第4話「殿下は思ったより観察眼がある」
レオナルド・シグルド・アルヴァレスは、人を観察する癖がある。
物心ついた頃からそうだった。王族として生まれ、次期国王として育てられる過程で、人の表情を読む力、言葉の裏を読む力は、生存本能に近いものとして身についた。誰が本音を言っているか。誰が何かを隠しているか。誰の笑顔が本物で、誰の笑顔が仮面か。
だから、あの令嬢のことが、気になって仕方がない。
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三日前の進級式典のことだ。
ヴィオレット・エルミナ・ドラクロワ。公爵令嬢。闇属性。自分の婚約者。
式典の前から、レオナルドは彼女を観察していた。観察していた、というより、観察せざるを得なかった、という方が正確だ。
理由は単純だ。彼女の動きが、読めなかった。
ドラクロワ令嬢については、それなりの情報を持っていた。高圧的。傲慢。使用人への扱いが悪い。社交界での振る舞いに問題がある。そういった評判は、以前から耳に入っていた。
だから、この婚約がいつまでも続くものだとは思っていなかった。婚約を続けることへの積極的な理由が、見当たらなかった。ただそれだけのことだった。少なくとも、今日の式典を見るまでは。
ところが。
式典の歓談時間に、ラナ・ソワーズがエミリア・サンクレールに絡み始めた場面で、ヴィオレットが動いた。
あの時の彼女の動き方を、レオナルドは今も正確に覚えている。
焦っていなかった。かといって余裕を見せびらかしている様子でもなかった。ただ、計算された動作で、必要な場所に、必要なタイミングで現れた。
そして言った言葉が、感情的でも、権威的でもなかった。
事実だけを、穏やかに、でも広間全体に届く声で言った。
「公の場で誤った前提に基づいてご令嬢を辱めることは、あなたご自身の品位にも関わりますわ」
攻撃ではなかった。警告でもなかった。指摘、だった。
それが、妙に引っかかった。
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「殿下」
ガエルの声で、レオナルドは書類から目を上げた。
執務室。窓から差し込む夕方の光が、机の上の書類を橙色に染めている。
「何だ」
「さっきから同じ書類を三回読んでいます」
レオナルドは書類に視線を戻した。確かに、内容が頭に入っていなかった。
「……気のせいだ」
「気のせいにしては、ペンが三分止まっていましたが」
「ガエル」
「はい」
「余計なことを言うな」
「承知しました」とガエルは言った。言ったが、椅子を引いて勝手に座った。「ドラクロワ令嬢のことを考えていましたか」
レオナルドは答えなかった。
答えなかったことが、答えになった。
「やっぱり」とガエルは言った。笑っている気配がした。「俺も気になりましたよ、今日の令嬢は」
「どこが」
「どこが、って聞くんですね」
「情報収集だ」
「そういうことにしておきます」ガエルが少し姿勢を変えた。「俺が令嬢に直接話しかけた時の話、しますか」
「聞く」
「殿下がご覧になっていたことを伝えたんです。そうしたら令嬢、動じなかったんですよ」
「動じなかった」
「ええ。普通は少し緊張するか、嬉しそうにするか、どちらかじゃないですか。殿下に見られていたと知ったら。でも令嬢は、ただ『お気遣い、痛み入りますと殿下にお伝えください』って」
レオナルドは少し考えた。
「感情が読めなかったか」
「むしろ逆です」ガエルは言った。「感情は表情に出ていた。ちゃんと反応していた。でも、それを言葉に乗せなかった。感情と言葉を、きちんと分けて使っている感じがしました」
「……それは」
「珍しいと思います」とガエルは続けた。「俺が会ってきた貴族令嬢の中で、あそこまで意図的に言葉を選んでいる方は、そういない」
レオナルドは書類をそっと机に置いた。
「ドラクロワ令嬢について、分かっていることをまとめろ」
「今すぐですか」
「ああ」
ガエルが少し表情を引き締めた。普段の軽薄な雰囲気が、わずかに変わる。こちらが本来のガエルだ、とレオナルドは知っている。
「ヴィオレット・エルミナ・ドラクロワ。十二歳。闇属性。ドラクロワ公爵家の一人娘。以前の評判は先ほど殿下がご存知のとおり。ただし」
「ただし」
「直近三日で、複数の人間が令嬢の変化に気づいています。具体的には、今日の式典で令嬢を見ていた令嬢たちが、終了後に話し合っていた内容を耳にしました。要約すると、『ドラクロワ令嬢が変わった』です」
「三日で人間は変わらない」
「そうですね」とガエルは言った。「だから、変わったのではなく、見せていなかったものを見せ始めた、のかもしれません」
レオナルドは窓の外を見た。夕暮れの空が、じわじわと暗くなっていく。
「エミリア・サンクレールとの接触についてはどう見る」
「令嬢がエミリアを助けたことは、本心からだと思います。計算もあったと思いますが、計算だけではなかった。エミリアを見た時の目が、分析じゃなかったので」
「どんな目だった」
「面白いものを見つけた人の目、でした」
レオナルドはしばらく黙った。
ガエルの観察は、大抵正確だ。だから今の言葉も、おそらく正確なのだろう。
「引き続き、情報を集めろ」
「承知しました」とガエルは立ち上がった。「ただ、殿下」
「なんだ」
「自分で話しかけてみるのが、一番早いと思いますよ」
レオナルドは答えなかった。
ガエルは笑いながら、執務室を出ていった。
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一人になった執務室で、レオナルドは再び書類に向かった。
今度は、内容が頭に入ってきた。集中できた。
でも、ペンを走らせながら、頭の一部がずっと、別のことを考えていた。
ヴィオレット・エルミナ・ドラクロワ。
評判どおりの人間ではない。それは確かだ。では、評判とどう違うのか。どこまでが本当で、どこからが演技なのか。演技だとしたら、何のための演技なのか。
分からない。
レオナルドは、分からないことが嫌いだった。特に、自分の周囲にいる人間のことが分からないのは、居心地が悪かった。
だから観察する。情報を集める。分析する。
それが自分のやり方だった。
だが、とレオナルドは思った。
今日の令嬢は、自分が観察しているのに気づいていた。気づいた上で、にっこりと微笑んで、視線を外した。
あれは何だったのか。
動じなかったのか。気にしなかったのか。それとも、気づいた上で、意図的に無視したのか。
どれなのか、判断できなかった。
レオナルドは書類を一枚、机の端に移した。
判断できないことは、もう少し情報を集めてから結論を出す。それが自分のやり方だ。
ただ、一つだけ、今日の時点で判断できることがあった。
ヴィオレット・エルミナ・ドラクロワは、思っていたより、はるかに興味深い人間だ。
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その夜、ガエルが執務室に戻ってきた。
「一つ、追加の情報があります」
「言え」
「令嬢の従僕が、今日の式典の前後、屋敷の周辺を警戒していたようです。密偵の存在を事前に把握していて、対応していた」
レオナルドは少し眉を動かした。
「十二歳の令嬢が、密偵の動きを把握している」
「従僕がよく動く方らしいです。ただ、令嬢が指示を出していた可能性があります」
「……なぜそう思う」
「令嬢の帰りの馬車が屋敷に着いた時、兄君のクロード・ドラクロワ卿が門の前で待っていたのですが、令嬢は『今日は少しだけ何かあった』と話していたそうです。密偵については話さなかった。つまり、既に処理済みだったということです」
レオナルドはしばらく黙った。
「情報管理を、自分でやっている」
「そう見えます」
十二歳で、自分の周囲の安全管理に気を配り、情報を選別して兄に伝え、式典では場を完璧に読んで動く。
評判と、あまりにも違う。
「ガエル」
「はい」
「明後日の茶会の出席者リストを確認しろ。ドラクロワ令嬢が出席する予定の集まりがあれば、報告しろ」
ガエルが一瞬、動きを止めた。
「……自分で話しかけるおつもりですか」
「情報収集だ」
「そういうことにしておきます」
ガエルはにっこり笑って、執務室を出ていった。
レオナルドは窓の外を見た。夜の空に、月が出ていた。
ヴィオレット・エルミナ・ドラクロワ。
婚約破棄を検討していた相手の名前が、今夜は違う重さで、頭の中に残っていた。




