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茜色の憧憬

作者: 咲村雛乃

 今日も賑わう街の中。時計台が示す時刻を見て、そろそろ部活も終わる頃だろうなどと考えながらゲームセンターへと向かう。人混みは俺の苛々をつのらせるばかりで、それを振り切るかのように歩を進める速度を上げた。

「あ、おい! 隼!」

 一瞬反応して硬直した身体。その隙を逃すまいと腕を掴まれる。その声の方向に振り返ることも顔を上げることもできないまま、仕方なく耳を傾けた。

「隼、お前、陸上やめるって本当なのかよ」

「……だったらなんだよ」

「確かに今はタイムが伸びてねえけど、お前は走るの速いんだから諦めずにやってみろよ」

 その言葉はもう何度も聞かされていた。いわゆるスランプというものに陥ってから、部活には全く顔を出さずに街で遊ぶようになったことで幾度か繰り返された説得。しかしそのどれも俺の心に響くことはなかった。

「俺が陸上続けるか続けないかなんて、俺の自由だろ。お前に指図される筋合ねえんだよ」

「なんだよその言い方。俺はお前のことを心配して……」

「それが迷惑だっつってんだろ。ほっとけよ」

 力任せに腕を振りほどく。駆け出しても、もう引き止められることはなかった。


 友人から逃げるように、ただひたすら歩く。あれこれと考えを巡らせていたせいで注意力が散漫していたのか、体に感じた衝撃で我に返った。

「あ、すみません!」

 すぐに人にぶつかったのだと理解し頭を下げ、目の前に倒れている少女に気付いた。

「大丈夫ですか!」

「あ、あはは……。大丈夫ですよ、こちらこそすみません」

 慌てて手を差し伸べると、少女は恥ずかしそうに笑いながらその手を取って立ち上がった。どうやら少女の荷物も周りに散らばってしまったようだ。散乱したノート類を拾おうとした時、その雑誌が目に入った。

「もしかして、あなたも陸上競技お好きなんですか?」

 思わずそれを凝視してしまっていたら、少女にそう声を掛けられた。全く気にならないというわけではなかったが「そんなことないですよ」と雑誌と荷物を少女に押しつけ顔を背ける。

「……それでは、これで」

 不思議そうにしている少女の視線から逃げるように歩き出す。後ろから少女が自分を呼び止める声が聞こえたが、構わず歩き続けて振り切る、つもりであった。たくさんの人が歩く音が響くなかに、その聞き慣れない足音が聞こえてくるまでは。

 振り返った先にいた足を引きずるようにして歩いている少女は、紛れもなくついさっき自分とぶつかった少女。考えてはいけないのかもしれないと思ったが、その歩き方から察するに少女は走ることなど到底できないのだろう。絶句しながらその足を見つめている間に追いついた少女は、それでも笑顔を浮かべていた。

「す、すみません。見つめてしまって……」

「いえ、いいんですよ。珍しいですよね、こんな風に歩いてる人間って」

 興味本位で見つめてしまった自分を責められているのかと思ったが、少女は屈託のない笑顔を浮かべている。どう反応すればいいのかわからずほとほと困り果てていると、少女は言った。

「いいんですよ、ほんとに。私は、見ないフリをされる方が嫌なんですから」

 触れてはいけないと思っていた部分だったが、彼女は気にはしないようだ。そう感じたら疑問はすんなり口に出ていた。

「その足は、その、走れるんですか」

「走れないですよ。歩くのも結構大変なくらいなんで」

 彼女は傷付いた様子もなくそう言ってのける。そのおかげか、俺も罪悪感を感じることはなかった。


 人ごみで歩くのは大変だろうと、特に急ぎの用もなかったので人通りの少ない通りまで少女を送ることにした。不自由な片足は全く動かないというわけではないが、関節が上手く曲がらないせいで歩きづらいらしい。それでも彼女は弱音を吐くことはなかった。

「歩くの、大変なんですよね。それなのに、どうして歩こうとするんですか?」

 もしも自分が彼女と同じ状況に置かれたら、きっと歩こうという気持ちにはなれない。少女はその問いに、慣れた様子で口を開いた。

「それは、歩きたいからですよ。いつか、また走りもしたいんです」

「無理だと思ったりとか、卑屈になったりだとか、しないんですか」

「無理かどうかは、わからないですよ。私は普通には歩けなくなっちゃったけど、それって普通じゃないからむしろ『特別』だってことですもん。人とは違うリズムを刻んで歩けちゃう私なら、走れる気もしてきません?」

 悪戯っぽく笑う彼女は、足が不自由なことに少しも引け目を感じていないのだろう。それに比べて俺はまだ走ることができるのに、無理だと決め付けて諦めている。

「実は、俺、陸上部なんですよ」

 気付いたら、そう自分語りを始めていた。どうしようもないこの気持ちを、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。少女は不思議そうな顔を一瞬見せただけで、俺の話に耳を傾けてくれた。

「走るのも、そこそこ速い方で。大会にも出してもらえたりしてたんですよ。けど、スランプになってから、このまま陸上続ける意味ってあるのかな、って思っちゃったんです」

 このまま陸上を続けても、自分が将来走ることを職業にできる日は来ない。それなら、何故今陸上をする意味があるのだろうか。

「すみません、きつい言い方になってしまうかもしれませんけど、それってただ逃げてるだけじゃないですか?」

 どんな説得の言葉も届くことはなかったのに、それだけは深く心に突き刺さった。

「私も、大怪我してこんな風になってからいろんな人に言われたんです。もう走る必要なんてないよ、走らなくてもいいんだよって。でも、私は走りたかった。皆が走ることに意味はないって言ったって、私にとっては走ることが大きな意味を持ってるんです。あなたの場合も同じです。陸上そのものが意味を持ってるんじゃない、あなた自身がその意味を見つけるんですよ。あなただって、意味を見つけて走ってるはずです」

「……あなたにとって、その、走ることはどんな意味を持ってるんですか?」

「私が、生きてるって思える瞬間なんです」

 彼女は笑う。何故だか、俺も走りたくなった。

「走ってきたら、俺も意味を見出せますかね?」

「ちょっと走ってきたらどうですか? 私もすぐに追いつきますんで」

 答える代わりに一歩足を踏み出す。全力で地を蹴る感覚は久々だったからかとても心地が良かった。


「どうでしたか?」

 いつの間にか追いついていた彼女に問われて我に返る。彼女はなんだか楽しそうに笑みを浮かべていた。

「やっぱ、走るのって気持ちいいなって」

「あはは。私たち、気が合いそうですね」

 今から何年後かに俺は、この走っている時間を笑う日が来るのかもしれない。けれどそれを無意味だったと嘆く日は絶対に来ないだろうと、何故だか確信が持てた。

「走れるところまで、走りたいなあ」

 思わず呟いた言葉に彼女は微笑む。

「気が済むまでどこまでも、走って行ったらいいですよ」

 滲んだ夕日と彼女の笑顔。そして不規則で軽やかなステップが、目に焼き付いて離れない。

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