第9話「殿下がチャートどおりに動かない(前編)」
魔法授業から四日後のことだった。
学院の中庭に、小さな噴水がある。水属性の魔法で動いている噴水で、昼休みには生徒たちが弁当を持って集まる場所だ。私はその端のベンチに座って、イザベルからの最新報告書を読んでいた。
マリアンヌが三歩後ろに立っている。ジルは今日も学院の周辺確認をしている。
報告書の内容は、マーガレット・ドゥナンの動きだった。最近、動きが少し変わっている。以前は学院内での評判操作が中心だったが、今週から、宮廷の外縁にいる人間と接触し始めているらしい。
規模が大きくなっている。
――(内心)マジか。想定より本格的な動きですわ。
「ドラクロワ令嬢」
声がした。
男性の声だった。ガエルではない。もっと低い、落ち着いた声だった。
私は報告書を折りたたみながら、顔を上げた。
レオナルド・シグルド・アルヴァレスが、噴水の前に立っていた。
一人だった。ガエルの姿はない。
私はゆっくりと立ち上がり、礼をした。
「殿下。本日はお一人ですか」
「ガエルは別の用で離れている」とレオナルドは言った。「少し、話してもいいか」
私は少し考えた。
チャートを確認する。頭の中で。
ゲームのシナリオでは、この時期のレオナルドはまだヴィオレットに積極的に近づかない。距離を保ちながら、観察している段階のはずだ。直接話しかけてくるのは、もっと後のイベントだった。
つまり、これはチャートにない動きだ。
でも、断る理由もない。むしろ、断る方が不自然だ。
「もちろんですわ」と私は言った。「よろしければ、こちらにどうぞ」
ベンチを示した。レオナルドが近づいてきて、少し距離を置いて座った。私も座った。
マリアンヌが、さらに三歩後ろに下がった。気を利かせたのだろう。距離はあるが、目は離していない。
噴水の水音だけが、しばらく聞こえた。
---
「先日の授業を見ていた」とレオナルドは言った。
「存じています」
「七割で評価五というのは、本当か」
「グレーヴ教諭がそうおっしゃいましたので」
「残りの三割を出したら、どうなる」
私は少し考えた。
正直に答えるべきか。でも、正確には私自身も「残り三割を全部出した場合」の結果を、この体では試したことがない。
「試したことがないので、分かりませんわ」と私は言った。「ただ、屋内でやるものではないと思います」
「なぜ」
「闇魔法は、制御を誤ると内向きに作用します。自分が傷つく可能性があるので、慎重にならざるを得ないのですわ」
レオナルドが少し目を動かした。
「内向きに作用する、というのは」
「ご存知でしたか」
「初めて聞いた」
「一般的にはあまり知られていないことですわ。闇属性の使い手が少ないので、情報が広まりにくいのだと思います」
レオナルドがしばらく黙った。
何かを考えている顔だった。ガエルが「殿下が考えている時の顔」と言っていた顔だろうか。確かに、表情は動いていないが、目が違う。内側で何かが動いている感じがした。
「授業中に、誰かが言っていた」とレオナルドは言った。「闇属性は怖い、と」
「聞こえていましたか」
「ああ」
「気にしていませんわ」
「本当に?」
私は少し考えた。
嘘をつくのは違う。かといって、正直に「少し堪えました」と言うのも、この場では違う気がした。
「少しだけ」と私は言った。「でも、そういう言葉は、これからも言われることだと思っています。慣れる必要がありますわ」
「慣れる必要はない」
レオナルドが、少し速く言った。
私は少し驚いて、王子の顔を見た。
レオナルドは前を向いていた。噴水を見ていた。その横顔は、いつもの無表情に近かった。でも、少しだけ、何かが違った。
「闇属性が不吉だというのは、無知から来る偏見だ」と彼は言った。「ドラクロワ家は代々、王家に仕えてきた名門だ。その家の属性を不吉と呼ぶのは、王家への侮辱でもある」
「……殿下」
「それだけだ。続けてくれ」
「続ける、とは」
「読んでいただろう、何か。邪魔したなら、続きを読んでくれ」
私は折りたたんだ報告書を見た。
「いえ、読み終えておりましたわ」
「そうか」
また、噴水の水音だけが聞こえた。
この沈黙は、居心地が悪いわけではなかった。ただ、静かだった。レオナルドが沈黙を気にしていない人間だということは、この短い時間で分かった。
「殿下」と私は言った。
「なんだ」
「今日は、何かご用がおありでしたか」
「用があるから話しかけたわけではない」
「では、なぜ」
レオナルドが少し間を置いた。
「……中庭を通りかかったら、お前がいた」
「それだけですか」
「それだけだ」
私はその答えを、頭の中でしばらく転がした。
通りかかったら話しかけた。それだけ。
ゲームの設定では、この時期のレオナルドはそういう行動を取らない。もっと慎重で、もっと計算的で、必要がなければ動かない人間として描かれていた。
だから、これはチャートにない。
チャートにない行動の理由が、「通りかかったから」というのは、つまり、計算ではなかった、ということだ。
――(内心)チャートが崩れ始めていますわ。しかも想定より早い。
「少し、聞いてもいいか」とレオナルドが言った。
「ええ」
「あの報告書のようなもの、いつも持ち歩いているのか」
私は少し固まった。
「報告書、とは」
「折りたたんでいた紙だ。几帳面に整理された文字が見えた」
見られていた。距離があったはずなのに、内容まで分かったのか。
「……情報の整理をしていましたわ」
「何の情報だ」
「学院内の動きについてですわ」
「自分で集めているのか」
「協力してくれる方がいますので」
レオナルドが少し目を細めた。
「イザベル・ノワールか」
私は答えなかった。
答えなかったことが、答えになった。
「あの令嬢が、最近ドラクロワ家に頻繁に出入りしているのは把握している」とレオナルドは言った。「情報収集が得意な令嬢だと聞いている」
「殿下もよく情報をお持ちですわね」
「立場上、把握する必要がある」
「そうですわね」
レオナルドが、また少し沈黙した。
「一つだけ、言っていいか」
「どうぞ」
「用心するに越したことはないが、抱えすぎるな」
私は少し驚いた。
「……抱えすぎる、とは」
「お前は、自分で全部把握しようとしている」とレオナルドは言った。「それは正しい判断だが、限界がある」
「殿下には関係のないことですわ」
「婚約者のことが関係ないとは言えない」
私は黙った。
婚約者、という言葉を、レオナルドが自分から使った。この時期のゲームのシナリオには、そういう場面はなかった。
チャートが、また一つ、狂った。
「……ご忠告、ありがとうございます」と私は言った。
「忠告ではなく、事実だ」
「では、事実をありがとうございます」
レオナルドが、ほんのわずかに、口元が動いた。
笑った、のかもしれなかった。一瞬すぎて、確認できなかった。
「殿下は」と私は言った。
「なんだ」
「思っていたより、話しやすい方ですわね」
レオナルドが少し間を置いた。
「それは、どういう意味だ」
「そのままの意味ですわ」
「以前は話しにくかったということか」
「以前は、あまりお話しする機会がありませんでしたので」
これは本当のことだった。ゲームの中での二人の会話は、断罪シーンまでほとんどなかった。
「そうか」とレオナルドは言った。
「ええ」
「では、これからは話す機会が増えるかもしれない」
「そうなれば、光栄ですわ」
レオナルドが立ち上がった。
「邪魔した」
「いいえ、お時間をいただきありがとうございました」
「また」
「はい」
レオナルドが中庭を歩いていった。その背中を、私はしばらく見ていた。
背が高い。歩き方が、静かで無駄がない。ゲームのグラフィックでは伝わらなかった、生きている人間の存在感があった。
――(内心)やばい。想定外すぎる。
口から出た言葉はなかった。
マリアンヌが近づいてきた。
「お嬢様」
「はい」
「殿下と、お話になりましたね」
「ええ」
「……大丈夫でしたか」
「大丈夫でしたわ」
私は折りたたんだ報告書を鞄にしまいながら、チャートを更新した。頭の中で。
重大な変数発生:レオナルドが自分から話しかけてきた。この時期のシナリオにない行動。チャートの修正が必要。
それから、一行。
レオナルドは、ゲームより複雑だ。
そして、最後に。
婚約者、という言葉を自分から使った。この意味を、もう少し考える必要がある。
中庭の噴水が、静かに水を流し続けていた。




