第六話「学び舎潜入」
ヘルメットのスピーカーを通して聞いた、誘拐犯グループについてのおおよその概要。
目的、不明。武装、確認済みの物で、拳銃一丁。思想、不明。国籍、不明。
誘拐犯グループというからには、犯人は一人ではない。分かっているだけでも三人。実際の数はそれよりも増える事が予想される。
よく見受けられる傾向として、誘拐であれば4~5人が一つのグループとして動いている場合が多い。見張りや身代金の受け取りなど、人員はどれだけいても足りないくらいだ。だが人数が多すぎるというのも、事と次第によってはよろしくない。それは誰か一人がヘマをした時、芋づる式に全員が捕まってしまうリスクが高まるからだ。よってどこの誰が決定したのかは定かではないが、誘拐は4~5人で手を組むのが上々である、というのがある筋での『一般的』となっている。これが仮に殺しの仕事であれば、誰の手も借りず単独で、というのが通用するのだが、作業が複雑で手際こそが最重要ポイントとされる誘拐となれば、殺しのようにそう甘くはないのである。
顔の割れている三人のうち一人は、アキラさんの頭蓋を撃ち抜いた張本人だ。その女の運転するハイヤーが、饐えた臭いの染み込んだ路地裏の傍を走り去る様子がコンビニの防犯カメラに捉えられている。よほど乱暴な運転だったのか、驚いた様子でハイヤーのテールランプを見送る通行人の姿も一緒に映っていた。
その後、ハイヤーは車の多い国道を東に逸れて、海に面したとある街へ向かった。伊吹市。その街は以前、海外への機械部品や車の輸出によって利益を出していた土地で、ジパングの商業的ミサイル発射台とも呼ばれていた。
だがWW3の引き金となりかけたあの事件によってお得意様を失った日本。この街はその煽りをモロに受けてしまう。徐々に仕事の数が減り、それに呼応するように人口も減少。そしてとどめを刺したのがあのバイオテロだ。街の男性は例外なく死に絶え、全ての女性が別の街にある医療機関へと隔離された。その結果、この町は人一人いないゴーストタウンと化した。被害が終息した後も、元の住人が戻って来る様子はなく(街に住む女性の多くが、街で働く男性の配偶者やその家族であったため)、現政権によって海外への輸出の拠点が別の土地へ移されると、都市の再生計画自体がストップした。
住宅地や工場のほとんどが、未だ人がいた頃の名残をとどめた状態で残されている。まるで悪い魔法使いに時を止められたみたいな風景。その魔法が解けるのを今か今かと待ち焦がれているような街自身の嘆きが聞こえてくるようだ。
住人はすべからく戻ってこなかったが、人がいないのをこれ幸いと、人目を避ける悪人たちが頻繁に出入りするようになった。そんな街の中心部にあり、なし崩し的に廃校となった中学校。鈴が丘中学校。その敷地内にお嬢様を乗せたハイヤーがその細長い躯体を滑り込ませたのだという。
「中学校・・・か」
校門の向こう側、立ちはだかるようにして建っている校舎を見上げながら呟いた。
全体的に薄く黄みがかった外壁に、ちょうど1時で針の止まってしまった大時計。屋上からは、とある運動系の部活が全国大会へと駒を進めた事に対する称賛の垂れ幕が、垂れ下がったままになっている。俺はその一つ一つを興味深く眺めていった。中学校という組織に属した事がない身としては、かまぼこの形をした体育館の緑色の屋根ですら物珍しく感じる。
もしも少しだけ時代が違えば、俺がここに通っていた可能性だってあった訳だ。スーツではない、制服という衣服に袖を通した自分が、気の置けない友人と共にこの門をくぐる様子はどうもイメージできないし、男女共学ならばその周りにごく自然と女子生徒がいたのだろう?そいつはもう想像力の限界というか、その遥かに上を行き過ぎていて、もはや考ようとする気すら起きない。
俺の通っていた、・・・というより飼われていたMCの学校では、中等部などというカテゴリーはなく、年齢によって多くが分けられていた。目や髪の色に違いはあれど、当然全員が男。俺が人間の女性を生で見たのだって、学校を卒業し配属が決まった後の事だった。
敷地内の様子を探りながら、校門から場所を移す。ただでさえ人のいない地域だ。じっとしているのを校舎の窓から見られようものなら、まず間違いなく怪しまれるだろう。この街にいるのは悪人か、それを追ってきた復讐者のどちらか。万に一つも、警官が巡回しているなどという事はない。むしろこの地域で通報があっても、警察は出動しない。誰に言われるまでもなく、自分の身が守れるのは自分だけだ。
敷地を囲う壁沿いを歩いていると、外から覗かれるのを嫌うかのように並べて植えられた背の高い木の集まりを見つけた。その辺りは外部からだけでなくちょうど校舎側からも死角となっていて、壁もそれほど高くないため絶好の侵入口になりそうだ。無理をせずとも、俺ならば余裕で乗り越えられるだろう。
俺は壁の上部に手をつき、その場で足を揃えてジャンプ。腕の力で一気に体を持ち上げる。難なくお尻を壁に乗せると、そのまま敷地内へと足を踏み入れた。・・・いや、その前に背後から俺の事を呼ぶ声がした。
「そうだ、忘れてた」
声の主は人ではなく、犬だった。野良犬にして、駄犬。しかし、どういう訳かこの場所を突き止めて一人でに(一匹でに?)やってきた、ウリエルだ。すっかり記憶と視界から追い出してしまっていたため、背中の方から鳴き声が聞こえた時は新鮮な驚きがあった。思い返せば校門にいた時もずっと、足元でうろちょろする塊がいたような気がする。
ウリエルは、ぼーっとする俺に向かってもう一度小さく吠えた。人間の俺からしてみれば何てことない壁でも、犬の、それも成犬になりきれていないウリエルにしてみれば絶壁とも呼べる高さの壁なのかもしれない。
「ワフッ、ワフッ!」
「何だよ。飛べよ、これくらい。犬だったらいけるだろ、ほら、頑張れ」
「ウーッ・・・、ワフッ!」
「・・・ちっ、仕方ねえなあ」
一切気持ちのこもっていない応援をやめて、壁の上から地面へ飛び降りた。そして優しく差し出した腕に対し、ウリエルは鼻を近づけて熱心に臭いを嗅いでいる。
大人しくしている今がチャンス、とウリエルの首根っこを掴んだ俺だったが、あろうことかこの馬鹿犬はまるでライオンに噛みつかれたインパラが如く激しさで暴れ始めた。四本の足を自由自在に動かし、腰をくねらせ、しまいには俺の指に噛みつきやがった。痛みのあまり手を離すと、ウリエルは一目散に今来た道を戻っていく。
「いってぇな、くそ。どこにでも行っちまえ、馬鹿犬が!」走り去る小さな背中に罵声を浴びせる。「背後から掴んで、さっさと放り投げてやればよかったぜ」
いきなりお供を失った俺は改めて壁に上り直し、敷地への侵入に成功した。急いで身を屈めると、辺りの情報をかき集める。
ここがどうやら校舎の裏手に当たる場所なのだと理解できたのは、昇降口が見当たらない事と開けたスペースに作られた畑の存在からだった。立て札にはご丁寧に『中庭農園』の文字。ハイヤーは、そこに乗り捨てられていた。
細心の注意を払いながら、ドアが開いたまま無造作に放置されている車に近づいていく。ナンバープレートを調べた事で、俺は確信した。お嬢様はここにいる。
奴の情報をどこまで鵜呑みにしていいのか。お嬢様を連れ出した車を発見した現在に至っても、未だにその信用度を測り兼ねている。こうしてここに足を運んだのだって、正直な話、他に手がなかったからというのが大きい。もしも俺に他の選択肢があったならば、確実に後回しにされていたはずだ。後回しというより、最後尾に追いやられていたと言って過言ではない。
だが、実際にこうして俺は誘拐犯のアジトに辿り着けている。少なくとも犯人の居場所について、奴は嘘偽りのない情報を提示した。だからって全ての情報が信じられるかと言われれば、そうもいかない訳で。何故って?それはイマイチ奴の真意という物が見えてこないからだ。
奴の口車に全面的に乗るとすれば、それは善意での提供。仮に、俺に対して少し恩を売っておこうくらいの下心はあるのかもしれない。だが、果たして本当にそれだけだろうか?二度ほど顔を合しただけの男に、そんな施しをして何になる?この手の情報は、情報屋であれば結構な額の値がつくものだ。それをほぼ無償で提供するなんてどうかしているとしか思えない。借りを作ったところで、俺が返せる物なんて高が知れているだろうに。
最悪のケースを想定するならば、誘拐犯と奴は繋がっていて、俺はまんまとここにおびき寄せられたという事態。校舎には奴の仲間が大量に潜んでいて、それこそ俺は袋のネズミ。ずらりと並んだ銃口を前に蜂の巣にされるという感じだが、まあ、それについても俺なんかを始末したところで奴に何の得があるのだという話にはなってくる。
「・・・・・・情報屋?俺はどこでそんな言葉を」不意にこめかみの上あたりがズキリと痛んだ。今までに感じた事のない種類の痛みに、思わず顔を歪める。
いや、待て。今はそんな事どうだっていい。とにかくお嬢様を救い出すのが最優先だ。
校舎内への侵入を試みるため、一度下駄箱の置かれた昇降口の方へと周る事にした。辺りを警戒しながら歩き出そうとすると、微かに金属と何かがぶつかる、カシャンカシャンという音が聞こえた。その音のする方向へ目を向けた途端、俺は口をあんぐりと開けたまま固まってしまった。
「何してんだ、お前」
視線の先には、金網と地面の間に挟まって動けず、もがいている馬鹿犬の姿があった。馬鹿犬は俺と目が合うや、まるでお手上げという風に両手両足を伸ばし、ベロを出したまま荒い呼吸を繰り返す。どうやら頭と前足を先にねじ込んでみたはいいものの、お尻が抜けずに立ち往生。這う事もできなくなり、前にも後ろにも進めなくなってしまったようだ。
「逃げ出したんじゃなかったのかよ」
仕方なく挟まっている腹の横合いから地面を手で掘ってやった。しばらくして、ようやく狭い隙間から抜け出したウリエルは、金網の下の土を掘り返したであろう前足や鼻先が汚れている。元よりパンダのような白黒の体は、黒の割合が若干増えたみたいだ。その中で唯一、別の色をした茶色の眉が鋭く勇ましい形に変貌し、再会に際して今後起こりうるかもしれない活躍への期待を雄弁に語っていた。「待たせたな!僕が来たからには、もう安心だぞ」
そんな幻想はさておいて、相も変わらず足元をうろちょろする白黒の犬にまとわりつかれながら校舎の正面へと回った。言うまでもなく扉は全て閉じられており、内側から鍵もかかっていそうだ。それどころか持ち手の部分を針金のような物で繋がれており、アルミ製の傘立てが積み上げられた即席のバリケードまで出来上がっている。
最初から期待してはいなかったが、ささっと侵入して、ささっと救出なんてズルはどうやら許されないらしい。対価を得たければ、それ相応のリスクを負うべし。この場合のリスクがどの程度を要求されるのかは知らないが、俺は一旦その場を離れた。先ほど校舎を観察しながら敷地の外を歩き、その時に思いついた方法を実行に移すことにした。
という訳でやって来た、四角い校舎のちょうど角っこ。そこには屋上から外壁を伝うようにして、雨どいの配管が地上まで伸びていた。俺は今からそのパイプを腕の力だけ使って、三階まで登って行こうというのだ。高さにして、8~9メートルくらいはあるだろうか。どうにか三階まで達すれば、後は窓の外に取りつけられた落下防止用の手すりと足場を頼りに、一枚だけ外されている小窓の所まで行けばいい。
そうと決まれば実行あるのみ。・・・・とは言え。俺は口に手を当てたまま、暢気に毛づくろいを始めた能天気犬の方をまじまじ眺める。「こいつ、どうすんだよ」
当初の軽口通り、一階の地面からあの三階の小窓目がけて投げる訳にもいくまい。かと言って首根っこを掴んだまま登ろうとすれば、先ほどのように暴れる事だろう。さて、困った。流石の俺であっても、この見てくれだけは愛嬌たっぷりのわんちゃんが、あの高さから落下してアスファルトの染みになったとなれば目覚めが悪い。
「んー、物は試しだ」
そう言って、毛づくろいが途中の馬鹿犬の首根っこを掴む。すると首の後ろにセンサーでも付いているのか、すぐさまウリエルは暴れ始めた。そこで俺はすぐにツナギの胸元を手で引き延ばし、ウリエルを中へと投げ入れる。これぞたった今、その場の安易なひらめきによって編み出された輸送作戦だ。その名も、『カンガルー大作戦』。下手すれば胴体を引っかき傷だらけにしかねない危険な策ではあるが、両手が自由に使える分、落下の心配は減るだろう。
その小さな体が全てツナギの中に隠れたウリエルは、少ししてから胸元より顔と前足を外に覗かせた。名実ともに、カンガルーとなった俺たち。ウリエルは何やら愛玩動物にあるまじき渋い顔を作り、最後に一度だけ小さく吠えた。
「よし、そのままじっとしてろよ」
気合いを入れた後、胸の前で数度手をこすり合わせてから登り始める。
ホームセンターで買った安物のスニーカーは、その値段通りの造りであるため滑り止めに乏しい。壁に足を突っ張らせようとしても踏ん張りが効かず、実質は握力と筋力、本当に腕の力だけを使ってスルスルと三階まで登っていく。整備不良で老朽化した雨どいは、留めてある金具が緩んでいるのか、登っている最中も時々大きくぐらついた。いつ壊れてもおかしくない。出来るだけ慎重に、かつ急いで登って行き、小窓から校舎内へと体を滑り込ませた。
幸いにも教室は無人だった。黒板に書かれた文字や、後ろの壁に張り出されたポスターなどが当時のままにされており、まるで廃校になった学校の教室とは思えない。日直、ホームルーム、球技大会。知らない単語が多くあって、その言葉を一つ一つ目で追った。
後ろのロッカーに外された小窓が立てかけられていた。何かがぶつかったのか、ガラスのちょうど真ん中部分が割れ、穴が開いている。誰かが来て荒らして行ったのだろうか。酷い事をするものだ、とも思ったが、よくよく考え直してみればこの建物は政府に見捨てられてもうかれこれ十年以上の時が経っている。それなのに、割れているのがこの窓一枚というのが逆に奇跡的なのだ。ふと、とある噂話が脳裏をよぎった。『伊吹の街には、悪党をまとめる大悪党がいるらしい』。話を聞いた当時はそれほど気にも留めていなかったが、もしもその噂が噂ではないとすれば。まるで荒らされたような形跡のない学校や、警察がこの街に介入しない理由などにも繋がっているのかもしれない。
教室に入るなりさっさと俺のつなぎを飛び出したウリエルは、並べられたままになっている机の間を臭いを嗅ぎながら行ったり来たりしている。俺は静かに鍵を開け、廊下に出た。それに習って、ウリエルも後に続く。
廊下に出てすぐ、とある物を発見した。バッテリータイプの監視カメラ。画像を電波に乗せて送る仕組みで、比較的安価で手に入れられる代物だ。少し値の張る物であれば、動いた物に反応して首を振るカメラや、熱に反応して警報を鳴らすカメラもある。しかし、送られてくる映像をずっと監視しているのであればこのタイプのカメラでも十分な働きをするはずだ。・・・・・・そのはずなのだが。いかんせんカメラの設置場所が悪すぎる。
その監視カメラと呼んでいいのか迷う物体は俺の腰付近の高さ、正確に伝えると廊下側に面する教室の窓枠に固定されていた。普通であれば、設置個所は人の頭よりも高い場所が良しとされている。廊下へ出た俺も、最初はその辺りを重点的に探していた。だが、どうにも見当たらないため、目線を下げてみればこの有様だ。俺はカメラに映らないよう手を伸ばし、難なく電源を止める。このように簡単に排除されてしまえば、もはや何の意味もない。天井に固定する術がなかったのか、あるいはその手間すらも省いてしまったのか。だいたいから言えば、この建物はあまりに広すぎる。ただの金目的の誘拐であれば、こんな守りにくい場所ではなく、マンションの一室でもよかったはずだ。人目を避ける方向ばっかりに気が回った証拠かもしれない。「・・・素人か」
またもこめかみの少し上あたりがズキズキと痛む。風邪でも引いただろうか?先ほどよりも痛みがひどくなっている気がする。
「ふっ」
ため息のような笑みを零した。素人だ何だと言って、一番の素人は隠密行動に犬なんか連れている俺ではないか。足元に視線を落とすと、教室内じゃそうでもなかったが廊下に出た途端しゃかしゃかと床に足を滑らせているウリエルがいた。何度も転んで、顎を打ち付けそうになっている。
「待て待て。ここからはお前と一緒に行けそうにない。後で迎えに来てやるから、教室で大人しく待ってろ」
どうにかウリエルを教室の中に押し戻そうとするのだが、俺の手を離れるとすぐにUターンして廊下に出て来てしまう。そうやって扉の前で揉めているうち、近くの階段を何者かが駆け上ってくる音が聞こえた。
まずい、誰か来る!俺は慌てて教室とは反対側にあるトイレの入り口に身を隠した。しかし未だ廊下の床に足をとられているウリエルは逃げ遅れ、やってきた犯人の一味と思われる女に見つかってしまった。
茶色い髪に、派手なメイク。見るからに動き辛そうな丈の長いコートに身を包む女は、誘拐犯の一味というよりファッション雑誌のモデルのようだった。顔の割れている三人の犯人のうち、どれとも違う顔。上着の内に手を突っ込み、すごい剣幕で周りを見回している。廊下を忙しなく移動し、扉のガラスから教室の中を一つずつ覗いていく。しかし何も発見する事ができず、いるのが犬だけだと分かると、あからさまにほっとした様子で肩の力を抜いた。ベルトにかけてあった無線を手に取り、ボタンを押して、何処かに報告をいれる。
「音がしたから見に来たけど、野良犬だったよ」
するとすぐに応答があった。お粗末だった監視カメラの設置の件は別にして、どうやら指示系統はしっかりと機能しているらしい。逐一、事象を報告する相手がいるという事は、あの無線の電波が届く先にリーダーが存在するという事だ。
『--------』
「カメラ?ああ、どうなんだろう。赤いランプが消えてる。故障かな?安かったし、もしかしたら不良品を掴まされたのかも」
『--------』
「オッケー。持ち場に戻るね」
無線を切った女は、宣言通りすぐに持ち場に戻っていくかと思われたが、そうではなかった。
「おー、可愛いなあ。君はどこから入って来たんだ?」
その場で犬のウリエルを抱きかかえ、付け爪のついた指先で顎の下をこちょこちょとくすぐっている。先刻の鬼の形相はどこへやら。その緩み切った表情は、甘い甘いスイーツを前にした、一般の少女という印象。それに対しウリエルは、これ以上ないほど心地よさそうな顔で、女の指を全面的に受け入れていた。二度、俺が摘み上げようした時には暴れたくせに、何なんだ?この差は。そのうち変なスイッチが入ったようで、ウリエルは女の腕の中で荒ぶり、上着の奥へ奥へと潜って行こうとする。
「あ、ちょっと。もー、こらってば。君おっぱい舐め過ぎだよ~」まんざらでもないような声をあげる女。
すると、その女の上着から何かが転げ落ちた。重量感のある、鈍い金属の音が廊下に響く。
「やば。・・・ふぅ、安全装置があってよかったー」
女は床に落ちた銃を拾い上げ、また上着の内に丁寧にしまった。悪さをしたウリエルを窘めるために顔を近づける。「あれ、今気づいたけど君かなり汚れてるね。おいで、綺麗にしてあげる」
なんとウリエルは俺を残し、女に連れられてそのまま階下へと姿を消した。少しも抵抗する素振りを見せずに・・・。
微動だにせず、黙って状況を見守っていた俺がトイレの入り口から顔を出す。
おいおい、まじかよ。ここにきて、犬まで誘拐されてしまったぞ。今ならまだ間に合いそうだが、助けに行くか?いや、待て。今騒ぎを起こすのはまずい。あくまでも優先されるのはお嬢様であって、犬なんか二の次、三の次だ。くそっ、まったく何てことだ。ミイラ取りがミイラになるという諺の良い例が、まさに目の前で起きるなんて。
「ちっ、騎士だったら自分の身くらい自分でどうにか守って見せろ。・・・・・・でないと、お嬢様が悲しむんだよ」
またも敵地にて一人ぼっちになってしまった俺。とはいえ、ウリエルが何の役にも立たなかった訳ではない。きちんと重要な情報を残していったのは、値千金であった。
上着から転げ落ちた銃。犯人グループが所有する銃が、あれ一丁とは考えにくい。もしも銃が一丁ならば、下っ端に、しかもどこか抜けている雰囲気の彼女に持たせるものか。つまりこのアジトには、彼女のような者にも持たせられるほど、銃があるという事だ。これは単に予想だが、一人に一丁の銃が用意されているのではないだろうか。
戦闘となればまず間違いなく銃で応戦される事が分かった。であれば、戦う場合はまとめてより、各個撃破が得策。少しずつ相手していき、徐々に戦力を減らす。まあしかし、戦わずしてお嬢様を救い出せるのならば、それに越したことはないのだけど。
戦闘方針は決まった。では、次に俺が考えるべき事柄はなんだろうか。犯人グループの本当の人数?銃の無効化の仕方?それよりもなによりも、まずはお嬢様の居場所だろう。ある程度の目星がつかなければ、救出はおろか移動すらできない。監視カメラを避け、ルートを決め、救出の手立てを探し出す。それにはどうしてもその予想が必要だ。
人質の居場所を知りたければ、犯人の思考を読むべし。そして犯人の思考を読むためには、犯人になり切るのが一番だ。もし俺が犯人ならばどうする。俺ならば何処にお嬢様を捕まえておく。
まず絶対にあり得ない場所はどこだ?・・・・それは昇降口の近くだ。誘拐犯にとってみれば、人質は宝の引換券。それを家の入り口に置いておくなど、阿呆もいいところ。金庫は必ず家の奥へとしまっておくはずだ。
では階数はどうだ?・・・もしもの場合を考えて、逃走手段を確保するのは大事だ。使用するのは、恐らく畑に停められた車だろう。でなければ、車なんて比較的足がつきやすそうな物を廃棄せず未だに傍に置いている理由がない。あれ意外に移動手段がないのだ、そうに違いない。となると、緊急時にはすぐに車に乗り込める場所が臭い。それは三階になく、ギリギリ窓から飛び降りる事ができる二階、そして一階が該当するはずだ。もっと言うなら、元より覚悟を決めている犯人たちであれば二階からでも躊躇なく飛び降りられるかもしれないが、人質はそうはいかない。その事からベストは一階なのだが・・・・。
自問自答のすえに絞り出した条件とバイクから降りる際に携帯端末で見せられた鈴が丘中学校の見取り図とを照らし合わせていく。そして俺は、最もその答えに近しいと推測される部屋の名前を呟いた。
「職員室か・・・」
よければ感想をお願いします
赦し屋とひこじろう(連載)を同時に書いてます
暇だったらそっちも読んでみてください