第7話「情報屋、爆誕」
イザベルがドラクロワ家を訪ねてくる頻度は、最初の一週間で三回になった。
二回目の訪問は「先日お借りした話の続きを」という名目だった。実際には本を借りていないが、私は何も言わなかった。
三回目は「近くを通りかかったので」だった。ドラクロワ家はノワール家から馬車で三十分の距離にある。近くではない。私は何も言わなかった。
マリアンヌが「ノワール令嬢が本日もいらっしゃいました」と毎回報告してくる。声は平静だが、目が少し嬉しそうだ。ジルは「もうほぼレギュラーですね」と言った。マリアンヌに「失礼なことを言わないでください」と即座に返されたが、否定はしなかった。
四回目の訪問の時、イザベルは開口一番にこう言った。
「ヴィオレット様に、お伝えしたいことがあります」
いつもより、少し真剣な顔だった。
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応接間で向かい合って座ると、イザベルは膝の上で手を組んだ。
「先日、王子派閥の動きについて、少し気になることがありました」
「聞かせてください」
「学院内で、ヴィオレット様の評判を意図的に操作しようとしている動きがあります」
私は少し眉を上げた。
「具体的には」
「式典でのラナ・ソワーズの件を、意図的に矮小化して広めている人間がいます。『ドラクロワ令嬢が場を仕切っただけ』という解釈を、特定の令嬢グループに流しています」
「誰がですか」
「ラナの背後にいる人物です。ラナ自身は動いていません。別の誰かが、ラナを通じてやっています」
私はしばらく黙った。
ゲームのシナリオにはなかった動きだ。誰かが、意図的にヴィオレットの印象操作をしようとしている。それも、かなり早い段階から。
「その人物に心当たりはありますか」
「まだ確定できていません」とイザベルは言った。「だから今、調べています」
「……今、調べている」
「はい」
私はイザベルを見た。
「いつから調べていたのですか」
「茶会の翌日から」
翌日から。つまり、私と初めて会った次の日から、自主的に動いていたということだ。
「なぜ」
イザベルが少し口ごもった。
「……気になったので」
「私のことが?」
「はい」とイザベルは言った。頬が、わずかに赤くなった。「ヴィオレット様が、不当に評判を下げられるのが、嫌だったので」
私はしばらく黙った。
この子は、私が頼む前に動いた。頼まれていないのに、自分の判断で、私のために動いた。
「イザベルさん」
「はい」
「ありがとうございます」
イザベルの頬が、さっきより赤くなった。
「……お礼を言われることではありません。やりたくてやったので」
「それでも、ありがとうございます」
イザベルが前を向いた。赤い眼が、どこか遠いところを見ていた。
「……ヴィオレット様は、ありがとうという言葉を、よく使いますね」
「そうですか」
「はい。最初は驚きました。貴族の方で、使用人や同年代の令嬢に、あんなに自然にありがとうと言う方は、珍しいので」
「おかしいですか」
「いいえ」とイザベルは言った。きっぱりと。「好きです、そういうところ」
それから、自分が言った言葉に気づいたらしく、慌てて視線を逸らした。
「……その、尊敬するという意味で」
「分かっていますわ」
「念のため申し上げました」
「ええ」
私はお茶を一口飲んだ。イザベルも、少し乱暴にお茶を飲んだ。
部屋の隅で、マリアンヌが音もなく立っていた。その目が、今日は特に潤んでいた。全部見ていたらしい。
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それからのイザベルは、早かった。
一週間後、再び訪ねてきたイザベルは、封筒を一つ持っていた。
「ヴィオレット様の評判を操作していた人物が分かりました」
封筒の中には、几帳面な字で書かれた報告書が入っていた。人物名、行動の記録、関係者の一覧。情報の整理の仕方が、恐ろしく正確だった。
「これを、一週間で」
「もう少し早くできましたが、裏取りに時間がかかりました」
「裏取り」
「一つの情報源では不確かなので、必ず複数から確認します」
私は報告書を読んだ。
評判操作の中心にいたのは、マーガレット・ドゥナン子爵令嬢という人物だった。ラナとは幼馴染で、王子派閥の外縁にいる家の娘だ。ゲームには登場しない名前だった。
「この人物の目的は何だと思いますか」
「ヴィオレット様の印象を悪く保つことで、婚約破棄の流れを作りやすくすることだと思います」とイザベルは言った。「誰かの指示を受けているか、自分の判断かは、まだ分かりません」
「誰かの指示、とすれば」
「王子派閥の上位にいる人間か、別の勢力か。どちらかだと思います」
私は報告書を封筒に戻した。
これはゲームの設定にない動きだ。つまり、私が変化したことで、周囲も変化し始めている。シナリオが、すでに別の方向に動き出している。
「イザベルさん」
「はい」
「一つ、お願いがあります」
イザベルが背筋を伸ばした。
「引き続き、情報を集めていただけますか。報告書のような形でなくて構いません。気になることがあれば、教えてもらえるだけでいい」
「……それは、情報屋として働けということですか」
「そういう言い方をするなら、そうなりますわね。嫌ですか」
イザベルが少し考えた。
「嫌ではありません」と彼女は言った。「ただ」
「ただ?」
「対価は、いりません」
「では何のために」
「ヴィオレット様の役に立ちたいので」
まっすぐな目だった。赤い眼が、まっすぐ私を見ていた。
私は少し間を置いてから言った。
「それでも、ありがとうございます」
イザベルの頬が赤くなった。
「……やめてください、そのたびに」
「そのたびに、何ですか」
「なんでもありません」
イザベルが前を向いた。耳が、わずかに赤かった。
マリアンヌが部屋の隅で、完全に静止していた。その頬が少し赤かった。もらい泣きをこらえているらしい。
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イザベルが帰った後、ジルが応接間の片付けを手伝いながら言った。
「お嬢様、ノワール令嬢、完全に落ちましたね」
「ジル」とマリアンヌが言った。
「いや、でも見てれば分かるじゃないですか。あの顔は」
「余計なことを言わないでください」
「俺は事実を言っているだけですよ。ねえ、お嬢様」
私は少し考えた。
「ジル」
「はい」
「イザベルさんのことを、よろしくお願いしますわ」
ジルが少し真剣な顔になった。
「……守る対象ということですか」
「お客様として、大切に」
「承知しました」とジルは言った。今度は肩を震わせなかった。ただ、真剣に頷いた。「任せてください」
マリアンヌも静かに頷いた。
この二人が同時に頷く時は、本当に本気の時だと、最近分かってきた。
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その夜、私はチャートを広げた。
イザベルの情報をもとに、現在の状況を整理する。
マーガレット・ドゥナン。ゲームに登場しない人物が、すでに動いている。これは私が行動を変えたことへの反応だ。シナリオが変わり始めているということは、同時に、想定外の動きが増えるということでもある。
つまり、チャートだけに頼ることは、もうできない。
私は羊皮紙に新しい項目を書き加えた。
情報網の構築:イザベル・ノワールを中心に、学院内外の動きを把握する。
それから、現状の整理を続けた。
現時点で私の側にいる人間。家族。マリアンヌとジル。エミリア(まだ完全に味方とは言えないが、敵ではない)。イザベル(今日から正式に情報を共有することになった)。アレクシス(味方だが、使い方に注意が必要)。
現時点で動きが不明な人間。レオナルド。ガエル(おそらく中立だが、レオナルド寄り)。
現時点で敵対的な動きをしている人間。マーガレット・ドゥナン。その背後にいる可能性のある誰か。
三年後の断罪イベントまで、約二年と十ヶ月。
ゲームのシナリオより、全体的に動きが早い。
問題は、早い動きに対応するために、こちらも早く動く必要があることだ。でも、早く動きすぎると、後半の調整が難しくなる。
バランスが大事だ。
チャートを丸めながら、私は窓の外を見た。
夜のドラクロワ家の庭は、静かだった。月明かりが薔薇を照らしている。庭の隅で、ジルが見回りをしている影が見えた。
「ジル」と私は窓を少し開けて呼んだ。
「お嬢様、窓は」
「少しだけ。一つ聞いていいですか」
「なんでしょう」
「今日のイザベルさんのこと、どう思いましたか」
ジルが少し考えた。
「いい人だと思います」とジルは言った。「賢くて、真剣で、お嬢様のことを本当に大切に思ってる。そういう人が近くにいるのは、いいことだと思います」
「そうですわね」
「ただ」
「ただ?」
「ノワール令嬢が抱えているもの、少し重そうなので。お嬢様が受け止めすぎないように、気をつけてください」
私は少し驚いた。ジルがそういうことを言うのは、珍しかった。
「ジル、意外と鋭いですわね」
「いつも鋭いですよ」と彼は言った。にっこり笑って。「ただ普段は隠してるだけです」
「なぜ隠すのですか」
「マリアンヌさんに張り合うと疲れるので」
「……なるほど」
「窓、閉めてください。冷えます」
「おやすみなさい、ジル」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
窓を閉めた。
マリアンヌが部屋の入口から「お嬢様、ジルが何を言いましたか」と聞いてきた。
「秘密ですわ」
マリアンヌが少し目を細めた。
「……ジルのことを、少しだけ見直しました」
「少しだけ、ですか」
「少しだけです」
私は笑いをこらえながら、日誌を閉じた。
チャートの最後に、今日の総評を書き加える。
今日から、私は一人ではなくなった。
それだけで、三年後への道が、少し違って見えた。




