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悪役令嬢は攻略本を持っている  作者: N


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2/10

第2話「お父様、便箋三枚はやめてください」

 翌朝、私の部屋に手紙が届いた。


 差出人はエドモン・ドラクロワ。つまり父だ。


 同じ屋敷に住んでいる。廊下を三十秒歩けば執務室がある。それでも父は、娘に手紙を書く人だった。しかも毎回、便箋三枚。達筆で、几帳面で、最後は必ず「お前のことを誇りに思う」で締まる。


 手紙を持ってきたのはジルだった。


 「お嬢様、お父様からお手紙です」


 「ありがとう、ジル」


 ジルが盆ごと手紙を差し出した瞬間、動きが止まった。


 「……ジル?」


 「いえ、なんでも。ありがとうって言っていただけたので少々」


 「少々では済んでいませんわよ、その肩の震え方は」


 「大丈夫です。慣れます。たぶん」


 傍らでマリアンヌが「いつ慣れるんですか」と呟いた。ジルは「もうちょっとで慣れます」と答えた。この二人のやり取りは朝から安定している。


 私は手紙を受け取り、封を開けながら、すでに少し覚悟していた。


 一枚目。昨日の誕生日がいかに感動的だったか。


 二枚目。ヴィオレットが生まれた日の回顧録。どんな天気だったか、初めて泣き声を聞いた瞬間どう思ったか、最初に笑いかけてくれた時何を感じたか。


 三枚目。これからも健やかに育ってほしいという願いと、ドラクロワ家の娘として誇りある生き方をしてほしいという期待と、「父はいつでもお前の味方だ」という宣言。


 最後の一行。「お前のことを誇りに思う」。


 私は手紙を丁寧に畳んで、引き出しにしまった。


 ――(内心)お父様、重い。愛が重い。でもなんか泣きそう。


 口から出た言葉は、「まあ、お父様ったら」という、どこか困ったような、でも温かい呟きだった。


 前世では父親とほとんど話したことがなかった。仕事が忙しかったし、帰省する余裕もなかった。最後に声を聞いたのがいつだったか、正直思い出せない。


 だからこの手紙の重さは、少し、胸に刺さる。


 いい意味で。


 「お嬢様」とマリアンヌが静かに言った。「お顔の色が、少し赤うございます」


 「……そうですか」


 「お加減が悪ければ、今日の外出はお控えになった方が」


 「いいえ、大丈夫ですわ。少し、感動しただけです」


 マリアンヌが一瞬だけ目を細めた。泣きそうなのを堪えているときの顔だ、と私はすでに学習していた。


 「……よろしゅうございました」と彼女は言った。声は完璧に平静だった。


---


 朝食を終えた後、私は約束通り、執務室へ向かった。


 昨日の誕生日に、父から「明日、少し時間を取れるか」と言われていたのだ。用件は聞いていない。でも、指輪に関係することだろうとは思っていた。


 廊下を歩いていると、角でジルが待ち構えていた。


 「お嬢様、執務室までお供します」


 「ここから三十秒の距離ですわよ」


 「存じております。でも万が一がありますので」


 「万が一、廊下で何かが起きると?」


 「昨日の密偵の件もありますし」とジルは人懐こい笑顔のまま言った。「今日も一応、念のため」


 私は少し考えてから、「ではお願いしますわ」と言った。


 ジルが「任せてください」と胸を張った。その三歩後ろで、マリアンヌが音もなくついてきていた。


 三十秒の廊下を、三人で歩いた。


---


 執務室のドアをノックすると、「入れ」という低い声がした。


 「ではここで」とジルが扉の前で立ち止まった。「終わりましたらお声がけを」


 「ありがとう、ジル。マリアンヌも」


 二人が同時に動きを止めた。


 ジルは顔を両手で覆った。マリアンヌは前を向いたまま、涙が一筋伝った。


 「……お二人とも、大丈夫ですか」


 「「はい」」


 声だけは揃っていた。


 私は小さく息をついて、執務室のドアを開けた。


---


 エドモン公爵の執務室は、広くて暗い。窓はあるが、分厚いカーテンが引かれていることが多い。壁一面の本棚、重厚な木製の机、そして至るところに積まれた書類の山。王国最強の魔法使いの部屋にしては、恐ろしく事務的な空間だった。


 父は机の前に座っており、私が入るなり立ち上がった。


 「ヴィオレット。昨日はよく眠れたか」


 「はい、お父様。手紙も拝読しましたわ」


 父の耳が、わずかに赤くなった。クロード兄さんと同じ反応だ。この家の男性は全員、耳が正直すぎる。


 「……あれは、その、書きたいことが多くて」


 「三枚は少し多うございましたわ」


 「四枚になりかけたんだ。削った」


 私は何も言わなかった。


 父が咳払いをして、「座れ」と革張りの椅子を示した。私は素直に座り、父が机の前に戻るのを待った。


 「昨日渡した指輪のことだ」と父は言った。「説明が足りなかった」


 「魔力を安定させる魔道具、とおっしゃっていましたわね」


 「それだけではない」


 父は机の引き出しから、古びた革張りの冊子を取り出した。表紙には、ドラクロワ家の紋章が刻まれている。開くと、几帳面な筆跡で何かが書き連ねられていた。


 「ドラクロワ家の闇魔法に関する記録だ。歴代当主が書き継いできた」


 私は冊子を受け取り、最初のページを開いた。


 そこに書かれていたのは、闇属性の魔法の特性と、その制御に関する詳細な記録だった。魔力の流れ、感情との連動、制御を誤った場合のリスク。そして、代々の使い手がどのように力と向き合ってきたか。


 「闇魔法は感情と連動しやすい」と父は言った。「喜怒哀楽、特に強い感情が引き金になる。幼い頃は制御が難しく、当家では代々、一定の年齢になったら魔道具で魔力を安定させてきた」


 「昨日の指輪が、それですね」


 「ああ。十二歳というのは、闇属性の使い手にとって魔力が急激に増大する時期だ。指輪がなければ、感情の起伏に引っ張られて魔力が暴走する可能性がある」


 私は指輪を見た。深い紫の宝石が、執務室の薄明かりの中で静かに光っている。


 「……暴走、というのは」


 「周囲のものを傷つける、という意味ではない」父は少し言葉を選ぶように間を置いた。「自分が傷つく、という意味だ。闇魔法は内向きに作用する性質がある。感情が乱れると、自分の魔力が自分を削る」


 私はしばらく黙った。


 ゲームの設定には、そこまで詳しい記述がなかった。攻略本に載っていたのは「ヴィオレットは闇属性」という事実だけで、その詳細については触れられていなかった。


 つまりこれは、ゲームの外側にある情報だ。


 ――(内心)チャートに載ってない情報が、もうこんなに出てきた。やっぱり現実はゲームより複雑ですわ。


 「お父様」と私は言った。「つまり、私が感情的になりすぎると、自分が危ない、ということですか」


 「正確には、制御できない感情の爆発が続くと、魔力が内側から消耗される。指輪がそれを緩和するが、完全に防げるわけではない。だから」


 父が、少し声のトーンを変えた。


 「辛いことがあれば、父に言え。一人で抱えるな」


 私は思わず父の顔を見た。


 四十八歳の、威圧感のある顔。でも今は、その目がひどく真剣で、ひどく心配そうで。


 編集者時代の私には、こういう顔をしてくれる人がいなかった。誰も「辛いことがあれば言え」とは言ってくれなかった。言われたとしても、言える状況ではなかった。


 だから今、これが少し、堪えた。


 「……はい、お父様」


 私は微笑んだ。お嬢様らしく、きちんと。


 でも声が、わずかに低くなったのは、おそらく気づかれた。


 父は何も言わなかった。ただ、「覚えておけ」とだけ繰り返した。


---


 執務室を出ると、ジルとマリアンヌが扉の両脇で待っていた。


 ジルが「お疲れ様です」と言い、マリアンヌが一礼した。


 「お話は終わりましたか」とマリアンヌが言った。


 「ええ」


 「お顔の色が、先ほどより落ち着いています」


 「少し、いい話を聞きましたわ」


 マリアンヌはそれ以上聞かなかった。ジルも珍しく黙っていた。


 三人で廊下を歩き始めると、ジルが「お父様、何とおっしゃっていたんですか」とさりげなく言った。


 「秘密ですわ」


 「ですよねえ」


 「でも、いいお父様ですわね」


 ジルが少し笑った。今度は肩を震わせなかった。ただ、普通に、穏やかに笑った。


 「ええ、本当に」と彼は言った。「いい家です、ドラクロワは」


 マリアンヌが小さく頷いた。


 私は前を向いたまま、それを聞いていた。


---


 廊下に出ると、クロード兄さんが壁に背をもたせかけて待っていた。


 ジルを見て「ご苦労」と言い、マリアンヌに頷き、それから私を見た。


 「終わったか」


 「はい。魔法の話でしたわ」


 「そうか」


 クロード兄さんは歩き出しながら、何でもないように言った。


 「父上が心配していた。昨日の誕生日から、お前の様子がどこか違うと」


 私は少し驚いた。


 「違う、とは」


 「うまく言えないそうだ。でも、いつもより少し、遠いところを見ているような気がする、と」


 私は黙って歩いた。


 そうか、と思った。父は気づいていたのか。十二年育ててきた娘の目が、誕生日の朝から変わったことに。


 さすが、王国最強の魔法使いである。人の変化を見抜く目まで鋭い。


 後ろでジルが「確かに少し違いますよね」と小声で言った。マリアンヌが「黙りなさい」と即座に返した。


 「心配をおかけしましたわ」と私は言った。「少し、考えることがありまして」


 「何を」


 「将来のことですわ。いろいろと」


 クロード兄さんは足を止めた。私も止まった。ジルとマリアンヌも、少し距離を取って立ち止まった。


 「ヴィオレット」


 「はい」


 「婚約のことか」


 私は少し考えてから、正直に答えた。


 「そのことも、含まれますわ」


 兄はしばらく黙った。それから、低い声で言った。


 「王子のことが、不安か」


 「不安というより」と私は言葉を選んだ。「まだ、よく分からないのですわ。どんな方なのか」


 これは本当のことだった。ゲームの設定と実際の人物が乖離していることは、昨日の式典で既に感じていた。「鉄壁クール系」のはずの王子が、私のことをあんなにまっすぐ見ていた。あの目は、ゲームの設定にはなかった。


 「王子は」とクロード兄さんは言った。「真面目な男だ。俺が見た限り、誠実さはある。ただ」


 「ただ?」


 「お前に相応しいかどうかは、まだ分からない」


 私は思わず笑った。


 「お兄様、それは少し基準が高すぎませんか」


 「高くない。お前が高いんだ」


 後ろからジルの「そうですよ、お嬢様は高いんですよ」という声が聞こえた。マリアンヌの「あなたは黙っていてください」という声も続いた。


 「……お兄様」


 「なんだ」


 「過保護が過ぎますわ」


 クロード兄さんの耳が、また赤くなった。


 「事実を言っているだけだ」


 そう言って、さっさと歩き出した。私はその背中を見ながら、口元が緩むのを止められなかった。


---


 午後、私は自室で攻略チャートの続きを書いた。


 マリアンヌは部屋の隅で裁縫をしている。ジルは「庭を見てきます」と言って出ていったが、たぶん庭の警戒をしている。この二人の仕事の仕方は、言葉と中身が微妙にずれていることが多い。


 今日の父との会話で、新しい情報が入った。闇魔法と感情の連動。制御を失った場合のリスク。これはゲームの設定にはなかった要素だ。


 つまり、私が強い感情を持てば持つほど、魔力の制御が難しくなる可能性がある。


 問題は、私がこれから「感情を揺さぶられる場面」を自分で作りにいこうとしていることだ。


 王子に近づく。ヒロインと関わる。社交界で目立つ。どれも、感情が動く場面ばかりだ。


 ただ、だからといって攻略方針は変えない。


 感情が動くこと自体は問題ではない。制御できなくなることが問題だ。動いた感情を、きちんと自分の内側で処理できれば、魔力への影響は最小限に抑えられる。


 編集者時代、私はそれが得意だった。締め切りの重圧も、作家とのぶつかり合いも、思い通りにならない原稿も、全部一度飲み込んで、次の手を考える。感情を動力にして、でも感情に飲まれない。


 それをここでもやればいい。


 チャートに書き加える。


 注意事項:感情の制御を怠らない。特に、王子関連のイベントでは慎重に。


 それから、もう一行。


 現時点の変数:父が私の変化に気づいている。クロード兄さんも観察している。ジルとマリアンヌも、何かを感じ取っている可能性あり。家族と使用人の観察眼、予想以上に鋭い。


 ペンを置いて、窓の外を見た。


 庭園の薔薇が、午後の光の中で白く輝いている。庭の隅で、ジルが何かを確認しているのが見えた。花の世話なのか、警戒なのか、両方なのか。


 「マリアンヌ」


 「はい、お嬢様」


 「ジルはいつもああなのですか」


 マリアンヌが裁縫の手を止めずに答えた。


 「ジルは、仕事が終わると必ず庭を一周します。見回りと称していますが、実際は花の状態を確認しているようです」


 「好きなのですか、花が」


 「本人は否定します」


 私は少し笑った。


 「マリアンヌは、ジルのことが嫌いですか」


 一瞬の間があった。


 「……嫌いではございません」とマリアンヌは言った。「ただ、もう少し真面目にしていただければと思うことはございます」


 「でも仕事は完璧でしょう」


 「……はい」認めたくなさそうに、でも正直に。「それだけは、認めております」


 私はチャートをしまい、背もたれに体を預けた。


 この三年間で起きることを、私は知っている。どんなイベントが待っているか。どんな敵が現れるか。どんな局面で判断を迫られるか。全部分かっている。


 でも、知らなかったことも、少しずつ増えている。


 父の言葉。兄の観察眼。マリアンヌの涙。ジルの庭の見回り。


 ゲームの攻略本には載っていなかった、この屋敷の日常が、少しずつ私の中に積み上がっていく。


 一人でやるけれど、一人ではない。


 それは、前世とは全然違う条件だ。


---


 その夜、夕食の席で、父から二枚目の手紙が渡された。


 本日付け。同じ屋敷の住人から。


 給仕のジルが、盆の脇にそっと置かれた封筒を私の前に差し出した。その顔が心なしか「覚悟してください」と言っていた。


 私は無言で受け取り、封を開けた。


 一枚目。今日の話し合いを終えて感じたこと。


 二枚目。ヴィオレットが成長していることへの感慨。


 私は手紙をそっと畳み、父を見た。父は「なんだ」という顔をしていた。


 「お父様」


 「なんだ」


 「お手紙は、一枚でよろしいですわ」


 「……善処する」


 クロード兄さんが小さく噴き出した。母が「まあ」と上品に笑った。


 父だけが、真剣な顔のまま、スープを一口飲んだ。


 給仕の位置に戻ったジルが、こっそり親指を立てた。何に対しての親指なのか、よく分からなかった。マリアンヌが目で「やめなさい」と言った。ジルが親指を下ろした。


 私は笑いをこらえながら、夕食を続けた。


 温かい食卓だった。


 ――(内心)これは守る価値がある。絶対に守る。


 口から出た言葉はなかった。


 ただ、胸の奥が、静かに決まった気がした。

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