第6話「イザベル・ノワールは敵ではなかった」
茶会の会場は、ヴァレリア侯爵夫人の邸宅だった。
王都でも指折りの大邸宅で、庭園は季節の花で整えられ、広間には各家の令嬢たちが集まっていた。年齢層は十二歳から十六歳ほど。学院に通う令嬢たちの、社交の場だ。
私はマリアンヌを連れて会場に入った。ジルは馬車のそばで待機している。今日も周辺の確認をしているはずだ。
「お嬢様」とマリアンヌが小声で言った。「左手の窓際に、ノワール男爵令嬢がいます」
「気づいていますわ」
「先ほどから、お嬢様を観察しています」
「知っています」
マリアンヌが少し間を置いた。
「……対応のご予定は」
「様子を見ますわ」
イザベル・ノワール。十五歳。光属性。黒髪に赤い眼。家名のとおりの、少し不思議な組み合わせの外見だ。ゲームの中では、序盤に登場して「ヴィオレットに恋する令嬢」として設定されていた。ただし、登場当初は警戒心が強く、すぐに懐くわけではない。
きっかけが必要だ。
ゲームでは、ヴィオレットがイザベルのピンチを助けるシーンがそのきっかけだった。ただし、ゲームのヴィオレットはそれを意図してやったわけではなく、偶然の産物だった。
私は偶然に頼るつもりはない。
とはいえ、無理に近づいても逆効果だ。イザベルは観察眼が鋭い。不自然な接触はすぐに見抜かれる。
しばらく、自然な流れに任せることにした。
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茶会は穏やかに進んだ。
私は数人の令嬢と挨拶を交わし、適切な会話をした。式典の件がすでに広まっているらしく、以前より話しかけてくる令嬢が増えていた。怖がられている様子は変わらないが、その怖がり方の種類が少し変わった気がした。
以前は「近づきたくない」という怖がり方。今は「どんな人か分からない」という怖がり方。
悪くない変化だ。
窓際のイザベルは、相変わらずこちらを観察していた。でも話しかけてはこない。
私も話しかけなかった。
それが変わったのは、茶会が中盤に差し掛かった頃だった。
広間の隅で、小さな声が聞こえた。
「……返してください」
イザベルの声だった。
向かいに立っているのは、三人の令嬢だ。年齢は十四歳から十六歳ほど。中心にいるのは、見覚えのある顔だった。ラナ・ソワーズの取り巻きの一人、カトリーヌ・ベルジェ子爵令嬢だ。
カトリーヌの手に、小さな本があった。イザベルが持っていたものだろう。
「ノワール家って、光属性なのに暗いわよね」とカトリーヌが言った。「黒髪に赤い目でしょ。なんか不気味じゃない」
取り巻きがくすくす笑った。
イザベルは表情を変えなかった。ただ、「返してください」ともう一度、静かに言った。
カトリーヌが本を少し高く持ち上げた。イザベルの手が届かない高さに。
私はお茶のカップをソーサーに置いた。
音が、思ったより広間に響いた。
カトリーヌがこちらを見た。周囲の令嬢たちも、こちらを見た。
私はカトリーヌに向かって、ゆっくりと歩いた。
「カトリーヌ・ベルジェさん」
「……ヴィオレット様」
「その本は、ノワール令嬢のものですか」
「あ、いえ、これは……」
「そうですか」と私は言った。カトリーヌの言葉が終わる前に。「では、お返しになって」
「……はい」
カトリーヌが、本をイザベルに返した。
取り巻きの令嬢たちが、静かに散った。
私はイザベルに向き直った。
近くで見ると、黒髪と赤い眼の組み合わせは、確かに不思議だが、不気味ではなかった。むしろ、印象的だと思った。そして今、その赤い眼が、私をじっと見ていた。
警戒している目だった。
助けられた、という感謝よりも、なぜ助けたのかという疑念が先に来ている。賢い反応だと思った。
「大丈夫ですか」と私は言った。
「……なぜ、助けてくださったんですか」
エミリアと同じ質問だ、と思った。
「困っていらっしゃるようでしたので」
「それだけですか」
「それだけです」
イザベルが少し黙った。赤い眼が、私の顔をじっと見ている。何かを確かめようとしている目だ。
「……ヴィオレット・ドラクロワ様は」とイザベルは言った。「以前とは、かなり違う方になったと聞いています」
「そうですか」
「本当ですか」
「どちらが本当かは、あなたが判断してくださいな」
イザベルが、また少し黙った。
「……一つだけ、聞いてもいいですか」
「ええ」
「私のことを、知っていましたか。今日、会場に来る前から」
鋭い、と思った。
初対面の令嬢に、こういう質問をすぐに投げかけられる人間は少ない。この子は、相手の意図を見抜くことに長けている。
正直に答えることにした。
「ノワール家のことは存じています。ただ、あなた個人のことは、今日初めてお会いしましたわ」
「では、助けたのは本当に偶然ですか」
「偶然ではありません」と私は言った。「困っている方がいれば、声をかけます。それが偶然か必然かは、あまり関係ありませんわ」
イザベルが、初めて表情を動かした。
眉が少し上がって、目が少し丸くなった。驚いている顔だった。
「……正直な方なんですね」
「そうですか?」
「はい。普通、そういう質問をされたら、もっと曖昧に答えます」
「曖昧に答えると、あなたは信用しないでしょう」
イザベルが再び黙った。今度は少し長い沈黙だった。
「……イザベル・ノワールと申します」と彼女は言った。「改めて、ご挨拶を」
「ヴィオレット・ドラクロワですわ。よろしくお願いします、イザベルさん」
イザベルが、ほんの少し、口元を緩めた。笑顔、と言うには小さすぎたが、確かに何かが和らいだ瞬間だった。
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茶会の後半、イザベルは私の近くに座るようになった。
話しかけてくるわけではなかった。ただ、近くにいた。観察を続けているようだった。
私も特に話しかけなかった。
それでも、何度か視線が合った。合うたびに、イザベルが少し目を逸らした。逸らし方が、最初より柔らかくなっていた。
茶会が終わりに近づいた頃、イザベルが初めて自分から口を開いた。
「ヴィオレット様」
「はい」
「あの本、見ましたか」
「いいえ」
「見ますか」
私は少し驚いた。
イザベルが、手の中の本を少し傾けた。表紙が見えた。王国の政治史に関する専門書だった。十五歳の令嬢が茶会に持参する本ではない。
「随分と難しい本を読むのですね」
「好きなので」とイザベルは言った。少し、身構えた様子で。批判されることを予期しているような顔だった。
「素敵ですわ」と私は言った。
イザベルが固まった。
「……えっ」
「好きなものを読める人は、素敵ですわ。何を読もうと」
イザベルが、今度こそはっきりと表情を動かした。目が丸くなって、頬が少し赤くなって、それから慌てて前を向いた。
「……そう、ですか」
「ええ」
「……ありがとうございます」
小さな声だった。でも、確かに聞こえた。
私はお茶を一口飲んだ。
横で、マリアンヌが音もなく立っていた。その目が潤んでいるのは、私の「素敵ですわ」という言葉に反応したのか、イザベルの「ありがとうございます」に反応したのか、判断できなかった。
たぶん、両方だろう。
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帰りの馬車の中で、マリアンヌが口を開いた。
「お嬢様」
「はい」
「ノワール令嬢は、よい方ですね」
「そう思いますか」
「はい。目が正直です」
マリアンヌが「目が正直」と言う時は、本当にそう思っている時だ。この従女は、人を褒めることが少ない。だから、褒める時は本心からだと学習していた。
「ええ、そうですわね」と私は言った。
御者台からジルの声がした。
「お嬢様、今日のノワール令嬢との件、俺も見ていました」
「馬車の外からですか」
「ちょっとだけ窓から」
「ジル」とマリアンヌが言った。「それは覗きです」
「警備の確認です」
「窓から茶会を見るのは警備ではありません」
「では警備の副産物として、見えてしまいました」
「意味が違います」
「お嬢様、ノワール令嬢は味方になると思いますよ」とジルは続けた。マリアンヌの言葉を綺麗に無視して。「あの目は、もう決まってる人の目でした」
私は少し考えた。
ジルの人を見る目は、マリアンヌとは種類が違う。マリアンヌは目の正直さを見る。ジルは、覚悟の有無を見る。
「そうですか」
「はい。なんかもう、覚悟決まってる感じがしました」
「一度お茶を飲んだだけですわよ」
「それでも、です」
私は窓の外を見た。夕暮れの街が流れていく。
チャートを更新する。頭の中で。
進捗:イザベル・ノワールとの初接触、想定より良好。警戒心は残っているが、関係性の入口には立てた。
それから、一行。
イザベル・ノワールについて:鋭い。正直。好きなものへの信念がある。この人を味方にできれば、情報面で大きな力になる。
そして最後に。
次のステップ:焦らない。この人は、時間をかけて信頼を積み上げるタイプだ。
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三日後、ドラクロワ家に手紙が届いた。
差出人:イザベル・ノワール。
内容は短かった。
「先日の茶会でのお礼を申し上げたく、ご挨拶の機会をいただけますでしょうか。ノワール・イザベル」
私は手紙を読んで、少し考えた。
三日で動いた。ジルの言っていた「覚悟が決まってる」というのは、こういうことか。
返事を書いた。
「喜んでお会いしますわ。来週の午後、いかがですか。ヴィオレット・ドラクロワ」
マリアンヌに渡すと、彼女は一読して「よろしいかと思います」と言った。
「マリアンヌ」
「はい」
「楽しみですわ」
マリアンヌの目が、静かに潤んだ。
「……私も、でございます」
声は完璧に平静だった。
でも、目が正直すぎた。
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一週間後、イザベルがドラクロワ家を訪ねてきた。
応接間で向かい合って座ると、イザベルはまっすぐ私を見た。
「改めて、お礼を申し上げます。茶会では助けていただきました」
「お気になさらずに」
「気にします」とイザベルは言った。きっぱりと。「助けていただいたことは、きちんと覚えています。それから」
「それから?」
「本のことも」
私は少し首を傾けた。
「素敵だと言っていただいたこと」とイザベルは続けた。頬が、わずかに赤かった。「あんなふうに言われたのは、初めてでしたので」
「そうですか」
「はい。難しい本を読むと、変わっていると言われることが多くて」
「変わっていることは、悪いことではありませんわ」
イザベルが少し目を伏せた。それから、顔を上げた。
「ヴィオレット様は、本当に以前と違う方になったんですね」
「以前を知っていますか」
「噂で」とイザベルは言った。「でも、今日お会いして、噂とは全然違うと思いました」
「どう違いますか」
「噂では、冷たい方だと聞いていました。でも実際は」
イザベルが少し口ごもった。
「実際は?」
「……温かい方だと思います」
静かな声だった。でも、まっすぐだった。
私はお茶を一口飲んだ。
「イザベルさん」
「はい」
「一つ聞いてもいいですか」
「なんでしょう」
「情報を集めることは、得意ですか」
イザベルが少し目を細めた。
「……唐突な質問ですね」
「そうですわね。でも、あなたなら正直に答えてくれると思って」
少しの沈黙。
「……得意です」とイザベルは言った。「人が何を考えているか、観察するのが好きなので。自然と、情報が集まります」
「そうですか」
「なぜそれを聞くんですか」
私は少し考えた。
正直に言うべきか、どうか。
イザベルは鋭い。曖昧な答えは信用しない。でも全部話すのも、まだ早い。
「あなたと、もっとお話したいと思ったからですわ」と私は言った。「賢い方と話すのは、楽しいので」
イザベルが、今日初めて、はっきりと笑った。
「……ヴィオレット様は、人の扱い方が上手ですね」
「そうですか」
「はい。でも、嫌いじゃないです」
「よかったですわ」
二人でお茶を飲んだ。
会話は、思ったより弾んだ。政治の話、魔法の話、学院の話。イザベルは口数が少ないが、話す時は内容が濃かった。観察したことを、きちんと自分の言葉で整理できる人だと分かった。
帰り際、イザベルは応接間の入口で振り返った。
「ヴィオレット様」
「はい」
「また、来てもいいですか」
「いつでもどうぞ」
イザベルが、小さく頷いた。
「……必ず来ます」
その一言に、何かが詰まっていた。
私はその背中を見送りながら、チャートを更新した。
進捗:イザベル・ノワール、関係性構築。想定より早い。
それから、一行。
イザベル・ノワールは、味方にするより、友人になる方が先かもしれない。
最後の一行は、やはりチャートの文体ではなかった。
でも、今回も消さなかった。




