第5話「幼馴染は過保護が過ぎる」
アレクシス・フォン・ベルモンが屋敷を訪ねてきたのは、式典から二日後のことだった。
「ヴィオレット!」
応接間のドアが開く前に声が聞こえた。マリアンヌが「ノックを」と言う間もなく、茶色の髪の青年が飛び込んできた。
十七歳。ベルモン伯爵家の嫡男。緑の目が、真っ直ぐこちらを見ている。
アレクシス・フォン・ベルモン。土属性。幼馴染。ゲームの中では「自覚なしの片思いキャラ」として登録されている人物だ。
「久しぶりだな! 元気だったか!」
「元気でしたわ。アレクシスこそ、相変わらずドアの使い方が荒いですわね」
「ノックしたぞ」
「一回だけ、扉を開けながら、ですわね」
アレクシスが少し口をへの字にした。子供の頃から変わらない顔だ、と思った。前世の記憶がない頃からの付き合いだから、体がこの人を知っている。
マリアンヌがアレクシスを一瞥して、私に視線を向けた。
「お嬢様、お茶をお持ちします」
「ええ、お願いしますわ」
「ベルモン様のぶんも」とマリアンヌは言った。アレクシスに向けて、ではなく、私に向けて。
アレクシスが「よろしく頼む」と言いかけた瞬間、マリアンヌはすでに部屋を出ていた。
「……あの従女、相変わらず俺への対応が塩だな」
「マリアンヌはああいう人ですわ」
「ヴィオレットには全然違う顔をするくせに」
「そうですか?」
「そうだよ。お前に話しかける時だけ、目が違う」
私は少し考えた。確かに、マリアンヌの私への態度と、他の人への態度は、かなり差がある。本人は平静を装っているが、目が正直すぎる。
「アレクシス、座ってくださいな」
「ああ」
アレクシスが向かいのソファに腰を下ろした。改めて見ると、二年前より背が伸びている。前回会ったのは、去年の夏の社交シーズンだったか。
「聞いたぞ、式典のこと」
「早いですわね」
「貴族社会の噂は速い。ドラクロワ令嬢がラナ・ソワーズを返り討ちにしたって話、もう広まってる」
「返り討ちは言い過ぎですわ。指摘しただけです」
「同じだろ」とアレクシスは言った。少し声のトーンが変わった。「……お前、変わったな」
私は少し警戒した。
「そうですか」
「雰囲気が、なんか違う。前より、落ち着いてる感じがする」
「十二歳になりましたので」
「誕生日で人間がそんなに変わるか?」
変わる、とは言えない。でも嘘もつきたくない。
「少し、考えることがありまして」と私は言った。「将来のことや、自分のことを」
「婚約のことか」
「それも含めて」
アレクシスが黙った。
少しの間、部屋に沈黙が流れた。外から鳥の声が聞こえた。
「……王子のこと、どう思ってる」
「まだよく分からない方ですわ」
「俺は好きじゃない」
「存じています」
「お前は気にしないのか」
「何をですか」
「俺が王子を好きじゃないこと」
私は少し首を傾けた。
「アレクシスの好き嫌いは、アレクシスのものですわ。私がどうこう言うことではないでしょう」
アレクシスが少し目を細めた。
「……やっぱり変わったな、お前」
「そうですか」
「前のお前なら、もっと俺の話に乗ってきた」
それは前のヴィオレットの話だ。でもそうは言えない。
「今日は何か用がありましたか、アレクシス」
「用がないと来てはいけないか」
「いけなくはありませんわ。ただ、あなたが理由なく人を訪ねるタイプでないことは知っていますので」
アレクシスが少し口ごもった。
図星だったらしい。
「……式典の話を聞いて、心配になった」
「心配、ですか」
「ラナに絡んでいく場面を、お前がやったって聞いて。うまくいったのは分かってる。でも、万が一うまくいかなかった時のことを考えると」
「心配してくださってありがとうございます」
「礼を言われると照れるからやめろ」
アレクシスの耳が赤くなった。この家の男性は全員耳が正直だと思っていたが、幼馴染も同じらしい。
ドアがノックされ、マリアンヌがお茶を運んできた。カップを二つ、丁寧にテーブルに置く。アレクシスのぶんは、私のぶんより少し、置くのが丁寧でなかった。気のせいかもしれないが。
「ありがとう、マリアンヌ」
マリアンヌの目が、一瞬だけ潤んだ。
アレクシスが「また泣いてる」と小声で言った。
「目に埃が入りました」とマリアンヌは言って、部屋を出た。
「毎回そのセリフだな」
「定番ですわ」
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お茶を飲みながら、アレクシスはいくつかの話をした。
ベルモン家の近況。学院での出来事。友人たちの動向。話題は次々と変わったが、根っこにあるのは全部、私への近況確認だと分かった。
話しながら、私はアレクシスを観察した。
ゲームの中でのアレクシスは、序盤に登場して「幼馴染ポジション」として機能した後、中盤以降は王子との対比として使われるキャラクターだった。ヒロインに対する攻略対象ではなく、ヴィオレットへの自覚なし片思いキャラとして設定されていた。
実際に会ってみると、確かにその設定は納得できる。
この人は、自分の感情に名前をつけるのが苦手なタイプだ。心配している、気になっている、会いに来た。その全部を「幼馴染として当然のこと」という枠に押し込んで処理している。
だから自覚がない。
そして私が何かをするたびに、その枠が少しずつ揺れる。今日も、「変わったな」という言葉を何度も使った。変わったと思う理由が、気になるからだ。気になる理由を、本人はまだ言語化できていない。
――(内心)これはチャートに書いてある通りだけど、実際に目の前で見るとなんか申し訳ない感じがしますわね。
「ヴィオレット」
「はい」
「聞いてるか」
「聞いていますわ。ベルモン家の馬が新しくなった話でしょう」
「その前の話」
「来月の茶会に出席するかという話でしたわね」
「そうだよ。出るか」
来月の茶会。チャートを確認する。頭の中で。来月の社交イベントには、特に大きなフラグはなかった。ただ、アレクシスが関わる場面は多い。
「出席しますわ」
「そうか」とアレクシスは言った。少し、表情が緩んだ。「なら俺も出る」
「元々出席するご予定では?」
「……まあな」
「では、そちらでまたお話しましょう」
アレクシスがお茶のカップを置いた。そろそろ帰る気配がした。
「一つだけ聞いていいか」
「ええ」
「王子のこと、本当にどう思ってる」
二度目の質問だった。さっきより、少し真剣な顔をしていた。
私は少し考えてから、正直に答えた。
「まだ、よく分からない方ですわ。でも、思っていたよりずっと、複雑な方みたいです」
「複雑、って」
「ゲームのような、単純な方ではないということですわ」
「ゲーム?」
しまった、と思った。
「あ、いいえ。絵本のような、という意味ですわ。単純明快な物語の王子様ではないということです」
アレクシスが少し首を傾けた。疑っている様子ではないが、気になっている様子だった。
「……お前、たまに変なことを言うな」
「よく言われますわ」
「誰に」
「いろいろな方に」
アレクシスは「そうか」と言って立ち上がった。
「帰る。また来る」
「ええ、いつでもどうぞ」
「次は茶会でな」
「楽しみにしていますわ」
アレクシスが応接間を出ていく。廊下で、マリアンヌの「お気をつけて」という声が聞こえた。アレクシスが「相変わらず塩だな」と小声で言った。マリアンヌが「失礼いたしました」と言った。失礼したとは思っていない声で。
しばらくして、玄関が閉まる音がした。
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マリアンヌが応接間に戻ってきて、カップを片付け始めた。
「お嬢様」
「はい」
「ベルモン様は、よくいらっしゃるのですか」
「幼馴染ですから、それなりには。なぜですか」
マリアンヌが少し間を置いた。
「……いえ。ただ、よく見ていらっしゃるな、と思いまして」
「私をですか」
「はい」
私は少し苦笑した。
マリアンヌの観察眼は、時々鋭すぎる。
「幼馴染ですから」と私は繰り返した。
マリアンヌは「そうでございますね」と言って、カップを盆に乗せた。それ以上は何も言わなかった。
代わりに、廊下からジルの声が聞こえた。
「お嬢様、ベルモン様がお帰りになる時、門のところで振り返っていましたよ」
「ジル、立ち聞きはやめなさい」とマリアンヌが言った。
「立ち聞きじゃないです、門番の確認をしていたら聞こえただけです」
「結果は同じです」
「でも情報として有益では?」
「黙りなさい」
私は二人のやり取りを聞きながら、チャートを更新した。頭の中で。
変数:アレクシス・フォン・ベルモン、想定通り。ただし、自覚なしの進行速度が、ゲームより若干早い可能性あり。感情の揺れが、すでに始まっている。
それから、もう一行。
要注意:アレクシスへの対応は、誠実に。ただし、期待を持たせる言動は避ける。この人を傷つけたくない。
最後の一行は、チャートの文体ではなかった。
でも、消さなかった。
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夕方、自室で日誌を書いていると、窓の外でジルの声がした。
「お嬢様、少しよろしいですか」
窓を開けると、ジルが庭から見上げていた。
「何ですか」
「ベルモン様のことなんですけど」
「はい」
「帰り際に、俺に声をかけてきたんです」
「アレクシスが?」
「ええ。『ヴィオレットのことをよく頼む』って」
私は少し黙った。
「それだけですか」
「それだけです。でも顔が、真剣でした」
そうか、と思った。アレクシスは私に直接言わない代わりに、使用人に言った。それがこの人の、遠回しな心配の表現だ。
「ジル」
「はい」
「ありがとう、教えてくれて」
ジルが固まった。
両手で顔を覆った。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。でも夜に窓から顔を出してありがとうって言われると破壊力が」
「窓を閉めますわよ」
「お願いします」
私は窓を閉めた。
部屋の中に戻り、日誌の続きを書いた。
今日の総評:アレクシスとの再会、想定通り。ただし、この人のことを、ゲームのキャラクターとして見るのが、少し難しくなってきた。
ペンを置いて、天井を見た。
ゲームの外側には、ゲームで描かれなかった人間がいる。
それを改めて実感する一日だった。




