第三話「天使と悪魔」
荒い息遣い。波に揺れる船のように、同じリズムで上下する肩。おでこに張り付いた前髪を伝った汗が、路地裏のアスファルトにシミを作った。
お嬢様に手を引かれデパートを飛び出した俺たちは、なるべく人の少ない方少ない方へ、でたらめに進んだ。青いポリバケツをいくつ蹴とばしたか分からない。最初こそ俺の腕を引っ張って走っていたお嬢様だったが、そのうち足取りが重たくなり、最終的には脇腹を抑えながらゆっくりと俺の後ろをついてくるだけの影みたいな存在になってしまった。
「すごい・・・体力・・・。もう・・・私・・・走れない」
「大丈夫ですか、お嬢様」周りに気を配りながら、死にかけた顔のお嬢様に声をかける。
「ごめんなさい、・・・少しだけ休ませて」
息を整えながら、誰が踏みつけたかもわからない、薄汚れた地面に腰を下ろした。
一着でゴルフクラブのセットが買えてしまうほどの値段がする制服。もちろん洗えば何の問題もないのだが、そこは天下の金蔵寺家。そうはいかない。あの様子だと九割がた廃棄、良くてクリーニングが専門の業者送りだろう。制服の代えはあるので、明日からの生活に支障は出ないのだが、同じ型のスーツ三着を着まわしている俺には、到底考えられない行いだ。
急に物音がして、そちらに目を向けた。道の端に無造作に積み上げられた段ボールの束が、ごそごそ独りでに動く。俺はさっと腰を下げ、自己流の構えをとった。重心を地面と垂直にし、いかなるアクシデントにも対応できるようにする。鬼が出るか蛇が出るか。何が出ようが、関係ない。俺がやるべきことは決まっている。お嬢様を守る、その一点。
段ボールの振動が止まった。すると奥から、白黒で丸っこい物体が姿を現した。心配は杞憂に終わり、俺は飛び出してきた野良犬を見下ろす。
体は白と黒の毛に覆われ、茶色い眉の愛嬌のある顔をした犬。確か、犬種はキャバリアと言ったか。子犬とは言わないまでも、まだ成犬になりきれていない。野良犬は俺の方に近寄るなり、小さく威嚇の声をあげた。成犬のような低く芯の通った声ではなく、まだ可愛らしい高い声。人間で言う上半身を地面にくっつけ、お尻を高く突き上げる勇ましい格好だが、丸まった尻尾が隠しきれていない。ビビってるくせに正面から立ち向かってくるとは、なかなか見上げた根性だなと感心したのだが、野良犬は俺の影に隠れていたお嬢様を目ざとく見つけるなり、ちょこちょこスキップするみたいに近寄っていく。
「待って」追い払おうとした俺を、お嬢様が制した。
そして野良犬を顔の位置まで持ち上げた。ああ、スカートだけでなく、ブラウスまで汚れてしまった。毛にまみれ、動物特有の臭いが染みついてしまったに違いない。俺の沈んだ心の声を他所に、お嬢様がそれを膝の上にのせてしまった。
「ほら見て、可愛い」抱き上げて、こちらに見せるように掲げる。「首輪がついてるみたい。これは名前かしら?・・・ユーリエル?」
首を傾げるお嬢様。「一緒の名前!一緒の名前ね!」とコロコロ笑う。
野良犬と一緒にされた俺は、喜んでいいのやら悲しんでいいのやら。鼻先を小刻みにぴくぴく動かす犬の様子を眺めながら、ため息をつく。それを見ていると、今の今まで制服の心配をしていた自分がずいぶんとマヌケに思えてきた。さらに言えば、心配するべきはもっと他にあるのではないかと。例えば先ほどのデパートでのひと騒ぎ。お嬢様に対する脅威を排除するためとはいえ、咄嗟に鏡を叩き割ったのはまずかった。いや、まずいどころではない、最悪だ。
我々MCが政府によって存在を許されているのは、女性に対して危害を加えないという掟が機能しているからに他ならない。絶対服従。それは何時いかなる場合にも適用される。
危害と言っても、一括りにする事はできない。暴力や言葉による攻撃は当然の事、危機感を抱かせるような精神的な威圧なんかも、それに含まれている。傍にあった鏡を拳で殴って粉々にするなど言語道断だ。
ちなみに乳児の時期に日本へと連れてこられたMCは、女性の脅威にならないための教育を物心つく頃には、その頭に叩き込まれる。教育の根幹にあるのは恐怖だ。
人の行動を縛るのに一番手っ取り早いのは痛みを与える事。生物は痛みを持って、その軽率な行動を改める。赤ん坊がその辺に落ちている物を、何でも口に運ぼうとするのは舌の感覚が敏感だからだ。視力の弱い赤ん坊は、そうやって危険かどうかを判断する。しかし痛みというのは、一緒に他の感情も生みやすい。それは怒りや恨みだ。どちらも前提にある脅威の排除においてあってはならない産物。だからMCの教育には、痛みではなく恐怖が用いられる。
誰しもがもう二度と経験したくない強烈な悪夢の三十日間。もしかすると一番古い記憶がそれというMCも多いのではないだろうか。詳しくは話せないが、そこで根こそぎ女性の脅威になりそうなものを心の中から消し去る。そして二度と生み出されないようにする。
卒業後であろうと、もしも掟に背くような事があれば何が待っているのか容易に想像がつく。恐らくいつも無表情のジョーですら、恐怖で顔を歪める事だろう。
「聞いていますか?」
その声にはっとする。気づけばお嬢様は立ち上がり、抱き上げた野良犬を俺の顔まで数センチの所に近づけていた。伸びてきた舌をギリギリ避け、一歩後ろに飛ぶ。
「ウリエル。それはウリエルです、お嬢様」
「そうなの?」朽ちかけた青い首輪を確かめるようにもう一度よく見る。
俺は無意識のうちに、自分の心臓へ手を当てていた。どく、どく、と全身に血液を送るため絶えず、激しく動いている。犬の顔もそうだが、思ったよりもお嬢様の顔が近くにあったのが、血液運送会社がフル稼働している原因だ。動物の匂いに混じって、ふわっと香水の甘い香りがした。
「何か心配事ですか?」
「いえ、そんな事は・・・」
「顔がいつにもまして怖いです」
そう言った後で、お嬢様は「あっ」と手で口を覆った。
「俺の顔は普段から怖いですか?」自嘲気味に訊ねる。
「・・・・・ええ、少しだけ」
親指と人差し指でその度合いを表現しながら、お嬢様は困ったように笑った。
ビル風が吹きずさぶ路地裏で、俺は考えていた事のほとんどを、包み隠さずお嬢様に話した。デパートでの一件が世間に、そして金蔵寺の耳に入るとまずい事。その先に、身の毛もよだつ地獄が待っている事。野良犬のせいで制服が汚れて困る事は、それとなく伝えた。心臓の高鳴りは・・・ほとんどに含まれていない。何故急に自分の口がこんなにもお喋りになってしまったのかは分からないけど、もしかすると金蔵寺家に関係のある人の目がない屋敷の外というロケーションが、俺の口を軽くさせたのかもしれない。
「監視カメラは、カツラや眼鏡をしていたので大丈夫でしょう」お嬢様は事も無げに言う。「私のコーディネートは完璧でしたから」
コーディネートとは、走って逃げる際に道々置き去りにしてきたあれらのことだろうか。器物破損に、窃盗。ああ、頭が痛くなる。まずいなぁ・・・。
「お嬢様の言うように、頭部は完璧だったとしても服がですね。この服がMC専用の服ですから」
俺は今身に着けているネクタイやスーツを指さして言う。まさに頭隠して尻隠さずとはこの事。尻どころか、下半身も上半身も隠さなければいけないなんて、それはもう無茶というものだ。
「そんなこと言ったら私もそうですよ、制服だし。学校に連絡されたかもしれません」
お嬢様の一言で、またはっとさせられる。そうだ、すっかり忘れていた。自分の事ばかりに気をやって、肝心の嬢様について考えることを怠っていた。なんて失態だ。いや、これは失態なんて言葉では足りない。他の誰でもない、お嬢様に迷惑をかけてしまった。さーっと頭から血の気が失せる。先ほどまでフル回転していた血液運送会社のストライキだ。恐らく賃上げの要求に違いない。
「ふふ、冗談です。大丈夫ですよ。大ごとになる前に、どうせ母が揉み消しますから」
お嬢様はそう言うと、少し俯き加減で続けた。
「私ね、聞いたと思うけどクラスで委員長をしてるの。ううん、してるじゃない。させられてる。どうしてか分かる?それはね、母が金蔵寺やす子だから」
路地を出て、学園の傍まで戻ってきた。すぐそこのバス停には、お嬢様と同じ制服を着た女子生徒がずらりと並んでいる。部活帰りだろうか。自分の背中よりも大きなカバンを背負い、自分の手のひらよりも小さな携帯電話に目を落とす。いつもであれば立ち止まるべきバス停なのかもしれないが、今日はその隣を通り過ぎた。
「本当に連れて帰るんですか?そいつ」
「ええ、もちろん」頷いたお嬢様は、ウリエルのパーマをかけたような毛並の耳を優しく撫でた。
人懐っこい上に、首輪もついている事から飼い犬が逃げ出してきた可能性が高い。こんな激臭のする犬だって、もしかすると必死で探している飼い主がいるかもしれないと説得を試みたのだが、顔がやつれているだとか、あんな場所に置き去りにしたら保健所に連れていかれるかもしれないとか、お嬢様は何だかんだ理由をつけて連れて帰ると言って聞かない。こいつもこいつでお嬢様の腕の中がそんなに快適なのか、すっぽり収まって逃げ出す素振り一つ見せない。すっかりお嬢様に懐いてしまっている。相変わらず俺の方には威嚇してくるくせに、だ。あるいは動物的な感が働いているのかもしれない。そう考えると、急にこいつの顔がずる賢く見えてくるから不思議だ。
「ねえ、ユーリさん」
後ろを歩きながら声をかけたお嬢様が、何故かそこで言葉を切り、呆然としている。どうしたのかと足を止めると、「初めて名前で呼んだ気がする」と頬を桜色に染めた。そんな反応をされて、この俺が動揺しない訳がない。同じように、いやそれ以上に顔を真っ赤にする。
「な、何でしょうかお嬢様」
「それ」
お嬢様は俺の口を指さすと、興奮した調子で続ける。
「それよ。まずその呼び方をやめて頂戴。今からは『空』と呼んで」
「え?」言葉の意味を理解しかねた俺は素っ頓狂な声を上げた。「え?え?どういう事ですか?」
「その敬語もやめて欲しいんだけど」
「無理です、無理です。不可能ですよ」
俺は首がとれるんじゃないかってくらいに、ぶんぶんと横に振った。
「むむむ・・・、そうね。分かったわ。正直これはしたくなかったんだけど・・・・・・。金蔵寺家の者として命令します。母がいない場所では敬語はなし。それと呼び方は『空』で」
「ええ!?」
「さあ、ためしに呼んでみて」
そう言うと、お嬢様は立ち止まった俺の元に大股で詰め寄る。その顔は、ぶつかり稽古で後輩に胸を貸す年上力士のようなたくましさを帯びていた。
希お嬢様が屋敷を離れて、せっかく空お嬢様の事を『お嬢様』と呼べるようになったのに。女の子を、それも好意を抱く相手に対して、下の名前で呼ぶ事の難易度の高さが分かるだろうか。赤面を押し隠し、声が上ずらないか、その都度心配になる。ジョーならきっと、「知るか」とあの仏頂面で言うだろう。ケイですら今回ばかりは、「やっぱりユーリって変わってる」と同意を得られぬまま笑いものにされるに違いない。
なおもお嬢様は何かを待つような顔で、こちらを見ている。すごいプレッシャーだ。追い込まれた俺は、口を半分だけ開け、掠れた声で言う。
「空・・・・・・さん」
「・・・・・・んーーー、まあいいでしょう。ギリギリ合格です」お嬢様は顎にシワを寄せながら頷く。「私もこれからはユーリさんと呼びますね。敬語の方は、お互いおいおい直していきましょう」
「はぁ」
「そうと決まれば、こちらも決定という事で」
上機嫌で、ウリエルの頭を撫でるお嬢様。また俺の知らぬ間に、何かが決定してしまった。今度は一体何が決まってしまったのか、気が気ではない。びくびくしながら訊ねる。「何が、ですか・・・?」
「これで私たちは、金蔵寺家とその従者という関係ではなく、正真正銘のお友達になれましたね」
賃上げを要求していた血液運送会社のストライキは、どうやら平和的解決を迎えたらしい。
屋敷が近づいて、使い慣れた道に出た。青が独特な色合いの信号機、見通しの悪い十字路。それらを通り過ぎた辺りで、お嬢様が口を開く。
「学校の迎えの件。実は母に猛反対されていたんです」
「そうでしたか」予想通りであったが、俺はそう相槌を打った。
「でも、私が何を言われても諦めないから、母が一つ条件を出したんです。それがユーリさんをボディガードにつける事でした」
いつの間にか隣に並んだお嬢様は、微笑みながら続ける。「意外でしょう?」
「いえ、そんな」口ではそう言いながら、頭の中では馬鹿なと吐き捨てる。冗談にしても笑えないし、もしもこれがお嬢様をダシに使った忠誠心を探るテストだとしたら、そっちの方がしっくりきそうだ。
「母はユーリさんの事をずいぶんと信頼しているのかもしれません」
俺は愛想笑いを浮かべた。お嬢様の予想は全く的外れなもの。三日に一度の、あの苦虫を噛み潰したような顔を見ていないからこそ、そんな希望的観測ができるのだ。あの顔が演技だとすれば、金蔵寺は大女優になる素質を持っている。社長、政治家、そして女優。神は二物どころか、それ以上を与え、俺はその神の顔に唾を吐きかけるだろう。
ようやく辿り着いた屋敷の門を潜ると、玄関前に早朝と同じ光景が広がっていた。黒のハイヤー。運転席にはアキラさん。お嬢様を俺の背中に隠し、何があったのかと様子を窺っていると、ちょうど玄関からジョーとケイ、二人のMCが姿を現した。
俺はケイに駆け寄り、話しかける。
「何かあったのか?」
「あ、おかえり。僕たちもよく分からないんだ。けど、どうやらお嬢様をお迎えにきたみたい」
「なに?」
眉をひそめる俺。事前の予定にはない事態だ。つまりはアクシデント。こういう小さなずれが、最終的に大きな事故に繋がったりするのはままある事だ。万事は小事によって崩れる。警戒は厳に、懸念は零に。
お嬢様は、運転席から出てきたアキラさんと何やら話していた。深刻な顔で一言、二言会話を交わすと、近寄ってきて抱いていたウリエルを預けた。
俺はちらりとアキラさんの方を見る。偶然かもしれないが、すっと目線を反らし、そのままお嬢様共々車に乗り込んでしまった。
走り去る車の排気音を聞きながら、言う。
「予定にはなかっただろ。行かせていいのか?」
「仕方がない。奥様の確認も取れている」ジョーは頭を下げたまま、横で同じポーズをとる俺の問いに答えた。
車が角を曲がったのを確認してから顔を上げたケイが、俺の足元で伏せる犬を見ながら訊ねる。
「こいつ、何?どうしたの?買ったの?」
「いや、買ってない。でも話すと長くなる」
「じゃ、いいや。うわ、くっさ。あはははは。こいつ、昔の音楽家みたいな頭してるくせに、眉毛が麻呂みたいだね」
「マロって何だよ」
「知らない?昔の日本の貴族だよ。ほら、頭にサニタリーボックス乗せて、顔面真っ白にしてサッカーやってるさ」
すると余程俺の傍が嫌なのか、ウリエルは足元を離れ、出会ったばかりのケイの方へ移動してしまった。どうやらこの犬畜生は、俺に蟻の眉間ほどの恩義も感じていないらしい。気に食わないが、まあ正直清々した。お嬢様の命じゃなければ、お前なんてパンに挟んで食ってるところだぞ。それよりも今はこの胸騒ぎだ。何かが狂い始めている、その音がする。
「悪い、後頼む」
「え、頼む?って、おーい。もう外出禁止の時間だよー、・・・行っちゃった」
ケイの声は、虚しくも住宅街に吸い込まれ、マフラーに手を加えられたバイクのエンジン音に掻き消された。
コロナ公園。住宅街の外れにある大きな公園の名だ。由来はとある映画に出てくる宮殿から。そこで新聞記者の主人公とヒロインが再会する印象的なシーンがある。
当初は住宅街に住む金持ち達の憩いの場として作られたのだが、実際の所はそうはならず、会社帰りのビジネスウーマンたちが専ら公園の中央にある池の周りをランニングして汗を流している。街灯が多く、治安のよい地域にあるため、そこそこ人気があったのだが、最近この公園で悍ましい殺人事件が起きた。犠牲者は体を鋭利な刃物で何度も何度も切りつけられていたらしい。そのせいで、園内は見る影もなくがらんとしている。公園の入り口、およびそこら中に植樹されたケヤキには、情報提供を求める張り紙や、人間の目玉がプリントされ、でかでかと『見ているぞ』の文字が入った防犯ポスターが張られていた。
池の端を抜けようとしたところで、声をかけられた。俺は思わず足を止めて、声のする方に目線を送る。ここを過ぎればすぐに地下鉄へつながる階段が見えてくるのに。しかしそうも言っていられない事態だ。声のする方、正確には薄暗い茂みの中から姿を現した男に、目を奪われてしまった。
「・・・誰だ、お前」
「誰だとは、ご挨拶だなあ。初対面で普通そんな口聞くかね?」
男は頭の後ろをぽりぽりと掻きながら、困ったような表情を見せる。
黒のジーンズに、グレーのTシャツ。胸のところに人間の顔らしきイラストが刺繍されている。頭には『WARRIORS』のロゴが入ったキャップ。猫背で、顎下に薄っすら髭を生やしたその男は、なおもじわりじわりと距離を詰めてきた。俺にはそれが地獄から這い出てくる悪魔みたいに見えた。知らず体中の筋肉が緊張し、両腕に鳥肌が立つのを感じる。
「普通?この状態がすでに普通じゃないだろ。ただでさえ男がいない世界で、自分に瓜二つの人間から呼び止められる。これのどこが普通なんだ?」
「あはははは、一理ある」男は実に愉快気に笑いながら、ダンスするみたいに靴底を鳴らす。
「そこで止まれ。一体お前は誰だ。まさかタイムマシーンで未来から来た俺の息子なんて言わないだろうな」
「それ、いいね。実にドラマチックだよ。時を超えた親子の再会。悪くない。じゃあ最初からやりなおそうか?」
ぴたりと足を止めた男は、今しがた出てきたばかりの暗闇を指さしながら言った。言葉の内容、トーン、表情、すべてが軽々しく軽薄で、まさにペテン師そのもの。だがしかし、ペテン師であれば当然抱えているある物が見当たらない。何故か俺には、それが正確に感じ取る事ができる能力がある。そのあるべき物とは、悪意だ。そしてそれに繋がる糸。
どれだけ巧妙でよくできた話であろうと、ペテン師の言葉、行動には必ず糸が繋がっている。詐欺師がよく使う、本題に入る前に世間話や笑い話を挟んで、相手の緊張を解こうとする行為。これは、相手に自分は危険人物ではないと信じ込ませようとする意図に繋がっている。証券詐欺を働くにあたって、無差別に電話をかけた先に、メッセージのない留守電を残す行為。人間と言うのは、相手から持ち出された話には慎重になっても、自分の意志の元で進めた話となると途端にその慎重さを失ってしまう。例えそれが、折り返しの電話だったとしても、だ。
しかし、この男の言葉の節々には、その糸が見当たらなかった。それが本当に存在しないのか、ただ見えていないだけなのか分からないが、むしろすべて本音で語っているような、会話自体を楽しんでいるような様子さえ見受けられる。
「悪いがそんな暇はない。俺は急いでいるんだ」そう言って、重心を下げる。軸足に力を籠め、いつでも飛び出せる準備をした。
「おっと、待った」男は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、両手を挙げた。「戦う気はないよ」
「じゃあ、質問に正直に答えろ。だから誰なんだ、お前は」
「俺は俺だよ。俺は俺で、君じゃない」
返ってきた要領を得ない答えに苛立つ俺。ついには、上げた両手の角度をずらし、外国のサイレント映画でいうところの、『お手上げ』ポーズをとる男。その男が、何の気なしに『見ているぞ』のポスターが張ってあるケヤキに目を移した。その横顔に向けて、言う。「さっさと白状しろ。見ているだけで、助けてはくれないぞ」
「実は俺も君を見ていたんだ」
男の口角がぐいと上がった。上がりすぎて、そのまま裂けるんじゃないかと思ったくらいだ。まるでピエロ。ドジや失敗を繰り返し、子供たちに笑われるためのメイクが、半分だけこちらを見ている。先ほどまでとずいぶん印象が変わった。悪魔みたいな漠然とした恐怖ではなく、もっと身近な。暗がりで急に後ろから肩を叩かれたような逼迫した恐怖が目の前に横たわっている。
「デパートでは、女性相手に大立ち回りだったね」
「なっ、・・・どうしてそれを」
「君は俺の事を知らないけど、俺は君の事をよく知ってる。君が秘密を抱えていることもね。実は最近、ずっと君の事を追っていたんだ」
その言葉を聞いて、俺は考えるよりも先に飛び出していた。急遽増設された暗視カメラの位置なんか気にしていられない。こいつは危険だ。危険は、排除-・--・---・----。
気づいた時には、俺のこめかみには銃が突きつけられていた。黒光りするそれを、男はまるで自分の手の延長であるかのように扱う。すでに引き金は引かれている。あとはその人差し指が、脳の信号に合わせて少し動くだけで、俺は確実に命を落とす。
「戦う気はないんだ。戦う気はね」
「くそっ・・・・・」
「悪いけど、それ以上するなら戦う暇もなく君には死んでもらうよ」
男は俺に後ろを向かせると、ケヤキの傍まで連れていき、手をつかせた。
「ますます気に入ったよ。だから良い事を教えてあげる。君が行こうとしている場所には、もう何もない。行くだけ無駄さ」
「お前・・・、どこまで」
「君が本当にいかなきゃいけない場所、教えてあげる」
男が告げたのは、何の偶然か夕刻にウリエルを拾った路地の傍だった。それすら知っているのか、物知り顔で頷く。
「そこに何があるんだ」
「それは教えてあげない。自分で見た方がいいよ」
背中越しに男の気配が遠ざかっていくのを感じる。
「君はきっと俺の事を疑うだろうけど、それは間違い。俺は何にもしてないよ」
「何だと?どういう意味だ!?」
「よかったらまた頼ってよ。そこに連絡先を置いて行くからさ」その声だけは、何故かすぐ耳元で聞こえた気がした。「僕らはいい仲間になれる」
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