蜘蛛
3年間付き合った彼女に振られた俺は雪の粉を頭に乗せて家に帰った。ただいまと言っても誰も何も言ってくれないのが少々寂しい。
鞄を放り投げると鈍い音がした。俺はベッドにそのまま倒れ込んでしばらくしてから、テーブルの上にあった飲みかけのジュースを掴んだ。年末の酷い冷気のせいでキンキンに冷えていたので、俺は一瞬顔をしかめてからコップを放した。外は既に薄暗くなっていて、クリスマスツリーの電灯が灯り、橙色の柔らかい光が不釣り合いに俺の部屋に差し込んで来た。
テレビをつけると、最近の国際情勢について眼鏡を掛けた白髪の老人が熱弁を披露していた。うんざりしたので、チャンネルを変えてから漫画を読もうと本棚を眺めた。が、読む気も早々に失せてしまったので、俺は何をしようか立ったまま思案した。ふと、本棚の隣のまた小さな本棚の上に乗っている、質素な額縁に収められた写真が目に入り、手に取って呆然とそれを眺めた。
俺の隣には綺麗な女の人が、笑顔でピースサインを作ってカメラのほうに視線を送っている。俺の方はというと、少しはにかんで顔に角度を付けて、頬をやや紅潮させている。
俺の人生で初めての彼女は、今日の午後3時頃に、俺を大学のキャンパスの一角に寂しく生えている老木の下に呼んで、別れの言葉を告げた。
あなたとはもう付き合えない。
先ほど告げられた言葉が頭の中で反芻した。その時の俺はどんな表情をしていたかは分からない。分かりたくもない。ただ帰り道を魂の抜けたように歩いて、電柱に何度もぶつかりながらここに来たのは、額に感じる痛みが証明している。
覚えず涙が溢れてきた。
俺はてっきりこの時間が永遠に続くのかと思っていた。頭の中で、死に際を彼女が看取ってくれるところまで想像していた。彼女はそれでも俺からものの3年で離れていった。浮かれていたのは俺だけだった。更に追い打ちをかけたのは、俺を厳しくフッた後に彼女が駆けていったところに男がいたというところだった。純朴な俺でもすぐさま何が起こっているのか想像がついた。彼女に腕に抱きつかれた男の、哀れむように蔑むようにこちらに送ってきた視線が、目に焼きついて離れない。
写真を勢いよく床に叩きつけ、ベッドに仰向けに寝転んだ。涙はすでに乾いていた。生きる活力も見いだせないまま刻刻と時間ばかりが過ぎていった。
どれくらい経ったのだろうか、ふと気がつくと天井に1匹の蜘蛛が張り付いているのが見えた。
胴体は黄色く黒の横線が入って虎のような縞模様を浮かび上がらせている。8本の脚は見事なまでにしゅっと伸び、その引き締まった身体を支え、妲己もかばかりかと思うばかりだった。美しい蜘蛛だった。
それを見た俺の脳裏に不思議な女性が浮かび上がって来た。女性は白いノースリーブのワイシャツで上半身を包み、小綺麗なホットパンツを履いていた。ワイシャツからは形のよく、色の白い、長い手が伸び、その先に付く5本の指は見るものを幻惑する。脚は細く、長く、柔らかい印象を与えながらも、妖しさを漂わせ、思わずそれに踏みにじられている自分を想起していた。
女性は茶色い肘掛椅子に座り、左肘で頬杖をつき、右脚を左脚の上に乗せて魅惑的に組んでいる。真っ黒で艶やかな髪は肩のあたりで切りそろえられ、情熱的に真っ赤な唇の左端には色欲そそる黒子が宿り、長い睫毛に縁取られた切れ長の目はまるで蔑むようにこちらを捉えている。
俺が彼女の近くに寄ると、絃のような指が俺の頬を触り、撫で、やがて口の中に入ってきた。恍惚としてそれを舌の上に転がして味わうことしばらくして、彼女の手は俺の頭の上に乗せられた。俺は無抵抗に這いつくばった。そうして彼女の脚を舐めるように見て、雪のように白くしなやかで、しかも邪悪を一切感じさせない太ももを撫でて頬ずりをし、ふくらはぎをゆっくりと指で弄びその小さな足を両手で丁重に、包み込むように俺の顔の高さまで持ち上げた。ほとんど重さを感じなかった。俺は躊躇なく彼女の足の親指の腹を舐め上げた。最早エクスタシーに達していた。舌の上のみならず、側面、裏側をも使って舐め尽くし、彼女の味を身体に覚えさせた。その後彼女の5本の足の指を1本1本丁寧にしゃぶり、ゆっくりとその足から手を話した。彼女の目を見た俺はうっとりとしながら、5体をうつ伏せに投げ出した。自分で着ていた服を脱いで、上半身裸になると、背中に、柔らかい感触を覚えた。それは徐々に強くなってゆき、初めは腰の近くを、やがて頭の付近まで来て、とうとう俺の頭は幸福に蹂躙された。
床を舐めなさい、と言われた。俺は床を舐めた。よろしい、と彼女の満足げな声が上から聞こえてきて、嬉しくなった。俺はそれから身体をまんべんなく脚で弄ばれながら、全てを彼女に委ねていった。……
目が覚めると朝になっていた。眠い目をこすって時計を見ると、10時を既に回っていた。
俺は幸福だった。最早昨日のことなど露ほども覚えていなかった。