4-5
湿った匂いが辺り一面から漂い、顔には汗がにじんでいた。
「あ、暑いですわ―!」
真っ先に声をあげたのは変人お嬢様だった。
そりゃそうでしょ。前の赤よりは幾分ましかもしれないが、それでも決して薄いとは言えないドレス生地の中は、蒸れに蒸れまくっているだろう。
6月も半ばのこの季節に湿気の高い湖畔である。しかもそこは別荘が立ち並ぶような場所ではなく、化け物が好みそうな湿地帯と化している。
「昔もここら辺は別荘とか建っていたのよ。ほら、あそこにもあるでしょ」
高湿度のせいか、グラスが曇るからという理由でメガネを外しているレリュートが、湖とは反対方向の斜面に建つ建物を指差す。
「といってもあれ廃墟って言ったほうがいいんじゃないか? いかにも出そうな感じだけど」
「暑くて、汗があふれ出てきますわ」
数100mほど離れたところにある屋敷は、遠目から見ても腐敗しているのが感じ取れ、木は湿り気で真っ黒に染まっている。よく見ると窓ガラス所々割れているようだ。
「手入れしてないからしかたないでしょうね。それに出るって言葉もある意味正解かも。ここら辺の魔物が住みついていそうだし」
「こんな不快な場所を好む魔物とは何なのですか?」
「となると、新しく引っ越してきた奴もあそこにいる可能性もあるのか?」
「もっときれいな湖でしたら、汗を流すのにぴったりでしたのに」
「ないでしょうね。廃墟と化したとはいえ、雨風塞ぐだけしか長所がないところにわざわざ……」
「あー! 暑いですわー!」
「ええーい! 黙れあんたはー!」
あ~あ、作戦名 アンジェ無視して生息域調査作戦 失敗。
2次試験の結果は適当に落ちたという結論にして、生息域調査だけ済ませて帰ろうと思ったがそうもいかなかったか。珍獣の取り扱いはそう簡単じゃないか。
レリュートがへんに手を出してしまったせいで、今更「湿気で耳が聞こえづらかった」などと言い訳もできず、この作戦はもはや通用しないものとなった。
俺は未だに腹を立てているレリュートに近づき耳打ちする。
「おい、どうするんだよ? 他の作戦行くか?」
「よし、ハルト殺れ」
「そんな作戦はなかったはずだぞ!」
レリュートの最終手段ともいえる宣言に、俺は大声で否定する。
ちなみに残りの作戦は、この近くにある特殊なきのこを一人で探して来れば合格の「単独テスト追い払い作戦」、もし近辺に魔物が現れたら、少し話を紛らわしい方向へ持っていき、アンジェが特攻した隙にその場を離れる「逃げるが勝ち作戦」の2種類が用意されていた。
「あー、もう! 近くでそんな大声出さないでよ!」
レリュートが左耳に人差し指を押し込んで、こちらに怒鳴り返す。湿気の多い場所じゃなくても潤いが途切れることはない、透き通った青い目が俺を睨み据える。
「ところで私は何をすればいいのですか⁉ できればこんなところじゃなくて、もっと優雅な湖畔でティータイムでもしながら魔物調査を……」
「そんな気楽な仕事じゃないわよ!」
また始まったこのパターン……もう作戦がどうこうよりも、さっさと終わらせてしまったほうが早い気がしてきた。
じんわりと汗が浮かぶ額を右手で一吹きする。汗のべったりとした感触が右手に気持ち悪いように移る。髪にまとわった水分を、顔を振り払って弾き飛ばそうとするが、汗が接着剤と化し、髪の毛に必死にしがみついて離れなかった。
諦めたところで、湖の中に見える黒い影が少しずつ近づいていることに気付く。
「おい、どうやらどっちかの依頼が始まったようだぞ」
俺の一言で戦意剥き出しのレリュートが表情は変えずとも、その碧眼が俺の視線と同じ位置にいる湖の影を見下ろす。アンジェも「遂に始まった!」とウキウキするかのように俺たちとは違う好奇の目線を送る。
湖の影は近づくにつれ、次第に色濃くなっていく。が、突然とその影が消えた。――のは一瞬で、次の瞬間影は水面を超え、宙へ、黒から緑に色を変え飛び出してきた! 跳躍力はそれほどでもなかったのと、俺たちが湖から離れていたことから、急襲という事態は免れた。
緑色をした化け物は俺たちと同じ2本足で立ち、2本の腕は暇を持て余している。
違いと言えば手足それぞれ指が3本で先には鋭い爪が生え、それぞれの指の間に水かきが張られている。顔は頬の左右と頭に魚の鰭らしきものがついており、顔の各パーツもどこか魚に似ている。
一言で表せば魚男だ。まだ男か女か決まったわけではないが。
「どうやら警戒しているようね、サハギンは水中――おっと」
レリュートが言うには様子を伺っているため、こちらに攻め入る様子がないみたいだ。それよりも話を中断した理由が気になる。
「――とりあえず試験よ。ハルトはそのまま相手に睨み効かせてればいいから」
ということはこの化け物はここの出身だな。レリュートがサハギンという名前を知っていたことから魔物調査及び周囲を拠点としている戦人、元素使いにとっては常識なのだろう。いや、レリュートが博識だったとも考えられるか? あいつ同年代の魔物調査よりもできるみたいだしな。
そんなことを考えているとサハギンが右腕を少しばかり右下に下げた。おっとよそ見していた。集中と。
もう一度睨み返すと同時に剣を鞘から抜き出し、牽制する。俺が魔物討伐部に入った時からくたびれるまで使っている剣とはいえ、刃物に変わりはない。
「じゃあ率直な答えを言ってね。あの魔物は一体どのような特徴がある?」
サハギンね。口が滑って名前は出たものの、俺にもわからなかった存在だから、アンジェにはわかりっこないだろう。
となると見た目とかさっきの登場の仕方で考えるしかないな。俺がもし受験生なら、「泳ぐのが得意で、爪で引っ掻いてくる」と誰でもわかるような解答はできるが、これならどんな評価が下るのだろうか?
さて、気になるのはアンジェの答えだ。率直にと言ったから変な勘違いはないだろう、たぶん。サハギンへの威圧を絶やさずに、俺はアンジェの解答を背中越しに待った。
そして導き出された答えは――
「こわ~い」
「しっかーーーーーーーーーーーーーく!」
拍子抜けにもほどがある、甘ったるい声で言われた「こわ~い」に俺の眼力が一瞬にして解けた。
けどサハギンは襲ってこなかった。
なぜなら、アンジェの解答の後に続いた、レリュートの怒号の診断結果に驚いて、一目散に湖の中へと潜って行ったからだ。つまり、今俺の前には何もいない。
俺の解答「泳ぐのが得意。爪で攻撃する。レリュートの大声で驚く」これで半分は貰えるだろう。レリュート以外なら。
「はい! 2次試験終わり! もう帰る!」
「帰っちゃダメだろ! 生息域調査やらなくちゃいけないし、2次試験だってまだ可能性が……あるのかな?」
試験官でない以上、まだ可能であると俺が言えるわけもない。しかし、何でアンジェといるときのレリュートはここまでわがままなんだろう? まるでこれが本来のレリュートであるかのように、言いたい放題暴れているような気もする。
そういえば初めて会ったときよりも、新種調査を失敗した後のレリュートの方が今のレリュートに近い気がする。もしかして昔の暗かったレリュートは、何かを隠すためにわざと性格すら変えてしまったのだろうか?
「あの~。汗が尋常じゃありませんので、そろそろ他のところで続きをしませんか?」
「他はないの! それとあなたには後もないの!」
決定打をさらっと言い出すレリュート。流石にひどくないかそれは?
言い争う二人を見ていると、周りの気温が上昇しているような錯覚に襲われ、俺の額からもかなりの量の汗が垂れ落ちる。前回と1週間近くしか変わらないものの、冷え切った空洞と、多湿の湖畔では体感温度が全く違う。前のように何時間もこんな調子じゃ途中で倒れてしまいそうだ。
――しかし、サハギンが現れる前もそうだが、現れてからというものの、周りが常に静寂であるのが気になる。
一応生息域調査が行われるほどの湖畔なのだから、化け物が徘徊しているはずなのだが、あまり遭遇する気配がない。
未だに口論のデットヒートが収まりそうにないレリュートに、このことを確認しようとしたとき、後方の水辺付近に生物らしき存在を見つける。遠目から見て、4つ足で歩いている動物であることがわかる。黒く見えるのは毛だろうか? 全身黒一色である何かは湖に口をつけている。のどを潤しているのだろうか? とりあえずこっちから確認した方がよさそうだな。
「おーい、口げんか中悪いが、新しいのが見つかったぞ。あれなんだ?」
俺の問いかけに、目じりが不機嫌であることを、象徴しているかのように吊り上っているレリュートが、一度俺の方を見てから、俺の目線の先へと視線を移す。
「あれはグリズリー。見た目とは違っておとなしいから警戒する必要はないわね」
「そうか。お前が知ってるってことは、ここらを生息域にしているから、今回も2次試験に移るのか?」
「……」
レリュートは口を開こうとしない。こいつだんまりで試験終わらせる気か⁉
「おいおい! 確かにさっきの答えは想像を逸脱していたけど、まだ可能性が0ってわけじゃないだろ? 1%に満たないと思うが」
俺の素直な感想にもレリュートは黙ったままである。けれどその顔は機嫌を悪くしたようなものではなく、その眼差しはどこか真剣みを帯びている。そう思っていた矢先――
「何か来る」
レリュートの一言と同時に、先ほどグリズリーがいた付近の湖から、水しぶきと共に轟音が水面を跳ね上がった。
作者無駄事囁
書くペースがなかなか追いつかない……