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 ○○○



 ボクは電車に乗っていた。

 ボックス席の窓際に頬杖をつき、流れていく灰色の風景を眺めている。

 眺めてはいるが、視界に入っている程度でほとんど注意をしていない。白い空と黒い雲と灰色の雪が延々続く景色なんて面白くもなんともないからだ。

 ボクの注意が向いているのは、もっぱら窓ガラスに映る向かいの座席だ。少女――ウグイスの姿を見ている。

 ゆっくりと流れる景色に二重に写っている少女。灰色に近いくすんだ白と濡れたような漆黒の二色で構成されたゴシックロリータドレスで小さな体を飾ったウグイスは、腕を組んで不機嫌そうな顔つきでうつむいている。

 この車両にはボクとウグイス以外、誰もいない。二人だけだ。

 ボクは窓の外を眺めたまま言った。

「ねえウグイス。隣に座ってもいいかい?」

「ダメよ春雪。アナタはそちらにいなきゃ」

 ウグイスはつれなく応える。

 窓に映る少女と目が合った。

「私は眠いわ」

「眠ってもいいよ。着いたら起こしてあげるから」

「眠れないの。知ってるくせに」

 唇を尖らせるウグイスはとても愛らしい。

 ボクは無言で膝の上に置かれた小さな白い箱を撫でた。

「春雪。アナタがどう思おうと、何を感じようと、ホントは私にとってどうでも良い事なの。ただ、私の気に触る事だけは止めてちょうだい」

 彼女はボクではなく、ボクが膝に置いた小箱に視線を向けて続ける。

「アナタは何も言わずに私の『体』を森まで運べばいいのよ」

 この小さな箱の中には彼女の『体』――つまりはウグイスの死体が収められている。



 ●●●




 道の向こうから悲しいことや、辛いことがやってくる。

 ボクは逃げ場所を探すけど、一本道で逃げ場はない。

 来た道を戻ろうかと、振り返ってみるけれど、そこにも何もない。逃げられる場所も、役に立ちそうな知識も道具も。

 仕方なくボクはため息をついて、道の端に寄るのだ。

 足を止めて悲しいことや辛いことが通り過ぎて行くのを待つ。

 目を合わせないように気をつけて。

 愛想笑いなんて浮かべちゃって。

 どうぞ通ってください。

 これ以上ひどい目に合わせないでください。

 そう訴えて。

 ただ悲しいこととか、辛いことが通り過ぎるのを待つ。

 そんなことが繰り返されるうちに、いつしかちょっとした物音にまでビクリとするようになった。本当に物音だったときもあったけれど、多くの場合は過敏になった神経が聞かせた幻。

 こうなってしまうと、もう道の真ん中なんて歩けない。

 道の端の端を。ほんの少しでも足を滑らせれば、落ちてしまうような隅っこを、コソコソと息を殺して歩くようになる。

 逃げ場も隠れ場所もない一本道を。

 ひっそりとこっそりと、歩くしか無いのだ。


 そんな自分が心底嫌になった。


 ある冬の日、ボクは街に着いた。

 大きな街だ。

 眩しくて、明るい街だった。

 光を掴み取ることが出来ないように、その街の明るさは重みが無くて軽かった。この眩しさの正体をボクは知らない。

 外側は光っていたけれど、内側は灰色で冷たい。そんな大きくて空っぽの街。

 雪がちらつく灰色の街の片隅で、ボクは彼女と出逢った。

 温度の無いコンクリートのビルの陰で一人佇む彼女。

 冷たい風の中で傘も無く雪に吹かれる姿はあまりに儚くて、神経質で無機質なこの街の風景から完全に浮いていた。

 しかし、道行く人々は皆自分の足元ばかりを見ていて誰も彼女の存在に気付かない。

 少女の虚ろな瞳は並ぶビルと目の前をただ通り過ぎていく人の群れを映していた。

 その横顔がどれほど寂しげだった事か。

 ボクは彼女を見て思った。

 ――ああ、このコはボクとおんなじだ、と。

 大勢の人がいるはずのこの街で、一人ぼっちのボクら二人。

 左の手首が疼いた。

 だからボクは彼女に声をかけた。

「こんな所でどうしたの?」

 彼女はボクに声を掛けられ、驚いたようだった。

 一瞬だけ目を丸くした彼女は、すぐに俯いて顔をそらしてしまった。

「……何も。どうすればいいか分からないから、何もせずにここにいただけよ」

 抑揚に乏しい静かな声だった。

 見れば、彼女の足には無骨で冷たい金属の鎖が結び付けられていた。

 鈍色の鎖の先が暗い路地の奥まで伸びている。鎖を追ってみると、ボクの膝丈ほどの杭がコンクリートに貫き刺さっていた。

 彼女は自嘲気味に言った。

「『縛られている』の。動けない。だけどお笑いよね」

 彼女が鎖を持ち上げる。街の雑踏と同じくらいに冷たい音がジャラリと鳴った。

「こんなんじゃ縛り付けた意味がないじゃない」

 彼女の言うとおりだ。

 確かに彼女の小さな足は鎖が巻かれていた。だけど、その鎖は杭に繋がれているわけではない。杭の根元、薄く積もった雪の上に横たわるだけ。

 繋がれていない鎖。

 まったくの無意味だ。

 彼女が望むのならば、すぐにでもここから離れる事が出来るはずだった。

 しかし何故そうしないのか。

 彼女は首を小さく振った。

 長く伸ばされた黒い髪がつられて動き、くっついていた雪がパラパラと落ちた。

「分からないわ。ここは嫌いだけど、ここを離れたくないのかもしれない」

 さっき彼女が言った『動けない』という意味が少しだけ分かった気がした。

 彼女が足をどける。

 ジャラリと一つ、引きずられた鎖の音。

 彼女の足元にあったもの。『それ』は、コンクリートとアスファルトで覆われたこの街にはあまりに不釣合いだった。

 そこに『いた』――いや、『ある』のは、小さな鶯の死骸。

 周囲の環境のせいだろうか。泥や排気ガスにまみれて羽は黒く汚れている。わずかに若草に近い緑色が覗いていなければ雀かなにかの小鳥――いや、ひどくすればゴミか何かと間違えたかもしれない。

 彼女は両の手を回して自分で自分を抱く。細く小さな体に力がこもり、指先が僅かに震えていた。

「ここは寒いわ。すごく寒い。それに誰も私を見てくれないの。ずっとここにいたのに」

 哀しげだった。

 ひどく寂しげな瞳に涙は無かった。

 彼女は泣かないのだろう。

 ただ、今日の空のように、表情が曇るだけ。

 こんな汚れた街に――こんな寒い冬に鶯がいるなんて。

 エゴばかりが集まり、虚像が謳い、他の生き物がキレイに死ぬ事も許さない街なのに。

「これが私の本当の『体』。ねえ? 私はここで『体』が完全に朽ちていくまでここにいなければいけないのかしら」

 彼女はボクを見上げて喋っていたけれど、その口調はボクに答えを求めたものではない。

 分かってはいたけれど、ボクは彼女に何か言わずにはいられなかった。

「そうだね。……キミはそれまで待っているかい?」

 彼女はまたも首を振った。

「それは嫌よ。ここじゃいけないの。不思議ね。何も分からないけれど、それだけはちゃんと分かるの。いえ『感じる』わ」

 それは祈りであり願いだった。

 鶯は春に飛ぶ。

 ここにいて良いはずが無い。

 それが彼女の願いなのか。

「できるのなら、生まれた場所で――消えてしまうなら思い出の桜の木の下で眠りたい。桜の花が咲けば、いくつ季節が巡っても、春が来たってすぐに分かるもの。――ねえ、アナタ。良かったら私を桜の木の下まで連れて行ってくれないかしら」


 意味の無い鎖が音を立てた。

 引きずり擦れて鳴ったのではなく。

 彼女がボクの手を取ろうと踏み出した一歩が。

 鎖に力強く稲妻のような亀裂を入れた。

 小さな、本当に小さな。だけど確かに鎖を砕くその音を。

 ボクは聞いたのだった。


 ボクは世界にいらない。

 世界はボクの真横を流れ、ボクはただ他人事にそれを見ている。

 それはボクが自分自身を置いた位置。

 どうしても進み続けなければならない道の隅の隅。

 ボクの定位置。

 それが死ぬまで旅を続けなければならないボクが自分を守るために自分に強いたルール。

 だから本来ならば、彼女と話すべきではなかった。彼女に手を差し出すべきではなかった。自分一人生きることすらままならない身の上のクセに。

 過ぎゆく人々のように、ただ自分の足元だけを見つめて、なにか理不尽な不幸が降りかからないように祈りながら一心不乱に歩き続けるべきだった。

 足を止めるべきではなかった。

 気に留めるべきではなかった。

 後悔はしている。

 …………でも。

 正直に言おう。

 あの時ボクは彼女を放っておく事が出来なかったんだ。分不相応にも。



 キレイな大通りにキレイに並んだお店から小さな白い箱を買った。

 彼女の棺に相応しいキレイな小箱だ。

 白い棺に鶯の死骸を丁寧に収める。

 彼女――当然だが名前がないようなので、ボクはウグイスと呼ぶ事にしたが――はボクの作業を黙って見つめていた。

 至極簡単な葬儀が済むと、ウグイスはボクに名前を聞いてきた。

 不思議な気がしたので、どうして? と問うと彼女は、

「いけないかしら? 知っておきたいのよ。私が最後に関係する人間の名前を」

 ボクは答えた。

「春雪。よろしくね。ウグイス」




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