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ステップを降りたボクの靴底が、水っぽい雪を踏んで音をたてた。
先に外に出ていたウグイスが、スカートの裾をひらひらと揺らしながら雪道を歩いている。小さな背中が右に左に小刻みに揺れ、まるで踊っているようだった。
ボクたちを降ろして無人となったバスが、重たいエンジン音と一緒に離れていく。
誰も載せていないあのバスは、これからどこへと向かっていくのだろうか。なんとなく気になった。そんな事を考えながら周囲の風景を一通り見回す。
見渡す限り山だ。周囲を山に囲まれた盆地にボクとウグイスはいる。
本当に田舎まで来てしまった。
膝丈くらいまで雪が積もっているせいもあるのだろう。やたらと静かで、この世にボクとウグイスの二人だけみたいだ。
ここが世界の果てならいいのに。
近づいてきたウグイスは不思議そうにボクを見上げる。
「ねえ春雪。ずっと思っていたのだけれど、アナタはどうしてそうキョロキョロと落ち着き無く周りを見るのかしら?」
ボクは少し笑いながら言った。
「ボクみたいな人間は周囲の環境に敏感なんだ。誰かがボクを見てると不安になる。なんせ他人に遠慮してばかりの人生だったからね。クセになっているのさ」
「弱いのね。春雪は」
ウグイスは目を細めた。
終着が近いせいか、些細な事でもよく笑うようになったウグイス。本当に嬉しそうだ。
「行きましょう春雪」
「うん」
ウグイスはボクの手を引き、雪に埋もれた登山道に向かって歩きはじめた。
まるで、子供に手を引かれる父親みたいだ。そんなことを考えた時、
「痛っ」
胸に痛みが走り、思わず立ち止まってしまう。
嫌な汗が出る。気分が悪かった。
体のどこかに、鈍い痛みを訴え続ける傷がある気がする。そんな錯覚。
ウグイスはボクの異変を感じたのか、引っ張る手を強くした。
「安心していいわ春雪。ここは私とアナタ以外誰もいない。いない人の目を気にしてはダメよ」
彼女の言うとおり、確かに人の気配は感じない。
だけど、と言おうとしたボクを、ウグイスの言葉が遮る。
「ここには、アナタと私がいるわ」
ただ、言い直しただけにも聞こえるそのセリフが、ボクを不思議と安堵させた。
「……そうだね。ウグイス。ボクとキミが、今ここにいるよね」
「アナタが私をここまで運んでくれたのよ。アナタが私の願いを聞いてくれたから、私はここにいるの」
ボクの抱えた白い小箱をウグイスは指差す。
ウグイスは微笑んだ。
「アナタがいないと私もいない。それが私の『弱さ』。少なくともアナタと同じかそれ以上に私は弱いわ」
ウグイスの声と暗い表情が記憶の片隅、何かと重なった。
どこか懐かしく、どこか寂しい。
確かに感じるけれど言葉にはならない。
いつかどこかで感じたことがあるはずなのに思い出すことが出来なかった。
「もう大丈夫だよウグイス。さあ、行こうか」
言いようの無いもどかしさを感じながらボクとウグイスは冬の山に入った。
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気がつけば母が他界してから数年の月日が流れていた。
その間にボクは何軒もの家を転々とした。
出会う大人たちは、みなボクにやさしくしてくれたけど、その気遣いが子供心に辛かった。みなが善意で接してくれているのは分かっていた。
大人たちのやさしさに応えようと、ボクは笑った。元気になった。
――みなさんありがとうございます。
――おかげさまでボクはとても幸せです。
……じゃあ、母と暮らしていた頃のボクは不幸だったのだろうか。
そうやって過ぎ去る日々の中、いつのまにか母の死も遠い記憶の一つになっていた。
時折、突発的に母の痩せた後姿を思い出して時の流れに愕然とする。
もしかしたら母の事は無意識の内に思い出さないようにしていたのかもしれない。
自立が認められる年齢になると、ボクは育ててくれた大人たちに礼を言って一人で暮らし始めた。
ようやく。これでようやく誰にもウソをつかないですむ。
契約したばかりのアパートに、小さな手荷物を下ろしたボクはようやく自由になれた気がした。
――錯覚だった。