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悪役令嬢は攻略本を持っている  作者: N


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1/10

第1話「悪役令嬢に転生しました、対策済みです」

 私が死んだのは、三月の終わりだった。


 残業、残業、また残業。デスクに積み上がった赤入れ原稿と、冷めきったコンビニのコーヒー。乙女ゲーム専門の出版社で編集者をしていた私――桐島澪、享年二十八歳――は、担当作品『薔薇色の誓約』の攻略本の最終校正を終えた瞬間、そのままデスクに突っ伏して意識を失った。


 心臓が止まったのは、その三時間後だったらしい。


 過労死というやつである。


 我ながら、あまりにも地味な最期だった。走馬灯もなかった。あったのは、未提出の経費精算と、来週締め切りの次回作の企画書への一抹の罪悪感だけだ。


 そして気がついたら、私は赤ん坊になっていた。


---


 記憶が戻ったのは、十二歳の誕生日の朝だった。


 天蓋付きの豪奢なベッドの中で目を覚ました瞬間、ドバッと頭に流れ込んできた前世の記憶に、私は危うく叫びそうになった。


 ――待って。待って待って待って。


 絹のシーツを両手で握りしめながら、必死に思考を整理する。


 私はヴィオレット・エルミナ・ドラクロワ。ヴェルダニア王国、四大公爵家のひとつ、ドラクロワ家の一人娘。第一王子レオナルド・シグルド・アルヴァレスの婚約者。そして乙女ゲーム『薔薇色の誓約』における、断罪エンドが確定している悪役令嬢である。


 天井の豪奢なシャンデリアを見上げながら、私は深呼吸を一つした。


 落ち着け、桐島澪。いや今はヴィオレットだ。とにかく落ち着け。パニックになった編集者が良い仕事をした試しがない。まず現状把握。それからプランニング。それが私のやり方だ。


 もう一度、深呼吸。


 よし。


 私はこのゲームの攻略本を、自分で作った人間だ。


 シナリオの全容も、各攻略対象のフラグ管理も、ヒロインが踏むべきイベントの順序も、そしてヴィオレット――つまり私――が辿るバッドエンドの詳細も、全部頭に入っている。


 これ以上有利な転生条件が、どこにある。


 絹のシーツを握りしめたまま、私はしばらく天井を見つめ続けた。


 どのくらいそうしていただろうか。ドアが静かにノックされた。


 「お嬢様。お目覚めでしょうか」


 落ち着いた、よく通る声だった。


 「……どうぞ」


 入ってきたのは、赤茶の三つ編みを几帳面に整えた少女だった。年は私より二つ上、十四歳。小柄な体格に、きっちりとしたメイド服。表情は生真面目で、感情が読みにくい。


 マリアンヌ・ベル。七歳の頃から私に仕えている従女だ。


 「おはようございます、お嬢様。本日はお誕生日おめでとうございます」


 「……ありがとう、マリアンヌ」


 私が言った瞬間、マリアンヌの動きが止まった。


 洗面台の準備をしようとしていた手が、中途半端な位置で静止している。


 「……マリアンヌ?」


 彼女はゆっくりとこちらに向き直った。表情は変わっていない。完璧に整った無表情のまま。ただ、その目から、涙が一筋、静かに伝っていた。


 声もない。嗚咽もない。ただ、涙だけが落ちている。


 「……マリアンヌ、どうかしましたか」


 「いいえ」と彼女は言った。声も揺れていない。「なんでもございません」


 「でも泣いていますわよ」


 「目に埃が入りました」


 「朝一番で?」


 「はい」


 私は何も言えなかった。


 マリアンヌはそのまま洗面台の準備を再開した。涙は自分で拭わず、自然に止まるのを待っているようだった。その様子が、なぜか胸に刺さった。


 ――(内心)これは、前のヴィオレットがろくな扱いをしていなかったやつだ。間違いない。


 ゲームの設定の中に、使用人の扱いについての描写はあまりなかった。でも、断罪シーンで王子が読み上げた「悪行リスト」の中に、使用人への横暴、という一文があったことは覚えている。


 マリアンヌが「ありがとう」という言葉に泣くのは、それを言われたことが、ほとんどなかったからだろう。


 私はもう一度、はっきりと言った。


 「マリアンヌ。いつも、ありがとうございます」


 今度は、涙が二筋になった。


 「……お嬢様」


 「はい」


 「本日も、精一杯お仕えいたします」


 「ええ、お願いしますわ」


 マリアンヌは深々と一礼した。顔を上げた時には、もう涙は止まっていた。何事もなかったように、朝の支度を続けている。


 私はその背中を見ながら、チャートに新しい項目を追加した。頭の中で。


 最優先事項:使用人への礼を欠かさない。


 私はゆっくりと上半身を起こし、鏡台に映る自分の姿を確認した。


 銀色の長い髪。紫がかった瞳。十二歳にしてはすでに整いすぎている顔立ち。ゲームのキャラクターグラフィックより全然いい。動いているし、血色もある。それでいて、いかにも「悪役令嬢」然とした、冷たい美しさがある。


 ――(内心)いやマジか。私、めちゃくちゃ美人じゃないですか。


 口から出たのは、「まあ」という上品な感嘆だった。


 十二年間の教育とはすごいものである。


---


 「ヴィオレット! 起きているか!」


 ドアが豪快に開いて、クロード兄さんが飛び込んできた。


 二十歳の若き騎士団副団長は、艶のある黒髪を揺らしてベッドサイドに膝をつき、真剣な顔で私の額に手を当てた。銀髪に黒髪、紫眼に青眼。きょうだいで全然似ていないが、この家はそういう家だ。


 「熱はないな。顔色は……少し青いか。どこか痛むか。いや待て、医者を呼ぶ、今すぐ呼ぶ」


 「お兄様」


 「なんだ」


 「落ち着いてくださいませ」


 内心では『朝から元気すぎる、まだ目が覚めてないんですけど』と思っていた。でも口から出たのはそれだった。


 クロード兄さんは「お前が言うな」という顔をしたが、とりあえず深呼吸した。この人も深呼吸で落ち着くタイプなのか、と思ったが、家族だから当然かもしれない。


 「……誕生日おめでとう、ヴィオレット。父上がもう謁見の間で待っている。早く来ないと泣くぞ」


 「お父様が、ですか」


 「ああ。毎年のことだろう」


 前世の記憶を持っていなかった頃は当たり前の光景だったのだろう。でも改めて認識すると、「王国最強の闇魔法使いが娘の誕生日に号泣する」というのは、かなり情報量の多い文章だと思う。


 「すぐに参りますわ。少しだけ待っていただけますか、お兄様」


 「……分かった。廊下で待つ」


 クロード兄さんが立ち上がりかけた瞬間、私は思い切って声をかけた。


 「お兄様」


 「なんだ」


 「いつも、ありがとうございます」


 沈黙。


 クロード兄さんの耳が、じわじわと赤くなった。騎士団副団長の耳が。


 「……当たり前のことをしているだけだ」


 そう言って、足早に出ていった。廊下に出てからドアをきちんと閉める几帳面さは、さすがだと思う。


 私は小さく笑って、鏡台の前に座り直した。


 ――(内心)お兄ちゃん可愛いな。でもゲームだとめちゃくちゃ怖い顔で王子を詰めるんだよな。あのギャップ、すごかったわ。


 クロード兄さんがドアを閉めた後、マリアンヌが静かに近づいてきた。


 「お嬢様。髪を整えてよろしいでしょうか」


 「ええ、お願いしますわ」


 鏡台の前に座ると、マリアンヌの手が銀髪を丁寧に梳き始めた。慣れた手つきだった。毎朝やってきた仕事の、積み重なった確かさがある。


 廊下から、軽快な足音が近づいてきた。


 ドアがノックもなく開いた。


 「おはようございます、お嬢様! お誕生日おめでとうございます!」


 「ジル」とマリアンヌが低く言った。「ノックをしてください。何度言えば」


 「あ、すみません。でもマリアンヌさんが中にいるから大丈夫かなって」


 「大丈夫かどうかの問題ではありません」


 「はいはい」


 入ってきたのは、金髪を適当に流した長身の青年だった。年は私より七つ上、十九歳。ひょろりとした体格に、人懐こい緑の眼。ドラクロワ家の従僕服を着ているが、どこかに着られている感がある。


 ジル・ファロン。九歳の頃からこの家に仕えている従僕だ。


 「ジル、何か用ですか」


 「いえ、お誕生日のご挨拶をと思いまして。あ、それと昨日の夜、裏庭に妙な人影があったんですけど、片付けておきました」


 「……妙な人影」


 「三人です。たぶん他家の密偵かなって。証拠は回収して、クロード様にお渡しする予定です」


 私は鏡越しにジルを見た。にこにこしている。裏庭で密偵三人を「片付けた」人間の顔ではない。


 「お疲れ様でしたわ。ありがとう、ジル」


 ジルの動きが止まった。


 次の瞬間、両手で顔を覆い、肩が小刻みに震え始めた。


 「……ジル?」


 「だっ、だいじょう、ぶです。お嬢様が俺の名前を呼んで、ありがとうって……っ」


 「マリアンヌ、ジルが壊れましたわ」


 「よくあることです」


 よくあることなのか、と思ったが、口に出すのはやめた。


 マリアンヌは淡々と髪を整え続けている。その目が、わずかに潤んでいるのは、たぶん気づかないふりをした方がいい。


 「お二人とも」と私は言った。「これからも、よろしくお願いしますわ」


 マリアンヌの手が、一瞬だけ止まった。


 ジルは顔を覆ったまま、くぐもった声で「もちろんです」と言った。


 朝の支度は、そうして始まった。


---


 ヴィオレット・エルミナ・ドラクロワ。十二歳。


 魔法属性は闇。ヴェルダニア王国において、闇属性は民間では「不吉の象徴」として忌避される傾向がある。黒魔法、呪い、夜の眷属。そういうイメージだ。


 ただしドラクロワ公爵家は例外だ。代々闇属性の使い手を多く輩出し、「影の守護者」として王家に仕えてきた名門中の名門。闇属性であることは、この家では誇りである。


 私自身も闇属性が嫌いじゃない。だってゲームの中で一番かっこいい演出が闇魔法だったから。漆黒の魔力が渦を巻くビジュアル、最高だった。


 家族構成は父・エドモン公爵、母・セレーヌ、兄・クロードの四人家族。


 父は王国最強の闇魔法使い。見た目は相当威圧感があるらしいが、娘への手紙は毎回便箋三枚。しかも達筆で、最後は必ず「お前のことを誇りに思う」で締まる。


 母は光属性の元侯爵令嬢。王国一の美女と噂される人で、私の「お嬢様言葉」が自動で出てしまう原因はこの人の教育だと思っている。愛情表現が上品すぎて、時々子供には伝わりにくい。


 兄は風属性で騎士団副団長。妹への過保護は異常なレベルだが、本人は「当たり前のことをしているだけ」という顔をしている。さっき耳を赤くしていたくせに。


 そして使用人には、真面目すぎる従女と、お調子者の従僕がいる。二人とも、どうやら前のヴィオレットにずいぶん苦労させられていたらしい。


 総じて、最高の家族と使用人だ。


 ゲームの中でヴィオレットが断罪されるのは、この家の誰かのせいではない。全部、彼女自身の行動の結果だ。だから私が行動を変えれば、結末は変わる。


 問題は、どこをどう変えるか、だ。


---


 朝食の間は、今日だけ特別に薔薇の花で飾られていた。


 父エドモンはすでに上座に着いており、私の姿を見た瞬間に椅子を引いて立ち上がり、目を赤くした。


 四十八歳。長身で肩幅が広く、顎に薄く髭を蓄えている。ドラクロワの闇魔法を使わせれば王国随一と言われ、謁見の間では居並ぶ貴族を沈黙させるほどの威圧感があるらしい。


 その人が今、目を赤くして私を見ている。


 「ヴィオレット……」


 「お父様、まだ何も起きておりませんわ」


 「十二歳になったな……! 昨日まで十一歳だったのに……!」


 「一年ごとにそれをおっしゃっていますわね」


 「当然だ! お前が生まれた日のことを、父は昨日のことのように……!」


 「あなた」


 母セレーヌが、優雅にティーカップを持ち上げながら声をかけた。王国一の美女というのは誇張ではなく、四十三歳の今も息をのむほど美しい人だ。白金の髪と、深い蒼の瞳。光属性らしい、柔らかな輝きがある。


 「ヴィオレットが困っておりますわ」


 「困っていない! 父は感動しているんだ!」


 「お父様」と私は言った。「座ってくださいませ。せっかくの朝食が冷めてしまいますわ」


 エドモン公爵は、娘にそう言われると従う人だった。椅子に座り直しながら、それでも目は潤んでいる。


 クロード兄さんが私の隣に着席しながら、小声で「毎年これだからな」と呟いた。私は笑いをこらえながら頷いた。


 給仕はジルが担当していた。料理を運ぶたびに「お嬢様、召し上がってください」と小声で言ってくる。そのたびにマリアンヌが「黙って仕事をしなさい」と目で制している。この二人のやり取りは、朝食の間中続いた。


 朝食は豪奢だった。焼きたてのパン、季節の果物、澄んだコンソメスープ、薄切りの燻製肉。前世のコンビニ飯と比較するのは贅沢が過ぎるが、毎朝これが出てくることへの感謝は、記憶が戻った今、より強くなった気がする。


 「ヴィオレット」


 食事が一段落したところで、父が改まった声で呼んだ。


 テーブルの上に置かれたのは、黒檀の細長い箱だった。蓋を開けると、中には一本の指輪が入っている。深い紫の宝石が、朝の光を受けてぬめるように輝いていた。


 「ドラクロワ家に代々伝わる、闇属性の魔力を安定させるための魔道具だ。お前の属性が確定した三歳の時から、この日のために取っておいた」


 父の大きな手が、箱を差し出すとき、少しだけ震えていた。


 私はゆっくりと指輪を受け取り、右手の薬指にはめた。指輪が淡く光り、私の魔力と馴染む感覚がした。体の奥、どこか深いところから、何かが静かに整っていくような感覚。


 「……ありがとうございます、お父様」


 「ヴィオレット……!」


 「泣かないでくださいませ」


 「泣いていない! 目に魔力が入っただけだ!」


 「どこからそんな魔力が入るんですか」とクロード兄さんが呟いた。


 母が「まあ」と上品に笑った。


 私も笑った。声には出さなかったが、口元が緩んだのは分かった。


 給仕の位置に立っていたジルが、盆を持ったまま肩を震わせているのが視界の端に映った。マリアンヌが素早くジルの脇腹を肘で突いた。ジルが口を押さえた。


 この家は全員、涙腺が緩い。


 ――(内心)エモい。いやこれ普通に感動する。お父様、ありがとう。


 外に出た言葉は、「心が震えますわね」だった。


 父がまた目を赤くした。


---


 自室に戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 私は机の前に座り、引き出しから羊皮紙と羽ペンを取り出した。書くのは、攻略チャートだ。


 前世の記憶の中から、『薔薇色の誓約』のシナリオを丁寧に引き出す。乙女ゲームの攻略本を作った人間として、このゲームのことは隅から隅まで把握している。どのイベントがいつ発生するか。どのフラグを立てると何が起きるか。そして私――ヴィオレット――がどういう行動を取ると、断罪エンドに向かって加速するか。


 まず、現在地の確認から。


 今は私が十二歳の誕生日。婚約破棄イベントまで、ちょうど三年ある。学園の入学式直後、第一王子レオナルドが「悪役令嬢ヴィオレットの所業」を公衆の面前で断罪し、婚約を破棄する。それがゲームのメインストーリーの起点だ。


 三年。


 編集者として鍛えた逆算思考で考えれば、十分すぎる時間だ。


 ゲームの中でヴィオレットが嫌われる理由は、大きく三つだ。一つ目は、ヒロインへの執拗な嫌がらせ。二つ目は、王子への過度な支配と束縛。三つ目は、社交界での高圧的な振る舞いと、弱い立場の者への冷淡な態度。


 逆に言えば、この三つをやらなければいい。


 ただ、「やらない」だけでは足りない。ゲームの悪役令嬢は行動しない時でも、態度や言動で周囲を委縮させていた。消極的な悪意でさえ、ヒロインを傷つける場面があった。


 つまり私がすべきことは「やらない」ではなく、「別のことをやる」だ。


 羊皮紙の上部に、私は書いた。


 攻略方針・三原則。


 一、ヒロインを敵にしない。むしろ味方にする。

 二、王子に「読めない女」だと思わせ続ける。

 三、自分の周囲に味方を増やし、シナリオの流れごと変える。


 これだ。


 編集者として学んだことがある。面白いコンテンツには人が集まる。そして人が集まるところに、流れが生まれる。そして流れが生まれれば、物語は変わる。


 私というコンテンツを、ヴェルダニア王国で最大限に「面白い存在」にする。それが、私の攻略方針だ。


 チャートを書きながら、ふと手が止まった。


 今日一日で、すでに想定外の情報がいくつも出てきた。マリアンヌの涙。ジルの報告。父の観察眼。使用人たちが前のヴィオレットにどう扱われていたか。


 ゲームの外側には、ゲームで描かれなかった人間がいる。


 当然のことだ。でも改めて実感すると、少し重くなる。


 この三年で変えるのは、シナリオだけじゃない。前のヴィオレットが傷つけてきたものも、少しずつ、取り戻していかなければならない。


 チャートに書き加える。


 最優先事項:使用人への礼を欠かさない。

 注意事項:感情の制御を怠らない。特に王子関連のイベントでは慎重に。

 現時点の変数:父が私の変化に気づく可能性あり。家族の観察眼、予想以上に鋭い。


 次に、目前のイベントを確認する。


 三日後。王立魔法学習院の進級式典。ゲームでは、この式典の後の歓談時間に、私がヒロイン候補の令嬢を公衆の面前でいびるシーンがある。被害者の名前は、エミリア・クロエ・サンクレール。男爵令嬢で、ゲームのヒロインだ。


 観客が多い。王子も見ている。最高に印象が悪くなる場面だ。


 私はペンを持ち直して、チャートにひとつ丸をつけた。


 逆に使えますわ、これ。


 嫌がらせをするのではない。止める側に回る。それも、圧倒的に。


 大事なのは、これが「ヴィオレットというキャラクターの最初の印象」を決める場面だということだ。第一印象は認知心理学でいう初頭効果として長く記憶に残る。ここで「ヴィオレットは違う」と周囲に刻みつければ、その後の行動の解釈が全部変わる。


 チャートに書き加える。


 三日後・進級式典:エミリア・サンクレールを助ける。観客あり。王子に見せる。


 その下に、もう一行。


 最終目標:三年後の婚約破棄イベントを、自分の手で演出に変える。


 ペンを置き、羊皮紙を丸めながら、私は窓の外を見た。ドラクロワ家の広大な庭園に、春の光が降り注いでいる。白い薔薇が咲き乱れ、風に揺れている。


 庭園の隅で、ジルが何かを熱心に手入れしているのが見えた。薔薇の根元を丁寧に確認している。昨夜裏庭で密偵三人を片付けた人間が、今は花の世話をしている。


 不思議な人だ、と思った。


 部屋のドアの近くで、マリアンヌが音もなく立っていた。私がここにいる間、ずっとそこにいたのかもしれない。


 「マリアンヌ」


 「はい、お嬢様」


 「少し休んでいいですわよ」


 「お嬢様のお側にいることが、私の休息でございます」


 私は少し考えてから、「そうですか」とだけ言った。


 それ以上言うと、また泣かせてしまいそうだったので。


 綺麗だ、と素直に思った。


 前世では窓の外を見る余裕もなかった。あったのはモニターの光と、締め切りのプレッシャーだけ。


 この世界に転生したことへの後悔は、今のところない。家族は最高だし、使用人も最高だし、環境は申し分ない。そして何より、私には「結末を知っている」という圧倒的なアドバンテージがある。


 前世の私が徹夜で作った攻略本が、今、私自身の命を救う武器になろうとしている。


 ――(内心)我ながら、これ以上ない転生条件じゃないですか。


 口から出た言葉は、「なんと僥倖ですわね」だった。


 誰もいない……いや、マリアンヌがいる部屋で、上品に。


 私は立ち上がり、背筋を伸ばした。


 さあ。


 悪役令嬢の攻略を、始めましょうか。

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