6
――今さら過ぎて言えないけど……私、野球のルール分からないんだよね。
という事実を感じながら、大声を出して走る先輩を見つめた。びゅっと腕が伸びて、その指先からボールが離れる瞬間。投げる時の先輩の眼差し。それが好きで見つめてるけれど、詳しいルールの分からない私。
とりあえず、投げて打って走って一周すれば良かった……んだよね?
なんて首を傾げつつも楽しんでいたら、ポンと肩を叩かれた。衝撃を感じた左側を振り仰ぐと、当たり前だけれど私の知らない人が立っている。だって、先輩はグランドを走っているし、ここには先輩以外私の知る人はいない。
誰? という気持ちを込めた瞳で見つめると「友香ちゃん、だよね?」って親しげに名前を呼ばれた。
「あ、……はい」
多分だけど、優しそうな人だと思う。直感だけど。
戸惑いつつも、先輩の知り合いに違いないと思い、ぺこりと頭を下げた。そのままあれこれと尋ねられて、話し上手な目の前の人に釣られて他愛もない話をしていると、目の前の尚人先輩のお友達? は不意に私の荷物を指差した。
「それ。何が入ってるの?」
「これは……」
どうやら、ここまでの大荷物を持っているのは私だけのようで、かばんがやけに目立っていた。タオルは渡したけれど、まだ飲み物と、それから……
「まさか、お弁当とか言わないよね?」
「え、と。その……」
ドンピシャな回答をズバリと言われて、恥ずかしくなって少し俯く。初めて会う人に、彼氏でもない先輩にお弁当を作ってきた私。それってどう映るんだろう? なんて、指摘されて動揺してきた。
だけど、その人は私のそんな行動などお構いなしに、私にぐっさり刺さる一言をお見舞いしてくれた。
「友香ちゃん、マジ? 今日はこの後、いつも通りに先輩ん家で集まるけど。飯屋だから、そこで昼ごはんが定番だからさ……」
*
試合に夢中になっていてすっかり忘れていた葛西を、試合の中盤になって気がついてスタンドを見上げた。
――はぁ? なんであいつが?
なぜか友達の進藤が、葛西の隣にいる。進藤は先日学校で足を打撲したとかで、今は無理したくないからと今回の試合は辞退している。観戦だけと言って来たけど……なんで葛西の横?
なんとなくイラッとしてすぐに上がろうかと思ったけれど、そのタイミングで後輩に呼び止められた。呼び止められたはいいけど、俺じゃなくてもいいだろその質問、みたいなことで余計にイライラが増す。いつも苛立ちが表に出ないようにと気を付けているのに、どうやらイライラしてるのが表に出ていたようで慌てて後輩が離れて行った。
――ったく、葛西のせいでなんで俺が。
イライラする自分にも、させる葛西にもムカついて堪らない。気にしているのが露わになるのも癪で、わざとらしくゆっくり大股で歩いて近づいた。近づくにつれて聞こえる微かな笑い声と、進藤が呼ぶ『友香ちゃん』という言葉。いや、別にあいつの名前だから呼べばいいと思う。けど、何を易々とあいつは名前を呼ばせてるわけ? なんて思ってしまう自分もいて、それも違うだろう俺、なんて突っ込んでしまう。
そんな俺の心中を余所に、耳に飛び込んできた話のせいで慌てて走ることになった。
「じゃあ、捨てます」
「いや、友香ちゃん。何も捨てなくてもいいじゃん。あ……じゃあ俺食ってやろうか?」
「え……?」
「捨てるのは勿体ないしさ。俺、育ち盛りだからそれぐらい食べてもまだ食べれるから」
「でも」
「いいよ。折角作ったのに」
そう言って、葛西の持つ何かに手を出した進藤。俺は何となく深くは意味を理解しないままに、ものすごい勢いで走って差し出そうとする葛西の手と『何か』を掴んだ。そして、そのまま勢いで怒鳴った。
「勝手に俺の渡してんじゃねーよ、友香!」
*
――と、友香!?
尚人先輩であろうその人から、私の名前が呼び捨てされてお弁当を持ったままの手を横から掴まれた。突然の出来事に、いつもの1.5倍は目をかっぴらいて先輩を見上げる。けど、先輩の視線はなぜか私ではなくて、目の前の先輩の友達……?
「どうしたんだ? 西村」
「いや、別に」
「別にって。くくっ、お前慌てて走ってきた感じじゃね?」
「そうか?」
『ははっ』と嘘っぽい妙な笑いを、二人であげている。なんだか空気が重たい、ような気がするような?
なんて思いつつ、先輩をチラリと見るとそのタイミングで先輩の友達らしい人から指摘が入った。
「つーか西村さ。手ぇ離してあげたら? お前力入れ過ぎで痛そう」
その言葉に、私と先輩と同時に掴まれた手首を見つめた。見ると、確かに力が込められすぎて痛々しい感じの私の手首が目に映った。突然起きたアレコレに、私はそこの神経の感覚が失われていたようだ。
少し白くなった手を見つめてそんなことを思っていたら、バッと勢いよく離される。なんか、それはちょっと悲しい気もするけれど。
――ていうか、なんで腕を先輩に掴まれたんだっけ?
今さらながらな疑問が浮かびつつ、手に握ったままの袋を掴む手にギュッと力を込めた。何がなんだかよく分からないけれど……なぜか先輩と友達は、睨み合ってるような笑顔? を浮かべている。でもどうして二人がそんな状況なのかは、さっぱり分からない。
そんなことよりも――『友香』って。先輩が私を呼んだ声が、場違いとは思うけれど耳奥でこだましている。葛西って呼んでくれるのも、それだけで嬉しいけど。やっぱり友香って呼ばれるのは特別だ。
それが他のことなんてどうでもよくなるくらいに、嬉しい。
きゃーって叫びたい気持ちをとりあえずは抑え込んで、私はにやける顔を自分なりに押し隠して見つめあった二人を交互に見た。
「葛西、帰るぞ」
「へ……?」
「もう、終わるから。荷物まとめとけ」
先輩は不意に友達から視線を外すと、私には目もくれずにそう告げて、そそくさと階段へと向かって歩いて行ってしまった。
*
「あれ? 西村ってさ。友香ちゃんのこと、友香って呼んでなかったっけ?」
ついてこなくてもいいのに、俺の後を追いかけて後ろから話しかけてくる進藤。
――チッ、うっとうしいなぁ。
「なぁなぁ。友香ちゃんってお前の何?」
「うっせ」
答える気なし、という意味を込めてただそう返事をすると、後ろからくすくす笑い出す進藤。俺のことをよく分かってる奴だけに、俺がこれ以上言うつもりがないのもお見通しで、その上で笑ってやがるからたちが悪い。
「つーかさ。西村この後どうすんの?」
「……帰る」
「マジで?」
「っせーな。葛西いるし、俺いなくたっていいだろ」
進藤の言いたいことは分かってる。いつも先輩んちで集まってみんなで反省会と称した昼飯と、そのあとのバカ騒ぎ。多少派目外して酒ぐらいはちょこっと出たり。面倒くさいと言いながら、なんだかんだでみんなこの後のことは楽しみにしているのは、当然俺も同じくだ。空気壊したくないという意思も働いてか、余程のことがない限り誰も辞退しない。ましてや今日は……
「やっぱ、負けたか」
逆転敵わず、負けてしまった。先輩同士の「どっちがいい後輩を育てられたか」とかいう、今さらだろうバカげたメンツをかけての戦いに。
「まずいだろ、今日は」
後ろで未だにニヤニヤした進藤が、俺の肩にポンと手を置いてそういう。けれどその本心は、全くそうは思っていないと伺える。それよりも、俺が空気を壊すこと承知でブッチしようとしてることの方が、楽しくて仕方がないって声音で推測できる。それがさっきのことと相まって俺をイライラさせた。
「っせーな。いいんだよ」
バシッと肩に乗る手を払いのけてそう言うと
「ハートマークのメールの子。あの子だろ? お前さー、認めとけば? そろそろ」
「は?」
「いい子は放っておくと、持ってかれるぞって。じゃ、まぁ頑張れ」
「お、おい!」
進藤は俺の背中を思い切り叩いて、そのまま手をひらひらと振って走って行ってしまった。
――頑張れって、なんだよ。
*