第五話「迷子」
行く先も定まらぬまま、つま先の向く方向へただただ歩を進める。信号機が赤だろうと、走ってきたトラックが急ブレーキを踏もうと素知らぬ顔。全てが他人事のようで、自分がこの世界に存在している実感がサッパリない。まるで夢遊病者のようにフラフラと歩きながら、ついさっきまで足元にあったはずの地面が消失してしまったような、絶望的な感覚に戸惑っている。
屋敷を飛び出した俺は、追いつめられるようにホームセンターへと逃げ込んだ。何しろMCのスーツ姿は、この日本では弥が上にも目立ってしまう。みだりに街中を歩こうものなら好奇の目線に晒される事、間違いなし。時に握手やサインを求められたりもするが、それも含めて悪目立ちという言葉がお似合いだ。しかも近頃は、運悪くそれだけでは済まないのだった。
先日起きたMCによる暴力事件は、それまでMCに無関心だった人の耳にも多く届き、そしてMCに対する捉え方を大きく傾かせてしまった。分かりやすく言えば興味の的が、今や敵意の的である。であればこそ、今はどんな罵詈雑言にも耐え、全てのMCがそうではない事を証明するべき時なのかもしれない。だが正直な話、目下俺の精神状態では、その罵声に対して何をやらかしてしまうか分かった物ではない。八つ当たりをゆうに通り越し、第二の暴力犯としてお茶の間にニュースが流れてしまう可能性だってある。そうならないためにも俺はなるべく人通りが少ない道を選び、客が少ないであろう平日のホームセンターへと足を運んだ。いくら用心しようとも、暴力事件ならすでに起こしてきたところだと言うのに。
閑散とするホームセンターで、俺はツナギと帽子、そしてスニーカーを手に取った。それに加え、欲しくもない枝切りバサミと除草剤も合わせて買い物カゴへと投げ入れる。衣料品が主たる売り物ではないホームセンターで、ツナギや帽子だけを買っていく人間は滅多にいない。だから余計な物まで一緒に購入する事で、「この人はこれから庭いじりをするんだな。きっと金持ちの気まぐれに付き合って、ひと汗流すのだろう」と勝手に勘違いして頂く腹積もりだ。
そんな言い訳がましい行動に何か意味があるのかって?そりゃあ、ある。ただでさえMCってだけでも目立つのに、これ以上変な目で見られてたまるか。ガキの頃から政府直轄の施設で教育されているMCといえど、一般人と同じ程度には心が傷つくようにできてんだよ。兎にも角にも、混乱に浸かりきった俺の脳みそはそういう指令を出し、受け取った体は指示通りに動いた。スーツを脱ぎたい、ただその一心に突き動かされて。
レジで会計を済ませる時、一瞬の躊躇があった。財布を開いた俺は、中に入っているお札、一枚一枚をギッと睨みつける。どれもこれも嫌悪する金蔵寺から支払われた給料であり、MCという制度の傘の下でようやく稼ぐことの出来た金だ。もしも俺がMCでもなんでもなくて、ただの『男』だったとしたら、これだけの金を稼ぐ事が出来ただろうか。急にぴたりと動きの止まった俺を、不審げにレジ打ちの女性が見つめていた。慌てて頭を振り、支払いを済ませる。女性の手からお釣りを奪い取り、俺は一目散にホームセンターを後にした。
購入した物を持って、近くのゲームセンターまで行き、トイレの中で服を着替えた。持ち歩くには重量のある枝切りバサミと雑草を枯らせる以外に使い道の思いつかない除草剤は脱いだスーツの上に置き去りに。ツナギ姿で帽子を深く被った人間は、怪しさでいえば真昼間にスーツ姿で出歩くMCと変わらないくらいに怪しかったが、首周りを締め付けるネクタイがなくなるだけで、随分と楽になったような気がした。
「はぁ・・・」
溜息は無限に溢れ出た。歩くうち、どんどんと歩幅が狭くなってくる。
目的地は決まっていなくても、この先自分がしなくてはならない事は決まっていた。お嬢様の救出。それは何を差し置いても成し遂げなくてはいけない。しかし親子関係にある金蔵寺は当てにできず、お嬢様を連れ出したアキラさんは冷たくなったまま路地裏に横たわっている。解決の方法どころか、お嬢様の居場所すら分からない。分かっているのは、俺の向かっている先が絶望だって事だけ。歩けども歩けども、一向に光は見えてこない。
ついでに言うと、後ろを振り返ったところでそれもまた絶望だから始末におえない。ケイを殴ったはずの手は、まるで痛みというものがなく、皮膚が裂けているような事もなければ赤く腫れているような事もない。いつも通りの、俺の拳だった。
そのうち俺は吸い寄せられるように、あの悪魔のような男と出会った公園へ。行く先を決めていなかったはずが、意識の奥底では何やら色々考えていたらしい。ケヤキに貼っつけられた『見ているぞ』の防犯ポスターの前で立ち止まり、人間の顔ほどの大きさをした目玉と睨みあう。
お前は・・・、お前は今も俺の事をどこかで見ているのか?
おもむろにポスターへ手をかけると、そのツルツルとした木肌から引っぺがし、ぐしゃぐしゃにして投げ捨てた。分かった、分かった。いいだろうとも。ご要望通り、頼ってやろうじゃないか。お前が地獄の底から這い出てきた悪魔だって、関係ない。例えそれが自分の身を亡ぼす最悪の選択だったとしても、お嬢様を救えるのならば後悔はしない。さあ、悪魔。俺の願い、叶えてみせろよ。
俺はツナギのポケットから、電話番号だけが記されたひどく簡素な名刺を取り出した。あの日、屋敷に帰ってからスーツを脱ぐまで、その名刺が胸ポケットに忍ばせてあることに全く気がつかなかった。見つけた時は、それはもうかっとなって、苛立ちに任せてその小さな紙切れをめちゃくちゃに折り畳み、備え付けのゴミ箱にぶち込んでやったさ。破かなかっただけでも、誰かに褒めて貰いたいくらいだぜ。
携帯電話を耳に当てる。幸いまだ契約を止められていないようだ。飼い犬に手を噛まれたのがそれほどショックだったのか、あるいは俺如き子犬に付き合っている暇などないということか。それはともかく、名刺に書いてある番号をゆっくりと正確に押した。しわくちゃになっていたのを無理やり手で伸ばしたから、どうにも読みづらくて仕方ない。
数度の呼び出し音の後、意外な声が耳に届いた。
「はい、もしもし」電話越しにも分かるそのあまりに幼い声は、暢気な調子で発信者の名を訊ねた。「だーれ?」
「あ、その」
「もしもし、もしもーし?」
「もしもし。あの、俺は」
狼狽し、言葉に詰まる。てっきりあの地獄の釜にも悠々浸かってしまいそうな、どす黒いオーラを放つ声が聞こえてくるものだと思っていたので、驚きのあまり二の句が続かない。
「もしかして、いたずらぁ?」
「そんな、違うっ」
「いたずらするのは、わるいこです。だからぁ、えーっと、だから、・・・・・・・さいなら」
「え、ちょっと。待って待って」
にわかに受話器を下ろす気配を感じた俺は、慌てて電話口の、その子供を呼び止めた。何がどうなっているか判然としないが、とにかく電話を切られてしまっては元も子もない。かなり気合を入れて、それこそこの間の第二ラウンドだくらいの感じで電話をかけたのに、これでは完全に拍子抜けだ。仕方ないので、その子供が喋るゆっくりとしたテンポに合わせて、俺は名乗った。
「俺の名前は、ユーリっていうんだけど」
「ユーリ?こんちは、ユーリ。ぼくは、よういちろう。5さいだよ」
たどたどしい声は、続いて俺に要件を訊ねてくる。「ユーリは、よういちろうになんのごよう?」
「いや、悪いんだけど用があるのは君じゃないんだ。用があるのは・・・」
そう言って、俺はまた途方に暮れる。
奴の名前って何だ・・・?
電話番号や人相、あの人を食ったような喋り方に至るまで分かっていても、肝心の名前がまるで出てこない。そりゃそうだ。奴の素性を聞き出そうとしたがばっかりに、あんな小競り合いをやらかした訳だし。暗闇に沈む公園で、池に浮かぶ噴水の音を背後に聞きながら交わした会話を丹念に思い返してみても、それらしい発言はなさそうだった。果たして電話先にいるお子様は、『悪魔みたいな奴』と言って理解してくれるだろうか?
しばらくお茶を濁すようにお互いのプロフィールを紹介し合い、あるいは名刺自体が奴の悪戯だったのかもしれないと考え始めていた頃、よういちろうが不意に訊ねてきた。
「ユーリはジュンペイのおともだちなの?」
「ジュンペイ?」新しく出てきたワードに俺は反応し、聞き返す。
「ちがうの?」
「いや、違わない。俺はジュンペイの友達だよ」
「だったら、いまジュンペイはいないよ。でかけてるんだ」
その声からは、よういちろうの寂しい気持ちがありありと伝わってくる。案の定、「ぼくはおるすばんなんだ」という台詞が後から追いかけてきた。
すると突如として電話の向こう側が騒がしくなった。よくよく耳を澄ましてみると、受話器から離れたよういちろうと誰かが喋っているらしい。俺はどうしたものかと悩みつつも、黙ってその声に耳を傾けた。
「羊一郎様、あれほど電話に触っちゃいけませんと言ったではありませんか」
「でもね、リーンリーンってなってたよ?」
「ですから、ベルが鳴った時は雪那が電話に出るんです。羊一郎様ではありません」
「でも、セツはおふろにはいってたでしょ?」
「うっ・・・、そ、それはそうですが」
「セツ、はだかんぼのままでさむくないの?」
「あ、ちょ、羊一郎様、しーっ」
何やら電子音が流れ、セツと呼ばれる女性とよういちろうの会話は、そこで途切れた。続いてその電子音が止まるや否や、今度は腹の底に響くような重低音が俺の鼓膜を襲った。俺はびっくりしすぎて、寄りかかっていた池を囲む柵から飛びのき、危うく携帯電話を水没させかけたのだった。
恐る恐る池に落としかけたそれを耳に当ててみる。
「もしもーし。あれ、おかしいな。悪戯電話か?」
今度こそ聞き覚えのある声。誰が忘れるものか。昨夜、後頭部に人を簡単に始末できる金属を当てがわれながら聞いた悪魔の囁き声だ。心の隙間に付け入るような木枯らしであり、圧倒的な恐怖をもって植え付ける屈服の種。否応なしに全身の皮膚が粟立つのを感じた。
「聞きたい事がある」俺は名乗る事もせず、いきなり要件を切り出した。
「何だ、きみか。そっか、かけてきてくれたんだね、嬉しいよ」奴は落ち着いた調子で言う。その声に嬉しそうな様子は微塵も感じられない。「聞きたい事?いいよ、何でも聞いて」
「先にはっきりさせたい。・・・というか、なんだか五月蝿いな。一体何なんだ、この音。どうにかならないのか」
「そうかい?こっちは君の声がよく聞こえてるけどなあ。あ、きっとイヤホンが上等な奴だからだ。ごめんごめん、今バイクの運転中なんだ。少しだけ待ってくれるかい、何処か駐車場に停めるから」
すると奴の声と共に地鳴りのような音は消え、電話機からオルゴールの音楽が流れ始めた。肩透かしを食らった気分の俺は、池の柵を背にその場にへたり込む。携帯電話を握った腕を放り出し、頭上に広がる大空を見上げた。木々の葉の間から見える空は、どこまでも遠く、青い。どこかで聞いた事があるような気がするオルゴールの曲と相まって、不思議と心地よさすら感じてしまう。吹き付ける風が冷たい分、お尻の下にあるアスファルトがぽかぽかと暖かい。まさかこの俺がMCの誓いを破る日が来ようとは。まさかこの俺がケイを殴り飛ばす日が来ようとは。そんなまさか、まさか。
数分後、何度もリピートしたオルゴールが止み、またあの男の声が聞こえてくる。もう少しだけ聞いていたいという欲求を抑え込み、俺は奴との会話に集中した。
「で?はっきりさせたい事っていうのは?」待たせた事を詫びた後で、奴が訊ねる。
「お前はあの夜、確かに言ったな。俺はお前を疑うだろうけど、自分は何もしていないと」
「ああ、言った」
「つまりお前は、あの時点であそこに何があるか知っていたんだな?」
問いただす俺の目が自然ときつく、鋭くなる。もしも今奴が目の前にいたならば、奴の眉間が発火するまで睨みつけていただろう。嘘は許さない。曖昧な返事も許さない。例えお前がずる賢い悪魔だったとしても、煙に巻くようなことは絶対にさせない。
奴は電話の向こうで少し黙った後、「知ってた」と、短く肯定を示した。
その言葉を聞いて、俺は目の辺りがカッと熱くなる。頭に血が上り、冷静な判断を下す機関を脳から排除し始める。握ったままの拳が微かに震えた。
あちらと同じ程度の沈黙が続くと、奴は自ら聞かれていない事にまで答えた。「殺される場面も見た」
「お前・・・。見ていたなら、どうして助けなかった」
自分でも無茶を言っているのは重々承知だ。だが、言わずにはいられなかった。
「一つは、見てはいたがその場にいなかった。物理的に助けるのは不可能だった」奴は嘆息を挟み、少しだけ声を落とす。「そして二つ、きっと君は怒るだろうけど、言わなきゃもっと怒るだろうから言う事にするよ。・・・・・僕には彼女を助ける義理がない」
その発言は、俺の心に少なからずダメージを与えた。立てた膝に思わず拳を振り下ろす。歯を食いしばり、怒りに煮えたぎった気持ちをありったけ、電話の向こうにいる悪魔に叩き付けた。
「クソっ、この人でなしが!あの人はな、アキラさんはあんな路地裏で一人寂しく死んでいい人じゃないんだよ!」
俺の叫び声が公園の中央に構える池の水面を走った。幸いな事に、近くに人影はなく、木の枝に止まっていた鳥が二羽、チィチィと鳴きながらどこかへ飛んでいく。
息苦しさを感じた。大きく空気を吸い込み、息を止める。限界がきたら、吐き出す。それを何度か繰り返した。それでもちっとも楽にならない。ネクタイを外しただけであんなに楽になったのに、今は「もっと、もっとだ」と肺が悲鳴を上げる。
俺は膝を抱え、頭を両ひざの間に押し込んだ。未だに拳は震え続けている。顎の下にある携帯電話から、池の噴水の音にかき消されそうなくらいに小さな声が聞こえてくる。「人でなしが言うのも何だけどさ。泣いてくれる人がいるんだ、彼女は一人寂しく死んだ訳じゃないと思うよ」
「泣いてねえよ」俺はそのままの格好で、言い返した。
しばらくして顔を上げると、木から振り落とされた葉っぱに混じって、丸まった紙が風に弄ばれているのが目に入った。それは先ほど俺がぐしゃぐしゃにして投げ捨てたポスターの塊だった。上手い事俺の傍まで転がって来て、ぴたりと動きを止める。
「・・・見てんじゃねえよ、馬鹿野郎」
公園中に、というか街中に正午を告げるサイレンが鳴り響いた。どうりで腹もすくはずだ。待機部屋でケイに奪われた煎餅が、今更惜しく思えてくる。あんな煎餅一枚が、とてもとても大事な宝物のように思えてくる。ああ、次にあいつの隣で煎餅を齧れる日が来るのはいつになるのかな。
いい加減に体育座りの体勢にも疲れてきた俺は、立ち上がって伸びをした。あの姿勢は、俺の最も古い記憶、すなわち苦汁を舐めるような記憶に繋がっているから、あまり好きではない。
「ま、そういう事だから。んじゃ、また」そう言って、奴はそのまま電話を切ろうとする。
「おい、待てコラ。まだ聞きたい事が聞けてねえぞ」
「そうだっけ?ふむ、そうか。そうかも」
今日も今日とて、人を馬鹿にするような話し口は健在だった。俺はため息交じりに言う。
「お前なぁ・・・」
「まあまあ。俺を叱りつけるために、わざわざ電話をかけてきた君じゃないだろう?それに俺はさっきから言いたい事も言えず、ずっと我慢していたんだよ。君が目を真っ赤に腫らしながらえーん、えーん泣いてる時からね」
「し、しつけーな。だから泣いてねえって」
「死人に対する罪の在処を探す暇があったら、まだ生きている人間を救う方法を考えるべきじゃないか、って」
その一言で、言いようのないフワフワした空気は一瞬で霧散した。俺はゴクリと音を鳴らして唾を飲み込む。口の中も、喉もカラカラだった。
俺は危うく心を許しかけていた自分を恥じた。何をしている、しっかりしろ。己に何度も何度も言い聞かせる。
先刻罵倒した相手に心を許すとは何事かと思うかもしれないが、それというのも奴という人間からは悪意どころか、その欠片すら感じ取れないのだ。以前もそうだった。普段それほど役に立つ訳でもない俺の能力が、今まさに、満を持して、足を引っ張ってくれている。チクショー、使えねえ。心の中では全くの別人だと理解していても、ふと気を抜けば俺はケイと話しているような気分になってしまう。電話越し、相手の顔が見えないというのも良くなかった。そうなると奴は完全に警戒の外。悪意の尺度で大まかに態度を変えてきた付けが回ってきたのだ。こればっかりはどうしようもない。
普通の会話をやり取りしながら、奴はその節々に隠し刀のような物を常に仕込んでいる。少しでも気を抜けば、即グサリだ。せめて致命傷を受ける事だけは避けなければ。
「・・・そう言うって事は、お前はお嬢様の居場所が分かるのか」
「当然さ」あっさりと、いともたやすく言ってのける。「君に教えてもいい」
俺は唖然とし過ぎて、呼吸をするのさえ忘れていた。
「どうしてだ」
「どうして?」
「どうしてお前がそこまでする」先ほどの奴の言葉を借りて、言う。「お前にそんな義理ないだろ」
「どうしてか・・・。んー、そうだな。君を気に入ったから、じゃダメかい?」
しかし、そんな曖昧模糊とした答えでは到底納得のいかない俺が文句をつける。「馬鹿にしているのか」
「馬鹿になんてしてないよ。だいたい君は今、藁にもすがりたいはずだろ?理由なんて気にしてる場合じゃないと思うけどなぁ」
「ぐっ・・・、それは」
「どうする?俺は別にどっちでもいいんだよ。君が知りたいなら教えるし、知りたくないなら、さよならを言った後で電話を切るだけだ」
「俺は・・・、俺はお前をどこまで信じればいい・・・」偽らざる、本心からの言葉。見えぬ正解に顔を歪ませる。
「信じる必要なんてないさ。君は俺を利用する、それだけでいいんだ」
なかなか決心が固まらず沈黙を続ける俺を見かねてか、奴はこう言って条件をつけ足したのだった。
「それじゃあ気が済まないっていうんなら、これは借しにしてもいい。また今度、別の形で返して貰おうかな」
乗せていこうか?という奴の提案を丁重に断った。受け取った情報によれば、お嬢様の捕らわれている場所はこの公園からすごく遠いというほどではない。赤ん坊ではないのだから、バスを乗り継げば夕方までには辿り着けるだろう。たとえ公共の交通機関が何らかの原因で使えない、主に金蔵寺家の屋敷で起こしたトラブルによって、裏で手を回されていたとしても、その辺に止まっている自転車をちょろまかせばいい。今はなりふり構っている場合ではないのだから。
・・・・・・そのはずが、どうしてこうなった?
確かに奴にも同じことを告げて、電話を切った。そして公園の池を一周する形で入口まで戻り、いざ出発しようとしたところで、向かいにある駐車場に爆音を鳴り響かせながら侵入してきた一台のバイク。運転手はフルフェイスのヘルメットを被っており、その下から見覚えのある髭面が出てきた時には、俺は気絶しかけた。
片手をあげ、薄気味悪い笑顔を顔に張り付けながら近寄ってきた奴は、さも偶然であるかのように話を進める。そして、あれよあれよのうちに俺は奴の背中に捕まる事を強要され、爆竹のような音を発するマフラーのついたバイクに跨っていた。本当に、本当に、どうしてこうなった。
道すがら、奴はバイクを運転しながら、聞いてもいないのにぺらぺらと誘拐犯の追加情報を喋る。二人乗りするにあたって渡された、同じくフルフェイスのヘルメットにはマイクとスピーカーがついているらしく、走っている最中もお互いの声はよく聞こえた。
誘拐犯の隠れ家の傍に到着するまでいくらか言葉を交わしたが、その時も悪意の気配をまったく、これっぽっちも感じる事はできなかった。これは中々に厄介だぞ。原因がさっぱり分からないのに、俺の能力は完全ではないという烙印を押された訳だからな。しかし、奴はバイクを降りてヘルメットを受け取るなり、純粋無垢な顔で往復のガソリン代を請求してきた。「返せる借りはすぐ返せ、返せない借りはそもそも借りるな、だぜ?」。意地の悪そうに笑う。
「ついさっき、匿名で金蔵寺家のお嬢さんが誘拐されたとマスコミにタレコミが入った。会社も屋敷も、これから対応でてんてこ舞いだろう」
「・・・匿名?どうせお前の差し金なんだろ?」
「それについては、ノーコメントで」
何かを誤魔化すように手をひらひらさせる。そして、用はすんだとばかりにバイクのハンドルを握って、スタンドを上げた。
「もう帰んのかよ」
「ん?なんだい、手伝って欲しいのかい?」
「いらねーよ。お姫様を助けに行くのはナイトが一人で十分だ。二人もいたんじゃ、どっちを褒めていいか、お姫様が迷うじゃねえか」
「一人、ねえ?」と奴は何故か含みのある笑みを零す。「ま、いいや。ご立派、ご立派」
エンジンをかけるなりジェット風船が破裂するような音がして、荒馬を乗りこなすみたいに奴の上半身が後ろに傾いた。薄い白煙だけを残して、バイクは来た道を猛スピードで戻って行く。
目的地はもう少しだけ先だ。そこまでは徒歩で進む事になる。
「うっし、行くか」
気合いを入れ直し、歩き出そうとした俺は自分の両足にスイカくらいの重さをした何かが乗っかっていることに気がついた。そいつは俺の足によりかかっているせいか、ツナギの布越しに独特の温もりまで感じる。歩き出そうにも、そいつが邪魔で一歩目が踏み出せないでいた。
見下ろすと、そこには両足の甲を押さえつけるように伏せている犬の姿があった。その犬というのが、見紛う事なき馬鹿犬、ウリエルである。どうやら奴がさっき笑っていたのは、これを見たかららしい。随分と息使いの荒いウリエルは舌を出し、苦しそうに何度も腹を膨らませたり萎めたりした。
いやいや、ちょっと待て。俺はここまでバイクで来たんだぞ。流石にバイクの後ろを付いて走ってきたとは考え辛い。だとしたら、どうやってこの場所が分かったんだ、こいつ。
「おい、てめえ。どうやってここまで来た」
真剣な顔で訊ねる俺だが、ウリエルはハアハアと実に犬らしい呼吸を繰り返すだけで、まるで答えようとしない。というか、答えるはずがないだろ。阿呆か、俺は。
「おい、邪魔だ。そこをどけ」
あれほど屋敷では俺を避けていたウリエルが、どうした事か天敵であるはずの俺から体をどけようとしない。まるで地面に根を張っているかのようだ。いや正確には、俺の足の上に、だが。
先ほどから一切俺と目を合わせようとせず、ただじっと正面だけを見つめる。何かこいつなりの自己表現なのかもしれないが、言葉にしてくれなければ理解できるはずがない。
「ちっ、退かないならその腹、蹴とばしてやろうか」
ぷっくりと膨れた横腹を眺めながら、少しずつウリエルの胴体から足を引き抜いていく。その途中、ふとケイとの会話が頭の隅を掠めた。
『知ってた?こいつ、イギリスの王族が飼ってた犬種なんだって』
『へぇ。こんなあほ面を、王族がねえ』
『キャバリアって、騎士って意味らしいよ』
騎士・・・、か。
「おい、お前も一緒にお嬢様を助けに行くか?」
ウリエルはずっと続けていた漬物石の真似をやめて立ち上がると、一度だけ小さく吠えた。
よければ感想をお願いします
赦し屋とひこじろう(連載)を同時に書いてます
暇だったらそっちも読んでみてください