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●○●
――翼が初めて空に届いた時の記憶。
私の声が初めて木々に響いた時の記憶。
それはいつの事だか分からないほど昔の、だけど確かな記憶。
その日は春だと言うのに雪が降っていた。
やさしい雪だった。
花が咲き、風に木々が揺れ、暖かな白い雪が舞っていた。
今日降る雪と記憶の中の雪は何も変わらないはずなのに。
どうしてこんなに冷たいのだろう。
帰りたかった。
記憶の中のあの風景に。
暖かな雪のある美しい風景に。
汚れた翼では空には二度と戻れない事は知っていた。
だからそこまでは望まない。
でもせめて――。
せめて桜の木の下で――
「――春雪―どうかアナタは幸せに――」
うたわせて欲しい
祈りの歌を
永遠に
死してなお
朽ちてなお
大切な誰かが幸せであるように――
●●●
――春に降るやさしい雪
凍えた心――
――それがアナタの名前です
流れる血液――
――アナタがこの世界に生きている事が
散る桜の花びら――
――私にとって
ボクは――
――かけがえの無い幸せです
○○○
「―ゆ――は―――雪――」
「……う……ん」
頬をペチペチと叩かれ目を覚ます。
眩しい。
今の今まで眠りの闇に慣れていた眼にとってコレは毒だ。眩しさのあまり、鈍い痛みすら感じる。
細めた視界には白い光が溢れていた。
白の中心に少しずつ、ゆっくりと、ぼやけていた映像に輪郭が取り戻されていく。
それは――
「……おはようウグイス」
視界いっぱいにあったもの。
それはウグイスの顔だ。
しかもボクの腕の中、互いの息がかかるほどの至近距離に、だ。
ウグイスはボクの胸に小さな頭を乗せ、上目遣いにボクを見上げている。
静かだった。
抱きしめたウグイスの規則的な息遣いだけが音として聞こえる。
あれだけ酷かった猛吹雪はウソのように止んでいた。
静寂という言葉はこの瞬間のためにあるのかもしれないと思った。
溢れる白い光。
その正体は、太陽の日差しと、それを照り返す雪。
桜の大樹の幹に背を預けたボクと、ボクに体を預けたウグイスを包む白の世界。
「春雪……悲しい夢でも見たの?」
普段より幾分かトーンを落としたウグイスの声。
ボクは彼女と目を合わせ、「どうして?」と聞き返した。
疑問に答えるよう、白磁のように小さな手が伸ばされた。指がボクの頬に触れて軌跡をなぞる。
「涙の跡があるわ」
苦笑気味に少しだけ微笑むボク。
「大丈夫だよウグイス。悲しい夢じゃなかったから」
右手でウグイスの細く柔らかい髪を梳く。
くすぐったそうにウグイスは目を細めた。
手櫛を続けながら、夢の続きを想う。
「思い出したんだ――」
それは独白。
「忘れてはいけなかった事――」
それは告白。
「とても大切な事――」
ずっと心の底に押し込んだまま、確かにあるのに、忘れていた言葉を、自分の口からもう一度自分に言い聞かせる。
髪を梳く手が止まった。
ウグイスの背に回していた左手を上げて、手首を見る。
「バカだな。刻む所が違うよ」
そこには一目見て致命傷であると分かる傷が刻まれていた。
「ボクは……本当にバカだ……」
「……春雪。泣いてるの?」
知らずウグイスを抱く腕に力がこもる。
「ごめんウグイス……十秒だけでいいから、ギュッてしていいかい?」
返事は無かった。
だけど、ボクを抱き返すウグイスの抱擁が肯定のサインだった。
ギュッとする。
もしかしたら震えが彼女に伝わったかもしれない。
構うものか。
後の数秒だけだ。
キッカリ十秒後、ボクはウグイスを抱擁から解放した。心なしかウグイスの顔が桜色に上気している。
「……心の音が聞こえたわ。命の音ね」
ボクの胸に耳をつけながらウグイスが言う。
どこか近くで、金属の重い音が聞こえた。
「やさしくて……暖かい音……」
ウグイスを繋いでいた鎖。
意味の無い鎖に無理やり意味を結びつけていたのはボク自身だった。
「アナタの名前のとおり……」
ウグイスがボクの胸に手を置いて立ち上がる。
足かせはもう解けていた。
彼女はもう自由だ。
今、ようやく解き放たれたのだ。
「お別れね春雪」
ウグイスが穏やかに笑う。
あの日、母が病の床で見せた笑顔。
去っていく者が残す笑顔だ。
だけどそれは――
だからこそ思いやりに満ちていて――
「――ウグイス。ボクは帰るよ」
あの家に帰ろう。
あの世界に還ろう。
悲しみは消せず、
傷が痕になって残る世界だけど――
だけど、傷は癒せるから――
痛みは紛らわすことが出来るから――
たまに傷痕を見て――
色んな事を想って
色んな事に迷って
道を間違えたりするかもしれないけど――
そんな世界で生きる事が――
そんな世界で見つけるものが――
――『幸せ』なんだって教えてくれた人がいるから――
だからボクはー―その世界で生きていく――
白い空が切れ、蒼く澄んだ空が覗いた。
光が差してくる。
「――さようなら春雪」
笑みを浮かべたウグイスが、幾つもの淡い燐光を纏いながら少しずつ空に溶けていく。
すでに輪郭を失いつつあるウグイスがボクの頬に両手を伸ばす。
ボクはその手にそっと触れた。
感触は無かったけれど、そこには確かにウグイスの小さな手がある。
分かったんだ。
彼女のぬくもりに触れたから。
「さよならウグイス」
ウグイスが空に翼を広げた。
彼女らしい、春に萌える若草や新芽の色をした、小さな翼だ。
消えていく。
無くなっていく。
ウグイスが。
少しずつ、少しずつ。
もしかしたらボクは泣いていたのかもしれない。
完全に消えてしまう寸前、ウグイスは膝を曲げて、座ったままのボクに顔の高さを合わせた。
その瞬間、ボクは間違いなく泣いていたと思う。
ウグイスの唇とボクの唇が僅かに重なった。
――ありがとう
◯●◯
白い花びら舞う桜並木。
その遊歩道を、仲の良さそうな少年と母親が手を繋いで歩いている。
緩やかな一陣の風が吹いた。
舞う花吹雪。
驚きに目を丸くする少年と、目を細めて髪を押さえる母親。
言葉に出来ない感動を、なんとか母に伝えようとし、少年は桜の木を見上げていた母親を呼んだ。
「お母さん!」
母親は「なあに?」と、膝を曲げて答える。
「お母さんは今、幸せ?」
少年の問いに、母親は間髪入れずに答える。
「もちろん、とても幸せよ」
母親の答えに満足した少年は、顔いっぱいに笑顔を広げた。
母親も笑う。
「ねえ、家まで競争しよっか?」
母親の提案に少年は大げさに頷くと、我先にと遊歩道のタイルを蹴って駆け出した。
遠ざかっていく小さな我が子の背中を見つめる母親は、本当に幸せそう。
彼女はほんの少しだけ目を瞑ると、ゆっくりと走り出した。
花びら舞う、桜並木の遊歩道。
あたたかい風の中で、
鶯が一羽、祈りの歌をうたっていた。
――END