにして、今度は俺が話す番だった。わざわざ敵地のど真ん中でするような話とも思えなかったが、俺の口がぺらぺらと勝手に喋るのだから仕方がない。
一度だけ小さく息を吐き出した。俺は癒えたはずの傷にゆっくりと爪を突き立てる。
「ほら、MCの世界って赤ん坊の頃から共同生活じゃないですか?ある意味で、あいつら全員家族みたいなもんなんですよ。何て言うか、お互いがお互いをよく知ってる、みたいな」
「そこに現れた急な転校生が俺です。それも史上初の事らしいですよ、MCの施設に途中から入って来るなんて」
「コイツ誰だ?ってなりますよね、普通。もう速攻で注目の的です、っていうより悪目立ちかな。さらには理事長に世話を焼いてもらってるもんだから、『裏口入学』なんて馬鹿にされて」
「卒業するまでに色々されましたよ。あいつらからすれば、俺は急に体内に入ってきたウイルスみたいなもんですから。追い出そうとするのは当たり前っていうか。それこそこんな場所出て行ってやるって何度も考えたし、こいつらと同じMCになんて絶対になるかと思ったこともありました」
俺はそこで、「でも」と付け加える。
「今となっては、MCになれてよかったと思います。だって、ケイやジョーに会えました。・・・それにお嬢様と出会えたから」
話し終わると、俺は言いようのない恥ずかしさに襲われた。ほっぺた、耳たぶ、顔についた部位の何から何までまっ赤になり、知らずうちに体が震えていた。今はお嬢様の目を真っ直ぐに見られそうもないが、そこは目隠しがあるお蔭で助かった。
「っと、とにかくここから逃げましょう」
「え、えぇ。そうね。そうしましょう」
「カメラを止めたらお嬢様の手首についた拘束を解きます。そしたらすぐに部屋を出て、一旦建物の中に身を隠し、機を見て抜け出しましょう。そこから隣町の警察までお嬢様をお連れします。よろしいですか?」
「あっ、その、分かりました、はい・・・」
カメラに手を伸ばそうとした時、そのカメラの隣にある箱に入った配布物に目を奪われた。保健だより。何てことない、生徒の健康を促すためのプリントだ。これから寒くなるので体調管理をしっかりしましょうだとか、手洗いうがいを忘れずにだとか書いてある。それはまあ、いい。俺の目が釘付けになったのはそこじゃない。そのすぐ傍。枠で囲われた文字の列に添えられた挿絵の方だ。
「そうだ、あの馬鹿犬がいたんだった」
「えっ、どういう事ですか?」
「いや、その・・・。実はこの建物内にお嬢様が拾ったあの犬もいまして。いや、今はちょっといないんですけど」
「いない?」
「それが・・・、先ほど犯人グループに連れて行かれちゃいました」
「連れて行かれた!?大変じゃないですか!」
お嬢様はわたわたしながら、どうしましょうどうしましょうと同じ言葉を繰り返す。
「お嬢様、まずはここから出て安全を確保しなければなりません」
「でもでも」およそ納得できないのか、お嬢様は首を振った後に言う。「あの子、ウリエルを探しに行けませんか?」
「しかし、今は犬よりも、お嬢様の命を守る方が大切です。どうか分かってください」
分別あるお嬢様は、声の感じから俺が困っている事を察するとそこで折れた。「・・・・そうですよね。わがままを言って、ごめんなさい」
軽く押せば崩れてしまいそうなほど、頼りない座り姿のお嬢様を前にして、居た堪れなくなってしまう。
本来ならば検討の余地などない。だが、この件に関しては俺にも非があるのは明白だ。何故ならあの馬鹿犬が連れ去られる要因、校内に連れて入ったのは何を隠そう俺だからだ。
「・・・分かりました。俺にいいアイディアがあります」
よければ感想をお願いします
赦し屋とひこじろう(連載)を同時に書いてます
暇だったらそっちも読んでみてください