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悪役令嬢は攻略本を持っている  作者: N


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9/10

第9話「殿下がチャートどおりに動かない(前編)」

 魔法授業から四日後のことだった。


 学院の中庭に、小さな噴水がある。水属性の魔法で動いている噴水で、昼休みには生徒たちが弁当を持って集まる場所だ。私はその端のベンチに座って、イザベルからの最新報告書を読んでいた。


 マリアンヌが三歩後ろに立っている。ジルは今日も学院の周辺確認をしている。


 報告書の内容は、マーガレット・ドゥナンの動きだった。最近、動きが少し変わっている。以前は学院内での評判操作が中心だったが、今週から、宮廷の外縁にいる人間と接触し始めているらしい。


 規模が大きくなっている。


 ――(内心)マジか。想定より本格的な動きですわ。


 「ドラクロワ令嬢」


 声がした。


 男性の声だった。ガエルではない。もっと低い、落ち着いた声だった。


 私は報告書を折りたたみながら、顔を上げた。


 レオナルド・シグルド・アルヴァレスが、噴水の前に立っていた。


 一人だった。ガエルの姿はない。


 私はゆっくりと立ち上がり、礼をした。


 「殿下。本日はお一人ですか」


 「ガエルは別の用で離れている」とレオナルドは言った。「少し、話してもいいか」


 私は少し考えた。


 チャートを確認する。頭の中で。


 ゲームのシナリオでは、この時期のレオナルドはまだヴィオレットに積極的に近づかない。距離を保ちながら、観察している段階のはずだ。直接話しかけてくるのは、もっと後のイベントだった。


 つまり、これはチャートにない動きだ。


 でも、断る理由もない。むしろ、断る方が不自然だ。


 「もちろんですわ」と私は言った。「よろしければ、こちらにどうぞ」


 ベンチを示した。レオナルドが近づいてきて、少し距離を置いて座った。私も座った。


 マリアンヌが、さらに三歩後ろに下がった。気を利かせたのだろう。距離はあるが、目は離していない。


 噴水の水音だけが、しばらく聞こえた。


---


 「先日の授業を見ていた」とレオナルドは言った。


 「存じています」


 「七割で評価五というのは、本当か」


 「グレーヴ教諭がそうおっしゃいましたので」


 「残りの三割を出したら、どうなる」


 私は少し考えた。


 正直に答えるべきか。でも、正確には私自身も「残り三割を全部出した場合」の結果を、この体では試したことがない。


 「試したことがないので、分かりませんわ」と私は言った。「ただ、屋内でやるものではないと思います」


 「なぜ」


 「闇魔法は、制御を誤ると内向きに作用します。自分が傷つく可能性があるので、慎重にならざるを得ないのですわ」


 レオナルドが少し目を動かした。


 「内向きに作用する、というのは」


 「ご存知でしたか」


 「初めて聞いた」


 「一般的にはあまり知られていないことですわ。闇属性の使い手が少ないので、情報が広まりにくいのだと思います」


 レオナルドがしばらく黙った。


 何かを考えている顔だった。ガエルが「殿下が考えている時の顔」と言っていた顔だろうか。確かに、表情は動いていないが、目が違う。内側で何かが動いている感じがした。


 「授業中に、誰かが言っていた」とレオナルドは言った。「闇属性は怖い、と」


 「聞こえていましたか」


 「ああ」


 「気にしていませんわ」


 「本当に?」


 私は少し考えた。


 嘘をつくのは違う。かといって、正直に「少し堪えました」と言うのも、この場では違う気がした。


 「少しだけ」と私は言った。「でも、そういう言葉は、これからも言われることだと思っています。慣れる必要がありますわ」


 「慣れる必要はない」


 レオナルドが、少し速く言った。


 私は少し驚いて、王子の顔を見た。


 レオナルドは前を向いていた。噴水を見ていた。その横顔は、いつもの無表情に近かった。でも、少しだけ、何かが違った。


 「闇属性が不吉だというのは、無知から来る偏見だ」と彼は言った。「ドラクロワ家は代々、王家に仕えてきた名門だ。その家の属性を不吉と呼ぶのは、王家への侮辱でもある」


 「……殿下」


 「それだけだ。続けてくれ」


 「続ける、とは」


 「読んでいただろう、何か。邪魔したなら、続きを読んでくれ」


 私は折りたたんだ報告書を見た。


 「いえ、読み終えておりましたわ」


 「そうか」


 また、噴水の水音だけが聞こえた。


 この沈黙は、居心地が悪いわけではなかった。ただ、静かだった。レオナルドが沈黙を気にしていない人間だということは、この短い時間で分かった。


 「殿下」と私は言った。


 「なんだ」


 「今日は、何かご用がおありでしたか」


 「用があるから話しかけたわけではない」


 「では、なぜ」


 レオナルドが少し間を置いた。


 「……中庭を通りかかったら、お前がいた」


 「それだけですか」


 「それだけだ」


 私はその答えを、頭の中でしばらく転がした。


 通りかかったら話しかけた。それだけ。


 ゲームの設定では、この時期のレオナルドはそういう行動を取らない。もっと慎重で、もっと計算的で、必要がなければ動かない人間として描かれていた。


 だから、これはチャートにない。


 チャートにない行動の理由が、「通りかかったから」というのは、つまり、計算ではなかった、ということだ。


 ――(内心)チャートが崩れ始めていますわ。しかも想定より早い。


 「少し、聞いてもいいか」とレオナルドが言った。


 「ええ」


 「あの報告書のようなもの、いつも持ち歩いているのか」


 私は少し固まった。


 「報告書、とは」


 「折りたたんでいた紙だ。几帳面に整理された文字が見えた」


 見られていた。距離があったはずなのに、内容まで分かったのか。


 「……情報の整理をしていましたわ」


 「何の情報だ」


 「学院内の動きについてですわ」


 「自分で集めているのか」


 「協力してくれる方がいますので」


 レオナルドが少し目を細めた。


 「イザベル・ノワールか」


 私は答えなかった。


 答えなかったことが、答えになった。


 「あの令嬢が、最近ドラクロワ家に頻繁に出入りしているのは把握している」とレオナルドは言った。「情報収集が得意な令嬢だと聞いている」


 「殿下もよく情報をお持ちですわね」


 「立場上、把握する必要がある」


 「そうですわね」


 レオナルドが、また少し沈黙した。


 「一つだけ、言っていいか」


 「どうぞ」


 「用心するに越したことはないが、抱えすぎるな」


 私は少し驚いた。


 「……抱えすぎる、とは」


 「お前は、自分で全部把握しようとしている」とレオナルドは言った。「それは正しい判断だが、限界がある」


 「殿下には関係のないことですわ」


 「婚約者のことが関係ないとは言えない」


 私は黙った。


 婚約者、という言葉を、レオナルドが自分から使った。この時期のゲームのシナリオには、そういう場面はなかった。


 チャートが、また一つ、狂った。


 「……ご忠告、ありがとうございます」と私は言った。


 「忠告ではなく、事実だ」


 「では、事実をありがとうございます」


 レオナルドが、ほんのわずかに、口元が動いた。


 笑った、のかもしれなかった。一瞬すぎて、確認できなかった。


 「殿下は」と私は言った。


 「なんだ」


 「思っていたより、話しやすい方ですわね」


 レオナルドが少し間を置いた。


 「それは、どういう意味だ」


 「そのままの意味ですわ」


 「以前は話しにくかったということか」


 「以前は、あまりお話しする機会がありませんでしたので」


 これは本当のことだった。ゲームの中での二人の会話は、断罪シーンまでほとんどなかった。


 「そうか」とレオナルドは言った。


 「ええ」


 「では、これからは話す機会が増えるかもしれない」


 「そうなれば、光栄ですわ」


 レオナルドが立ち上がった。


 「邪魔した」


 「いいえ、お時間をいただきありがとうございました」


 「また」


 「はい」


 レオナルドが中庭を歩いていった。その背中を、私はしばらく見ていた。


 背が高い。歩き方が、静かで無駄がない。ゲームのグラフィックでは伝わらなかった、生きている人間の存在感があった。


 ――(内心)やばい。想定外すぎる。


 口から出た言葉はなかった。


 マリアンヌが近づいてきた。


 「お嬢様」


 「はい」


 「殿下と、お話になりましたね」


 「ええ」


 「……大丈夫でしたか」


 「大丈夫でしたわ」


 私は折りたたんだ報告書を鞄にしまいながら、チャートを更新した。頭の中で。


 重大な変数発生:レオナルドが自分から話しかけてきた。この時期のシナリオにない行動。チャートの修正が必要。


 それから、一行。


 レオナルドは、ゲームより複雑だ。


 そして、最後に。


 婚約者、という言葉を自分から使った。この意味を、もう少し考える必要がある。


 中庭の噴水が、静かに水を流し続けていた。

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