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 ○○○




 ボクとウグイスはバスに揺られている。

 他に乗客はいない。

 通路を挟んで離れて座ったボクら二人。それと黙々と仕事をこなす幽霊みたいな運転手が全ての閉鎖的な世界。

 曇り窓の外、降り始めた雪と一緒に流れる白い風景は街を離れて次第に農村部へと移っていた。

 ウグイスは窓枠に肘をついて外を眺めている。

 ――と、

「ねえ春雪。アナタはどうしてあの街にいたの? 私も他人の事を言えないけれど、アナタのような人間のいる所じゃないでしょうに」

 代わり映えのしない風景に飽きたのか、ウグイスはこちらに向いてそう言った。

「旅の途中に立ち寄っただけだよ」

「旅? アナタは旅人だったの?」

「違うよ」

 たしかに旅はしているけれど、ボクは旅人じゃないと思う。そんなカッコいいものじゃない。どちらかと言えば行くあてもなく放浪しているというか、流されているというか。

「違うけれど、旅をしているんだボクは。下を向いて真っ直ぐ歩いていたら、あの街がたまたまあって、たまたまウグイスと出会った」

 理解しているのかしていないのか、ウグイスは「ふうん」と相づちをうった。

「じゃあ、いろんな場所に行ったのね」

「行ったよ。たくさんの場所を通ってきたと思う」

「あの街に着く前はどんな場所に行ったの?」

 考えてみる。

 自分が辿った旅の軌跡を思い返してみても、不思議なことにたしかにあるはずの『旅の思い出』をまったく掘り返せなかった。雪で凍った土のように硬い感触の気配がした。

「別にたいした所じゃなかったさ。どこもそう変わらないね」

 苦笑気味にはぐらかした。

 記憶が無いと言えば、彼女はどんな顔を見せるのだろう。

「本当に? つまらないわね」

 そう。

 ウグイスの言うとおりだ。

 つまらなくて退屈な旅路を続けてボクはここにいる。

 旅の記憶も景色も覚えていないのは当たり前だ。ボクはずっと自分のつま先だけを見つめてここまで来たのだから。

 ウグイスが足をブラつかせると、鎖が床に擦れる音がした。彼女の足は地面についていないのだ。

「アナタ、凄く寂しい目をしていたわ。まるで死んだ魚の目ね。『見ているけれど何も見えてはいない』。アナタはきっと風景――いいえ、雑踏すら見えてはいなかったのね」

 ウグイスの声の調子はいつもと変わらない。

「そんな人間が旅をして何を見つけるというのかしら」

 抑揚の無い、山場も見せ場も無い三文芝居のセリフのよう。

「随分と言ってくれるねウグイス」 

 だけど、ただ一つ分かった事があった。

 彼女もボクと同じ事をお互いの印象として持っていたという事だ。これでお互いの心の距離が縮まるかと言えばそうでもないのだろうけど。

「ボクは自分の部屋にいたくないから外に出ただけさ。ただの気まぐれだよ」

 ウグイスは小さく目尻を下げる。

 笑っているのだと分かった。

「ふふふ、まあアナタがそうだと言うのならそれでもいいわ。アナタの気まぐれのおかげで私はあの牢獄みたいな路地裏から出る事ができたんですもの」

 彼女は笑みの表情を崩さぬまま、スカートの裾を摘み左足を上げた。

 彼女の左足にはめられた枷、それから伸びる鎖は今ボクの右足の枷に繋がっている。

 心のどこかで古い痕が哭いていた。   




 ●●●



 ――母は物静かな人だった。

 父の顔は知らない。

 父が一体どんな人間だったのかも。

 母があえて父についてなにも語らないのは、何か語りたくない理由があるのだと子供心に思い、自分から聞いた事は無かった。

 今はそれを少し後悔している。

 どんな形であれ、聞いておくべきだったんだと今更ながらそう思う。

 母が仕事から帰って来るのは、いつも遅い時間だった。

 少しだけ開けた襖の間。

 居間から差す古い蛍光灯の光が、真っ暗な寝室に切れ込みを作る。

 いつもそこから見ていた。

 薄い布団の中で寝たふりをしながら。

 数センチの隙間から覗く母の横顔はいつも疲れていた。

 すっかり白髪が多くなったツヤの無い髪を後ろでまとめた母の後ろ姿。とても小さく弱弱しい。

 母の背中を見ているのが辛かった。

 家に帰ると母は真っ先に寝室の襖を開け、寝たふりしたボクの頭を撫でた。

 枯れ木みたいに節くれだって、青く血管が浮いた指先。冷たく冷えていて、体温を感じるのは難しかった。

 母の手を見るのは嫌だった。

 母を嫌っていたわけではない。

 むしろその逆だ。

 でも、だからこそなのだと思う。

 寒い部屋。

 薄い布団。

 同じ服。

 古い靴。

 冷たい食事。

 見た事の無い父の顔。

 母の苦労。

 自分が置かれた場所。

 自分の周りのすべて。

 何もかもが憎く思えた。



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