第3話「進級式典、最高の自己紹介にします」
式典当日の朝は、マリアンヌが一時間早く起こしに来た。
「お嬢様。本日は式典でございます」
「分かっていますわ、マリアンヌ」
「念のため申し上げます。本日は式典でございます」
「二回言いましたわよ」
「念のためですので」
マリアンヌの「念のため」は、実質「重要事項の確認」と同義だと学習していた。彼女が二回言う時は、それ相応の理由がある。
「何かありましたか」
マリアンヌは一拍置いてから答えた。
「昨夜、ジルが屋敷の周辺を見回ったところ、見慣れない馬車が二台、界隈をうろついていたそうです」
「……また密偵ですか」
「断定はできませんが、念のためジルに引き続き確認させています」
私は起き上がりながら考えた。
式典当日に探りを入れてくる勢力がある、ということだ。ゲームのシナリオには、この時期に動く敵対勢力の描写はなかった。これも想定外の変数だ。
「ジルに伝えてください。無理はしないようにと」
「伝えます。ただ」
「ただ?」
「ジルは無理と適切な判断の区別が独特ですので、あまり期待はできません」
「……そうですね」
私は苦笑しながらベッドから降りた。今日は長い一日になる。
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身支度は、マリアンヌが完璧に仕上げてくれた。
深紫のドレス。ドラクロワ家の色だ。悪役令嬢らしい、と言われれば否定しない。でも今日は、この色を「武器」として使う。目立つことは最初から計算に入っている。
髪を整えながら、マリアンヌが鏡越しに私を見た。
「お嬢様」
「はい」
「今日の式典で、何かなさるおつもりですか」
私は少し驚いて、鏡の中のマリアンヌを見返した。
「なぜそう思いますか」
「三日前から、お部屋で何かを書いていらっしゃいました。昨日は夕食後も考え込んでいらっしゃいました。それから、今朝の目が、いつもと違います」
「どう違いますか」
「決まっている人の目、です」
私は少し沈黙した。
マリアンヌは鏡から視線を外し、髪を整える作業に戻った。それ以上は聞かなかった。
「マリアンヌ」
「はい」
「今日、何かあっても、驚かないでくださいね」
マリアンヌの手が一瞬だけ止まった。
「……お嬢様がなさることであれば」と彼女は言った。「驚くことはございません」
その言葉の重さを、私は静かに受け取った。
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玄関ホールに降りると、ジルが待っていた。
いつもと違い、若干きちんとした格好をしている。従僕服の釦が全部留まっていた。
「お嬢様、馬車の準備ができています。それと、さっきの馬車の件ですが」
「分かりました。続けて」
「昨夜の二台は今朝には消えていました。ただ御者の顔を記憶してあるので、また見かけたら追います」
「追わなくていいですわ。記録だけしておいてください」
「……本当に追わなくていいですか」
「いいです」
「分かりました」と言ったが、顔が少し残念そうだった。
クロード兄さんが階段を降りてきて、私の姿を見た。
「……今日は、いつもより気合いが入っているな」
「そうですか」
「ドレスの色が、よく似合っている」
「お兄様に言っていただけると心強いですわ」
クロード兄さんの耳がまた赤くなった。ジルが小声で「クロード様の耳センサーが反応しました」と言い、マリアンヌに脇腹を肘で突かれた。
「兄さん」とクロード兄さんは咳払いをした。「何かあれば、すぐに俺に言え」
「はい、お兄様」
「ジル、マリアンヌ、頼んだ」
二人が同時に一礼した。その揃い方は完璧だった。普段どれだけバラバラでも、こういう時だけ息が合う。不思議な二人組だと思う。
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王立魔法学習院の大広間は、春の光の中で花に飾られていた。
色とりどりのドレスの令嬢たち。礼服の子息たち。先生方の厳粛な表情。そして、会場の上座に設けられた来賓席。
私は会場に入った瞬間、視線が集まるのを感じた。
ドラクロワ公爵家の令嬢。闇属性。王子の婚約者。悪役令嬢の肩書きを持つ存在として、この場でどう振る舞うかを、全員が見ている。
――(内心)見ていてください。今日の私は一味違いますわよ。
口から出た言葉はなかった。ただ、背筋を伸ばして歩いた。
会場の端で、マリアンヌが目立たない位置に控えた。ジルは馬車のそばに残っている。この配置は出がけに二人で決めていた。連携が早い。
来賓席の方向に、自然な動作で視線を流した。
黒髪。金眼。整った横顔。
レオナルド・シグルド・アルヴァレス第一王子が、来賓席に着いていた。側近の騎士が一人、その隣に立っている。赤毛の、人懐こそうな顔の青年だ。ゲームのキャラクター、ガエル・ミレイユだろう。
王子はこちらを見ていなかった。正面を向いて、式典の開始を待っている。
――ゲームどおりの「鉄壁クール系」の顔だ。でも昨日の式典では、あんなにまっすぐ私を見ていた。どちらが本当の顔なのか、まだ判断できない。
私は視線を前に戻し、自分の席に向かった。
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式典は滞りなく進んだ。
学院長の挨拶。新学年の抱負の言葉。来賓の祝辞。私は適切なタイミングで頷き、適切な表情を保った。隣の席の令嬢が二度ほど、こちらをちらちら見たが、目が合うと慌てて逸らした。
怖がられている。まあ、そうだろう。前のヴィオレットの評判は、この学院内でも相当なものだったはずだ。
それを今日から、少しずつ変えていく。
式典が終わり、歓談の時間に移った。
私はすぐには動かなかった。まず、広間の全体を見渡す。どこに誰がいるか。どんな動きがあるか。三日間チャートを書きながら想定したシナリオを、現実の光景に重ねていく。
いた。
栗色の巻き毛。こぢんまりとした体格。淡いクリーム色のドレス。少し緊張した面持ちで、でも姿勢だけはまっすぐな少女。
エミリア・クロエ・サンクレール。
男爵令嬢。ゲームのヒロイン。そして本来であれば、私が断罪される原因になる存在。
彼女は今、広間の隅に一人で立っていた。知り合いがいないのか、声をかけにくい雰囲気があるのか、どちらかだろう。
そしてその方向に、ラナ・ソワーズが歩いていくのが見えた。
伯爵令嬢。取り巻き数人を連れている。顔に、目的のある表情をしていた。
――来た。
私はヒールの音を響かせて、歩き出した。
計算した歩幅で。計算した速さで。でも焦らずに。
「あら、サンクレール男爵令嬢?」
ラナの声が聞こえた時、私はすでに半分の距離まで詰めていた。
「男爵家の方がこの場にいらっしゃるなんて。場違いだとはお思いにならないのかしら」
周囲のくすくす笑い。エミリアの肩が小さく強ばる。でも足は動かない。逃げない。
やっぱりこの子は、芯がある。
「まあ」
私が声を出した瞬間、広間の空気が変わった。
ラナが振り向いた。顔色が変わった。
「ヴィオレット様」
私はラナとエミリアの間に、ゆっくりと歩み入った。
「ラナ・ソワーズさん。少々よろしいかしら」
「は、はい、もちろん……」
「先ほど、サンクレール令嬢のことを『場違い』とおっしゃいましたわね」
「ええ、身分というものが――」
「この学院は」と私は穏やかに、でもよく通る声で言った。「王国が認めた魔力を持つ者であれば、家格に関わらず入学が許可されます。これは学院設立の際の勅令に明記されていることですわ。ご存知ではなかったかしら?」
ラナが固まった。
広間が静かになっていく。
歓談の時間の、あちこちで途切れていた会話が、止まっていく。視線が集まっていく。
「…………」
「ご存知でなかったのでしたら、仕方ありませんわ」
私は声のトーンをわずかに下げた。怒鳴らない。でも届く。広間全体に、きちんと届く程度に。
「ただ、公の場で誤った前提に基づいてご令嬢を辱めることは、あなたご自身の品位にも関わりますわ。今後はお気をつけになって」
ラナは何も言えなかった。
取り巻きの令嬢たちが目を逸らした。ラナは表情を固くしたまま、静かに引いていった。
広間に、しばらく沈黙が続いた。
それから、誰かがぽつりと何かを言い、また少しずつ会話が戻り始めた。でも空気は、さっきとは違う。
私はエミリアに向き直った。
彼女は、ぱちぱちと瞬きをしていた。栗色の目が、私をまっすぐ見ている。
近くで見ると、思ったより表情が豊かだ。ゲームのグラフィックでは「清楚系ヒロイン」の一言で済んでいたが、実際には感情がよく顔に出る。今も、驚きと戸惑いと、何か別の感情が入り混じっているのが分かった。
「あの……」
「大丈夫ですか?」
「は、はい……。ありがとうございます、ヴィオレット・ドラクロワ様」
「困っていらっしゃるようでしたので」
それだけですわ、と言って、私は軽く頷いた。
エミリアが何か言いかけた。でもそれより先に、視線を感じた。
広間の端。石柱の傍に立つ黒髪の青年が、まっすぐこちらを見ていた。
レオナルド。
目が合った。
私はにっこりと微笑んで、視線を外した。
――(内心)わ、やっぱりイケメンだ。昨日より近い。解像度が上がった。
「ヴィオレット様」
エミリアがもう一度呼んだ。さっきより少し、柔らかい声だった。
「あの、ひとつだけ、聞いてもいいですか」
「ええ」
「なぜ、助けてくださったんですか」
私は少し考えた。
正直に言えば、「シナリオの修正のため」だ。でもそれは言えない。かといって嘘をつくのも違う。
「困っている方がいたので」と私は言った。「それと」
「それと?」
「あなたの目が、逃げていなかったから」
エミリアがきょとんとした。
「逃げていないというのは」
「ラナさんに何か言われても、足が動いていなかったでしょう。逃げようと思えば逃げられたのに、そうしなかった。そういう方は、助ける価値がありますわ」
エミリアはしばらく黙った後、少し頬を染めた。
「……変なことを言う方なんですね、ヴィオレット様は」
「よく言われますわ」
「悪い意味じゃないです」とエミリアは慌てて言った。「ただ、その、思っていた方と違ったので」
「どんな方を思っていましたか」
エミリアが少し口ごもった。
「……こわい方だと、聞いていたので」
正直な子だ、と思った。ゲームのヒロインとして、天然で芯が強いというのは本当だった。
「そうですわね」と私は言った。「怖いかどうかは、これから判断してくださいな」
エミリアが、今度はっきりと笑った。
「はい」
短い返事だったが、その一言に、何かが詰まっていた。
私は踵を返して歩き出した。
広間の端で、マリアンヌが控えている。その目が、わずかに潤んでいた。またか、と思ったが、今回は何も言わないことにした。
歩きながら、頭の中でチャートを更新する。
進捗:エミリアとの関係、マイナスからプラスへ。想定より早い。第一印象、観客の前で刷新完了。
それから、一行。
新変数:エミリア・サンクレール、想定より正直。扱いやすいが、予測が難しいタイプ。
さらに一行。
王子の視線:今日は昨日より長かった。観察している。こちらも観察を続ける。
チャートの更新を終えたところで、後ろから足音が聞こえた。
「ヴィオレット様」
男性の声だった。
私は足を止め、振り返った。
そこに立っていたのは、赤毛の青年だった。人懐こい顔。笑みを浮かべている。式典の時、王子の隣にいた人物だ。
「ガエル・ミレイユと申します。殿下の側近を務めております」
「存じています」と私は言った。「ミレイユ卿」
「ああ、ご存知でしたか。それは嬉しい」ガエルは屈託なく笑った。「先ほどのこと、殿下もご覧になっておりました」
「そうですか」
「それだけを伝えに来ました」
「……それだけ、ですか」
「はい」
私はガエルを少し観察した。ゲームの中でのガエルは、レオナルドの幼少期からの友人で、「レオ」と呼べる数少ない一人だ。表向きは軽薄に見えるが、実は最も王子の心中を理解している人物でもある。
「伝言、承りましたわ」と私は言った。「殿下によろしくお伝えください」
「何とお伝えすればよいですか」
私は少し考えた。
「お気遣い、痛み入りますと」
ガエルがにっと笑った。
「伝えます。――面白い方ですね、ヴィオレット様は」
「よく言われますわ」
「今日で二度目ですよ、その台詞」
「そうですわね」
私は小さく微笑んで、歩き出した。
ガエルの笑い声が、後ろで小さく聞こえた。
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帰りの馬車の中で、マリアンヌが一言だけ言った。
「今日のお嬢様は、とても……」
「とても?」
「……かっこよかったです」
マリアンヌが「かっこいい」という言葉を使ったのが、想定外すぎて、私は少し固まった。
「マリアンヌ、そういう言葉を使うのですね」
「失礼いたしました。美しかった、と言い直します」
「どちらでも構いませんわよ」
「では両方、と申し上げます」
私は窓の外を見た。夕暮れの街並みが流れていく。
御者台からジルの声が聞こえた。
「お嬢様、俺も同じ意見です!」
「ジル、前を向きなさい」とマリアンヌが即座に言った。
「向いてますよ! 心が振り返っているだけです!」
「意味が分かりません」
私はくすりと笑った。
馬車が屋敷に向かって進む間、私は今日のことを頭の中で整理した。
エミリアとの最初の接触。ガエルからの伝言。そして、王子の視線。
チャートどおりに進んだ部分と、そうでない部分がある。エミリアが想定より素直だったこと。ガエルが直接話しかけてきたこと。王子が昨日より長く見ていたこと。
全体的には、悪くない。
むしろ、想定より早く動いている。
問題は、早く動きすぎると、後半の調整が難しくなることだ。ゲームのシナリオは三年かけてじっくり進む設計になっていた。私が前半に印象を大きく変えすぎると、後半のイベントが変質する可能性がある。
もう少し、丁寧にやらなければいけない。
とはいえ、今日の選択は正しかったと思う。
エミリアを助けたこと。ガエルに対して礼を持って接したこと。王子の視線に対して、冷静でいられたこと。
チャートに最後の一行を書き加える。頭の中で。
本日の総評:第一手、成功。ただし調整は慎重に。
屋敷の門が見えてきた。
門の前に、クロード兄さんが立っていた。腕を組んで、馬車を待っていたらしい。
馬車が止まると、ジルが御者台から飛び降りてドアを開けた。私が降りると、クロード兄さんが近づいてきた。
「どうだった」
「滞りなく終わりましたわ」
「何かあったか」
「少しだけ」
クロード兄さんは私の顔を見た。それだけで、何かを読んだらしい。
「……うまくやったんだな」
「お兄様には敵いませんわね、そういう勘は」
「妹の顔を十二年見てきたからな」
私は少し笑った。
「今日は疲れましたわ。夕食の後、少し早めに休みます」
「分かった」とクロード兄さんは言った。それから、小さな声で付け加えた。「……よくやった」
私は返事をしなかった。
ただ、屋敷の中に入りながら、胸の中が少しだけ温かくなったのは、気づいていた。
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その夜、チャートを書き終えた後、私は窓の外を見た。
夜のドラクロワ家の庭園は、静かだった。月明かりが薔薇の白い花びらを照らしている。
庭の隅で、ジルが何かを確認していた。夜の見回りらしい。
私は窓を少し開けた。
「ジル」
ジルが顔を上げた。
「お嬢様、窓を開けると冷えます」
「少しだけですわ。今日もありがとう」
ジルが固まった。
月明かりの中で、両手で顔を覆った。肩が震えた。
「……お嬢様が夜に窓から……っ」
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。大丈夫なので窓を閉めてください。マリアンヌさんに怒られます」
「そうですわね」
私は窓を閉めた。
部屋の扉の前で、マリアンヌが「お嬢様、窓を開けていらっしゃいましたね」と言った。
「少しだけですわ」
「ジルが泣いていましたね」
「少しだけですわ」
マリアンヌが静かに息をついた。
「お休みなさいませ、お嬢様」
「ええ。おやすみなさい、マリアンヌ」
灯りが消えた。
暗い部屋の中で、私は天井を見上げた。
今日一日で、いくつかの駒が動いた。エミリア。ガエル。そして王子の視線。
三年後の断罪イベントまで、まだ時間はある。
でも、この世界はゲームより速く動いている。
それは、脅威でもあるけれど。
――(内心)正直、悪くないですわ。
口から出た言葉はなかった。
ただ、目を閉じながら、私は静かに思った。
さあ。
次のイベントまで、準備を続けましょうか。




