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悪役令嬢は攻略本を持っている  作者: N


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6/10

第6話「イザベル・ノワールは敵ではなかった」

 茶会の会場は、ヴァレリア侯爵夫人の邸宅だった。


 王都でも指折りの大邸宅で、庭園は季節の花で整えられ、広間には各家の令嬢たちが集まっていた。年齢層は十二歳から十六歳ほど。学院に通う令嬢たちの、社交の場だ。


 私はマリアンヌを連れて会場に入った。ジルは馬車のそばで待機している。今日も周辺の確認をしているはずだ。


 「お嬢様」とマリアンヌが小声で言った。「左手の窓際に、ノワール男爵令嬢がいます」


 「気づいていますわ」


 「先ほどから、お嬢様を観察しています」


 「知っています」


 マリアンヌが少し間を置いた。


 「……対応のご予定は」


 「様子を見ますわ」


 イザベル・ノワール。十五歳。光属性。黒髪に赤い眼。家名のとおりの、少し不思議な組み合わせの外見だ。ゲームの中では、序盤に登場して「ヴィオレットに恋する令嬢」として設定されていた。ただし、登場当初は警戒心が強く、すぐに懐くわけではない。


 きっかけが必要だ。


 ゲームでは、ヴィオレットがイザベルのピンチを助けるシーンがそのきっかけだった。ただし、ゲームのヴィオレットはそれを意図してやったわけではなく、偶然の産物だった。


 私は偶然に頼るつもりはない。


 とはいえ、無理に近づいても逆効果だ。イザベルは観察眼が鋭い。不自然な接触はすぐに見抜かれる。


 しばらく、自然な流れに任せることにした。


---


 茶会は穏やかに進んだ。


 私は数人の令嬢と挨拶を交わし、適切な会話をした。式典の件がすでに広まっているらしく、以前より話しかけてくる令嬢が増えていた。怖がられている様子は変わらないが、その怖がり方の種類が少し変わった気がした。


 以前は「近づきたくない」という怖がり方。今は「どんな人か分からない」という怖がり方。


 悪くない変化だ。


 窓際のイザベルは、相変わらずこちらを観察していた。でも話しかけてはこない。


 私も話しかけなかった。


 それが変わったのは、茶会が中盤に差し掛かった頃だった。


 広間の隅で、小さな声が聞こえた。


 「……返してください」


 イザベルの声だった。


 向かいに立っているのは、三人の令嬢だ。年齢は十四歳から十六歳ほど。中心にいるのは、見覚えのある顔だった。ラナ・ソワーズの取り巻きの一人、カトリーヌ・ベルジェ子爵令嬢だ。


 カトリーヌの手に、小さな本があった。イザベルが持っていたものだろう。


 「ノワール家って、光属性なのに暗いわよね」とカトリーヌが言った。「黒髪に赤い目でしょ。なんか不気味じゃない」


 取り巻きがくすくす笑った。


 イザベルは表情を変えなかった。ただ、「返してください」ともう一度、静かに言った。


 カトリーヌが本を少し高く持ち上げた。イザベルの手が届かない高さに。


 私はお茶のカップをソーサーに置いた。


 音が、思ったより広間に響いた。


 カトリーヌがこちらを見た。周囲の令嬢たちも、こちらを見た。


 私はカトリーヌに向かって、ゆっくりと歩いた。


 「カトリーヌ・ベルジェさん」


 「……ヴィオレット様」


 「その本は、ノワール令嬢のものですか」


 「あ、いえ、これは……」


 「そうですか」と私は言った。カトリーヌの言葉が終わる前に。「では、お返しになって」


 「……はい」


 カトリーヌが、本をイザベルに返した。


 取り巻きの令嬢たちが、静かに散った。


 私はイザベルに向き直った。


 近くで見ると、黒髪と赤い眼の組み合わせは、確かに不思議だが、不気味ではなかった。むしろ、印象的だと思った。そして今、その赤い眼が、私をじっと見ていた。


 警戒している目だった。


 助けられた、という感謝よりも、なぜ助けたのかという疑念が先に来ている。賢い反応だと思った。


 「大丈夫ですか」と私は言った。


 「……なぜ、助けてくださったんですか」


 エミリアと同じ質問だ、と思った。


 「困っていらっしゃるようでしたので」


 「それだけですか」


 「それだけです」


 イザベルが少し黙った。赤い眼が、私の顔をじっと見ている。何かを確かめようとしている目だ。


 「……ヴィオレット・ドラクロワ様は」とイザベルは言った。「以前とは、かなり違う方になったと聞いています」


 「そうですか」


 「本当ですか」


 「どちらが本当かは、あなたが判断してくださいな」


 イザベルが、また少し黙った。


 「……一つだけ、聞いてもいいですか」


 「ええ」


 「私のことを、知っていましたか。今日、会場に来る前から」


 鋭い、と思った。


 初対面の令嬢に、こういう質問をすぐに投げかけられる人間は少ない。この子は、相手の意図を見抜くことに長けている。


 正直に答えることにした。


 「ノワール家のことは存じています。ただ、あなた個人のことは、今日初めてお会いしましたわ」


 「では、助けたのは本当に偶然ですか」


 「偶然ではありません」と私は言った。「困っている方がいれば、声をかけます。それが偶然か必然かは、あまり関係ありませんわ」


 イザベルが、初めて表情を動かした。


 眉が少し上がって、目が少し丸くなった。驚いている顔だった。


 「……正直な方なんですね」


 「そうですか?」


 「はい。普通、そういう質問をされたら、もっと曖昧に答えます」


 「曖昧に答えると、あなたは信用しないでしょう」


 イザベルが再び黙った。今度は少し長い沈黙だった。


 「……イザベル・ノワールと申します」と彼女は言った。「改めて、ご挨拶を」


 「ヴィオレット・ドラクロワですわ。よろしくお願いします、イザベルさん」


 イザベルが、ほんの少し、口元を緩めた。笑顔、と言うには小さすぎたが、確かに何かが和らいだ瞬間だった。


---


 茶会の後半、イザベルは私の近くに座るようになった。


 話しかけてくるわけではなかった。ただ、近くにいた。観察を続けているようだった。


 私も特に話しかけなかった。


 それでも、何度か視線が合った。合うたびに、イザベルが少し目を逸らした。逸らし方が、最初より柔らかくなっていた。


 茶会が終わりに近づいた頃、イザベルが初めて自分から口を開いた。


 「ヴィオレット様」


 「はい」


 「あの本、見ましたか」


 「いいえ」


 「見ますか」


 私は少し驚いた。


 イザベルが、手の中の本を少し傾けた。表紙が見えた。王国の政治史に関する専門書だった。十五歳の令嬢が茶会に持参する本ではない。


 「随分と難しい本を読むのですね」


 「好きなので」とイザベルは言った。少し、身構えた様子で。批判されることを予期しているような顔だった。


 「素敵ですわ」と私は言った。


 イザベルが固まった。


 「……えっ」


 「好きなものを読める人は、素敵ですわ。何を読もうと」


 イザベルが、今度こそはっきりと表情を動かした。目が丸くなって、頬が少し赤くなって、それから慌てて前を向いた。


 「……そう、ですか」


 「ええ」


 「……ありがとうございます」


 小さな声だった。でも、確かに聞こえた。


 私はお茶を一口飲んだ。


 横で、マリアンヌが音もなく立っていた。その目が潤んでいるのは、私の「素敵ですわ」という言葉に反応したのか、イザベルの「ありがとうございます」に反応したのか、判断できなかった。


 たぶん、両方だろう。


---


 帰りの馬車の中で、マリアンヌが口を開いた。


 「お嬢様」


 「はい」


 「ノワール令嬢は、よい方ですね」


 「そう思いますか」


 「はい。目が正直です」


 マリアンヌが「目が正直」と言う時は、本当にそう思っている時だ。この従女は、人を褒めることが少ない。だから、褒める時は本心からだと学習していた。


 「ええ、そうですわね」と私は言った。


 御者台からジルの声がした。


 「お嬢様、今日のノワール令嬢との件、俺も見ていました」


 「馬車の外からですか」


 「ちょっとだけ窓から」


 「ジル」とマリアンヌが言った。「それは覗きです」


 「警備の確認です」


 「窓から茶会を見るのは警備ではありません」


 「では警備の副産物として、見えてしまいました」


 「意味が違います」


 「お嬢様、ノワール令嬢は味方になると思いますよ」とジルは続けた。マリアンヌの言葉を綺麗に無視して。「あの目は、もう決まってる人の目でした」


 私は少し考えた。


 ジルの人を見る目は、マリアンヌとは種類が違う。マリアンヌは目の正直さを見る。ジルは、覚悟の有無を見る。


 「そうですか」


 「はい。なんかもう、覚悟決まってる感じがしました」


 「一度お茶を飲んだだけですわよ」


 「それでも、です」


 私は窓の外を見た。夕暮れの街が流れていく。


 チャートを更新する。頭の中で。


 進捗:イザベル・ノワールとの初接触、想定より良好。警戒心は残っているが、関係性の入口には立てた。


 それから、一行。


 イザベル・ノワールについて:鋭い。正直。好きなものへの信念がある。この人を味方にできれば、情報面で大きな力になる。


 そして最後に。


 次のステップ:焦らない。この人は、時間をかけて信頼を積み上げるタイプだ。


---


 三日後、ドラクロワ家に手紙が届いた。


 差出人:イザベル・ノワール。


 内容は短かった。


 「先日の茶会でのお礼を申し上げたく、ご挨拶の機会をいただけますでしょうか。ノワール・イザベル」


 私は手紙を読んで、少し考えた。


 三日で動いた。ジルの言っていた「覚悟が決まってる」というのは、こういうことか。


 返事を書いた。


 「喜んでお会いしますわ。来週の午後、いかがですか。ヴィオレット・ドラクロワ」


 マリアンヌに渡すと、彼女は一読して「よろしいかと思います」と言った。


 「マリアンヌ」


 「はい」


 「楽しみですわ」


 マリアンヌの目が、静かに潤んだ。


 「……私も、でございます」


 声は完璧に平静だった。


 でも、目が正直すぎた。


---


 一週間後、イザベルがドラクロワ家を訪ねてきた。


 応接間で向かい合って座ると、イザベルはまっすぐ私を見た。


 「改めて、お礼を申し上げます。茶会では助けていただきました」


 「お気になさらずに」


 「気にします」とイザベルは言った。きっぱりと。「助けていただいたことは、きちんと覚えています。それから」


 「それから?」


 「本のことも」


 私は少し首を傾けた。


 「素敵だと言っていただいたこと」とイザベルは続けた。頬が、わずかに赤かった。「あんなふうに言われたのは、初めてでしたので」


 「そうですか」


 「はい。難しい本を読むと、変わっていると言われることが多くて」


 「変わっていることは、悪いことではありませんわ」


 イザベルが少し目を伏せた。それから、顔を上げた。


 「ヴィオレット様は、本当に以前と違う方になったんですね」


 「以前を知っていますか」


 「噂で」とイザベルは言った。「でも、今日お会いして、噂とは全然違うと思いました」


 「どう違いますか」


 「噂では、冷たい方だと聞いていました。でも実際は」


 イザベルが少し口ごもった。


 「実際は?」


 「……温かい方だと思います」


 静かな声だった。でも、まっすぐだった。


 私はお茶を一口飲んだ。


 「イザベルさん」


 「はい」


 「一つ聞いてもいいですか」


 「なんでしょう」


 「情報を集めることは、得意ですか」


 イザベルが少し目を細めた。


 「……唐突な質問ですね」


 「そうですわね。でも、あなたなら正直に答えてくれると思って」


 少しの沈黙。


 「……得意です」とイザベルは言った。「人が何を考えているか、観察するのが好きなので。自然と、情報が集まります」


 「そうですか」


 「なぜそれを聞くんですか」


 私は少し考えた。


 正直に言うべきか、どうか。


 イザベルは鋭い。曖昧な答えは信用しない。でも全部話すのも、まだ早い。


 「あなたと、もっとお話したいと思ったからですわ」と私は言った。「賢い方と話すのは、楽しいので」


 イザベルが、今日初めて、はっきりと笑った。


 「……ヴィオレット様は、人の扱い方が上手ですね」


 「そうですか」


 「はい。でも、嫌いじゃないです」


 「よかったですわ」


 二人でお茶を飲んだ。


 会話は、思ったより弾んだ。政治の話、魔法の話、学院の話。イザベルは口数が少ないが、話す時は内容が濃かった。観察したことを、きちんと自分の言葉で整理できる人だと分かった。


 帰り際、イザベルは応接間の入口で振り返った。


 「ヴィオレット様」


 「はい」


 「また、来てもいいですか」


 「いつでもどうぞ」


 イザベルが、小さく頷いた。


 「……必ず来ます」


 その一言に、何かが詰まっていた。


 私はその背中を見送りながら、チャートを更新した。


 進捗:イザベル・ノワール、関係性構築。想定より早い。


 それから、一行。


 イザベル・ノワールは、味方にするより、友人になる方が先かもしれない。


 最後の一行は、やはりチャートの文体ではなかった。


 でも、今回も消さなかった。

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